ギフト〜夢の代償

 人間は夢の大きさと現状の満足とのバランスで生きている。
 簡単な話なのですが、若いころは、夢さえあれば、現状がどれほど悲惨でも何とか生きていける。それでも歳を重ねるごとに、かつて抱いてきた夢のほとんどは萎(しぼ)んでいくのは当たり前。その代わり、自分なりには相応の経験値を積んできたという自負と、現状の(それなりの)満足感で、人は壮年期以降を生きていけるのかもしれないな、なんてことを最近思っています。
 少子高齢化が進むこの国で50代を迎えた私の周囲も、当たり前のように人生の後半期を迎えた友人、知人たちで溢れています。とは言えカウントダウンが始まった人生に対峙している今、皆が悲壮感を漂わせている人達かというと全くそんなことはなく、そのほとんどが実に穏やかにありのままにそれぞれの人生後半期を受け入れているような気がするのです。それは勿論、成熟したこの国だからこそ許されることなのかも知れませんし、その中でもたまたま私たちが東京という、壮年・高齢者が生活するには恵まれた環境に身を置いているからかもしれません。
 何歳になっても大きな夢を追い続けることが出来たら素晴らしい事であることは間違いありません。それを否定するつもりはないのです。しかし一言で夢と言っても、社会的な成功や名声を得ることばかりではなく、たとえ平凡であっても自分をありのままに表現しながら回りの人びとと円満な関係を結ぶことが夢の実現と考える人も少なくないでしょうし、自分の夢は家族がいつまでも幸せに暮らすことである、という方だっているでしょう。いえ実際、私の周辺にいる50代以降の友人・知人たちは、後者の方が大部分だったりします。私を含めて。
 夢の主役が、いつの間に自己ではなく家族になりやがて他者との関係性にまで広がっていく。それは年齢とともに私欲が少なくなり、それまでの経験から、自分にも周囲にも過度な期待をかけなくなるからなのでしょう。同時に、平均寿命から導き出した自分の余命を考えたとき、敢えて“攻める”よりも、たった今幸運にも授かっているものを大切に守っていきたいという、防衛本能に知らず知らずのうちに支配されてしまっている、ということもあるように思います。
 いずれにせよ、やがて訪れる“死”を一方ではリアルに想像しながら、日々を明るくそれぞれに精一杯生きている友人たちを横目に見るたび、人間って逞しい、としみじみ感じているこのごろです。
 人は「意識」を持つがゆえに、人生の終盤に差し掛かると失うものばかり日に日に増えていくことを痛いほどに自覚せざるを得ません。犬や猫が死の直前に死期を予感したかのような行動を見せるエピソードはよく耳にもしますが、多くの場合、動物は「老い」を憂うことなどなく死んでいきます。でも人の場合、老いによる喪失感を受け入れつつなお、それまでに得られたものを糧にどうにか明るく生きてゆける。自分自身が人生の後半を迎えて初めて、それは「ギフト=贈り物」であるということを実感しています。
 日本ではつい半世紀まえくらいは人生50年が当たり前だったことを考えれば、50才を超えてなお健康で笑って過ごせていることだけでもラッキーなのかも知れません。
 西城秀樹さんが闘病の末に63歳で亡くなられたニュースに触れて、いよいよリアルに、そうした運命が自分自身や自分の大切な人にいつ訪れてもおかしくないことであって、たまたま健康で毎日を過ごせていられる自分の運命に感謝しないといけない、と思わざるを得ないのです。
 ふと、大好きなユーミンさんの曲の、こんなフレーズが耳に止まりました。

人は何も持たずに生まれ 何も持たずに
去ってゆくの
 それでも愛と出会うの
 (YUMI MATSUTOYA「Midnight Scarecrow」1997年)

 ユーミンはやっぱりスゴイです。