濃蜜・林檎汁。〜椎名林檎『日出処』

 ああ、またもヘビロテ。林檎ちゃんの思う壺。
 椎名林檎名義でのオリジナルとしては『三文ゴシップ』以来、5年半ぶりとなる新作。実はhiroc-fontana、先行リリースのような形になった、他者への提供曲をセルフカバーしたアルバム『逆輸入〜港湾局〜逆輸入 ~港湾局~ (初回生産限定盤)も、もちろん先に購入してそれなりに愛聴してはいたのだけど、正直な感想として“林檎ちゃんも、もうピークを過ぎたな”という思いで居たのだ。だから、かの作品については、このブログでのレビューは諦めていた。
 でも、真打登場、という感じでリリースされたこのオリジナル作品集から受けた衝撃は、あまりに痛快で「やはり林檎は、天才。」を再認識するには十分過ぎた。
 唯一無二。本物のロックであり、ジャズであり、そして本人いうところの「歌謡」。音楽のあらゆるエッセンスが凝縮されて、何物でもない「椎名林檎のミュージック」になっている。それが支離滅裂で難解なものかと言えば、全く逆で、しっかりとポピュラー・ミュージックとして成立している処が味噌。
 ギュンチャカとノイジーに鳴り響くギターに流麗なストリングスがからみ、セクシーなブラスがオブリガートを奏でる。そして相変わらず扇情的な林檎ボーカル。
 もはやファンにとっては聴き慣れた林檎サウンド(濃密リンゴジュース)でありながら、3回、4回と聴き直すうちに、デビューから15年を経て更に進化(深化)した音楽が出来上がっていることに気付く。そして、結局はヘビロテ。
 聴くほどに浮かび上がってくる、各曲のメロディーの美しさ。それらで終始、張り詰めたテンションで畳みかけるアイデア満載かつどこか退廃的なコード進行からは、いまだこの世は「世紀末」の様相であることを気付かされるかの如く。曲間のブランクなく組曲のように緻密に構成された13曲の最後に控えるのは傑作シングル「ありあまる富」。文句のつけようのない構成。
 この作品、作詞、作曲は勿論、殆どのアレンジも自ら手掛け、音楽家椎名林檎の只ならぬ意気込みが感じられる。また作品毎に演奏陣の顔ぶれが入れ替わり(Dragon AshやらGOING UNDER GROUNDやらゲスト陣も豪華)、バンドサウンド(ギター・ベース・ドラムス)を基本としながら曲ごとに見事に空気が入れ替わっているのもスゴイところ。いまみちともたかが奏でるガットギターの透明感が素晴らしい「ありあまる富」をはじめ、「走れ わナンバー」でのフルートや「いろはにほへと」ではチェンバロなど、耳を惹く楽器のアイデアも秀逸。脱帽です。
 そして椎名林檎と言えば忘れてならないのは、歌詞。文学的でいてトリッキーで奥深いその詞世界は一層研ぎ澄まされて、聴くほどに心に響いてくる。“適切な関係、適切な姿勢 できていると言い張れる奴こそ図々しい”(「静かなる逆襲」)、“気分と合理の両方で迷って居るよ”(「自由へ道連れ」)、“降り込んだ雨の率直さは、自由と不自由とを、分け入る様。”(「走れ わナンバー」)と、前半は何事も裏表、欺瞞に満ちて混沌とした現代社会の狭間で悶々としながらも、アルバムの中心に収められた作品「」で初めて“これ以上は有り得ないわ 私達は二つで一つ もう完成しているから”と相反した者・物たちとの融合を示唆して、そこから後半はひとりの女性として母として、すべてを悟り、あたかも清濁すべて呑み込んだような世界観へと曲の方向性が変わっていく。この構成も見事だ。
“気高いあなたもこの大自然の一端ね”(「いろはにほへと」)。
“あなたの命を聴き取るため、代わりに失ったわたしのあの素晴らしき世界。”(「ありきたりな女」)。
“何故なら価値は命に従って付いている”(「ありあまる富」)。

 聴いたあとで林檎ちゃんのインタビュー記事を読んで、やっぱりそうだったのか、と思わず膝を叩いたのだ。 
 この人の音楽への向き合い方は、ハンパじゃなかった。やっぱり!
 同じく世紀末にセンセーショナルなデビューを飾ったもうひとりの天才、「宇多田ヒカル」を、未だ“同志”としてリスペクトし、その抜けた穴を自分がカバーしてみせようという、音楽家(ミュージシャン)としての矜持。高飛車とも捉えられかねないそうした発言を堂々と述べる彼女の在り様も、痛快でたまらない。
 前作のレビュー記事の結びで書いた「否が応にも今後の林檎さんに期待してしまう」予感は、的中。