りんご復活はあるか?

 りんごのうた (CCCD)
過去には斉藤由貴とか、金井夕子とか、最近ではちあきなおみとか、このブログではなんの脈絡もなく俺がふと気になったヒトを取り上げてみたりするんだけど、なぜか、しばらくするとそのヒトが突然芸能活動を再開したり、テレビで特集されたり、CDBOXが発売されたり、というようなことがあるのよね。
 これは俺に予知能力があるとかいうオカルトめいた話じゃなくて、きっと俺が無意識のうちに事前にメディアでそれらのヒトを目にしたりしていて、心の隅に引っかかった人のことを、あとでブログで取り上げたくなる、というだけのことなんだと思う。つまり、メディアである程度「話題に火がつきかけた人」のニュースを、潜在意識の中に取り込んでいたがゆえの結果、ということ。
 今回書こうと思ったヒトは、椎名林檎3年くらい前の日記でも取り上げたんだけど、もともと俺は彼女の大ファンで、それがなぜか最近また気になる存在になりつつあるのよね。デビューからの傑作アルバム3部作『無罪モラトリアム』『勝訴ストリップ』『加ル基精液栗ノ花』は密かに俺のミュージックプレイヤーでヘヴィロテ中だったりして。そして不思議なことに、そう思った矢先にテレビCMで彼女の歌声が流れてきたり(東京事変として)、「椎名林檎」をキイワードにこのブログにたどり着く人がポチポチ現れ始めたりしているのだ。もしかすると林檎ちゃん復活の兆しかも?
 「椎名林檎」単独名義での活動は1998年から2003年の足掛け5年間のみ。彼女は『勝訴ストリップ』あたりから「アルバム3枚で椎名林檎を閉じる」という発言をしていたとおり、第3弾『加ル基精液栗ノ花』以降はバンド「東京事変」の唄い手担当として表舞台から退いた格好に。いわば同時期にモー娘。に強制加入させられた藤本ミキと同じ状態ではあったのだけれど、ソロでやりたいことをやり切ったあと、バンドに同化することで自ら幕引きをした林檎ちゃんは、話題先行であざとさばかりが見えたハロプロの騒動より断然カッコ良かったよね。例えば、いくら才気溢れるアーティストでも、時代の寵児としてもてはやされたとしても、やがては飽きられ、忘れ去られていく。おそらく椎名林檎は最初からそれを計算に入れたうえで、なおも自分の可能性にチャレンジし続けていくための最良の方法として、バンド・ボーカリストという「別人格」になりすます方法を選んだのだろう。アルバム曲のタイトルをシンメトリー配置にしたり、アルバムの収録時間を55分55秒というキレイな数字に収めたりといった、何でもないところにも「シカケ」を施すことに命を掛けていた林檎ちゃんのこと、その後の自分自身のヒストリーさえ、すべて計算ずくで進めていったとしても何ら不自然ではないような気がする。
 いま椎名林檎のソロ5年間を振り返ると、5年で封印されているからこそなおさら、その充実ぶりに驚かされるばかり。「本能」でのナースコスプレ、「罪と罰」では革ジャンに日本刀、「茎(STEM)」では花魁、といったビジュアル面での衝撃。今になって思うのだが、いわゆる自作自演系のアーティストであれほどにビジュアルでもキマッていた女性は、彼女を置いてほかにはいなかったと思うのだ。音楽面においても、古典楽器を効果的に使って極限まで作り込まれた『加ル基精液栗ノ花』の高度な音楽性は言うまでもなく、一見粗削りでノイジーなバンドサウンドの初期作品でも、ギター代わりの生ピアノがとてつもなくカッコいい「丸の内サディスティック」や「本能」、ゴリゴリしたストリングスが耳に残る「闇に降る雨」など、一筋縄ではいかない凝った音作りに今更ながら驚かされる。それ以上に、複雑なコード進行に乗って縦横無尽にメロディーが舞う「虚言症」や、聴くほどにそのメロディーの美しさに酔わされる大ヒット「ギブス」をはじめとして、作曲家・椎名林檎の天才的な曲づくりの才能は、ソロ時代の三部作をいま聴けば聴くほどにその凄さが際立ってくる感じだ。
 東京事変以降の椎名林檎は、本人が「ムード歌手」「軽音楽家」と名乗るとおり、ロックやポップスといったカテゴリーをすでに逸脱した印象があり、そこには何か肩の荷がおりた後の才能の開放のみがあって、ソロ時代のような排泄せずにはおれないマグマ溜りのようなエネルギーが感じられないのは事実だ。
 しかし、それで良いのだとも思う。あまりに完璧で濃密な5年間は、封印されていればこそ、輝いているような気がするからだ。林檎復活、そろそろその機運が高まってくるかもしれないけれど、それはあの5年間の「再評価」という形でしかありえない、俺はそう思うのだ。