【臨時掲載】 京都の市電をまもる会、回顧と展望〜歴史文化都市京都には路面電車がよく似合う〜、同志社大学人文科学研究所第83回公開講演会から

 2014年11月8日(土)の午後、同志社大学人文科学研究所主催の第83回公開講演会が今出川キャンパスのクラーク記念館クラーク・チャペル(国の重要文化財、1979年指定)であった。タイトルは「市民化する住民、開発と公害に生きる」、講演者は藤井祐介氏(大谷大学非常勤講師、日本思想史)、小堀聡氏(名古屋大学準教授、日本経済史)、そして広原(都市計画・まちづくり論)の3人だった。

この講演会は、同大人文研の共同研究発表会として催されるもので、その1つである「高度成長史研究会」(代表、庄司俊作人文研教授)が開催したものだ。私にもたまたま研究会で「京都の市電をまもる会」の報告をするようにとの要請があり、参加したことが切っ掛けになって今回の発表会の一員に加えていただくことになった。大変光栄なことだ。

発表と討論は5時間という異例の長時間にわたって行われた。それでも重要文化財の建物の硬い椅子に座った方々の多くは最後まで熱心に討論を聴いておられた。高齢者の方も多かっただけにきっと辛かったであろうが、講演者の熱意と気持ちに応えていただいたものと感謝している。研究者冥利に尽きると言うほかはない。本来であれば、新進気鋭の若手研究者である藤井・小堀両氏の発表も紹介すべきであるが、ここでは紙面も限られるので私のレジュメだけを掲載することをお許しいただきたい。なお興味のある方は、2、3ヵ月後に同大人文研から講演会の内容をまとめたブックレットが発行される予定なので参考にしていただきたい。

以下に掲載するレジュメは、文章化してあるのでそのまま読んでいただければわかると思うが、なぜこのようなレジュメをつくったかについて若干説明したい。「京都の市電をまもる会」の市民運動は、現代の路面電車復活と再評価のさきがけとなった歴史的運動であり、そこで展開した「市電撤去反対の論理」は現代の都市交通論およびまちづくり論としても立派に通用するものだ(と自負している)。しかし全国各地で路面電車の復活が相次ぎ、京都でも繰り返し復活プロジェクトの提案があるにもかかわらず、「市電をまもる会」の運動が振り返られることがない。これは京都にとっても市民にとっても「もったいない」ことではないかと思い、そこで「市電をまもる会」を単に回顧するだけではなく、将来展望の一環として「京都都心回遊路線」の新設構想を提案することにした。

この都心回遊路線構想は、京都の都心部(いわゆる「田の字型」都心を一部拡張したエリア)を取り囲む幹線道路、御池通堀川通五条通川端通を左回り(内回り)する単線・一方通行の路面電車路線を新設するというデモストレーション・プロジェクトである。「デモストレーション=社会実験プロジェクト」の意図するところは、この提案が切っ掛けになって「京都に路面電車を復活させる市民フォーラム」が生まれ、そこでの自由闊達な討論と情報交換を通して路面電車復活の可能性(実現性)を広げることにある。このプロジェクトに興味がある若い人たちの間で私の提案が討議されることになれば、これに勝る喜びはない。     

【附資料】 京都の市電をまもる会、回顧と展望〜歴史文化都市京都には路面電車がよく似合う〜
       
はじめに
いまから約40年前、1971年から78年の8年間(準備期間を含めれば10年近く)にわたって展開された「京都の市電をまもる会」(以下、「まもる会」という)の市民運動は、その水準においても結集された市民エネルギーにおいても1970年代の日本を代表する市民運動だった。日本で最古の歴史を持つ路面電車京都市電を全廃するという市交通局(市当局、市議会)の市電廃止計画に対して広範な市民が立ち上がり、8年間にわたる強力かつ粘り強い反対運動が展開された。残念ながら京都では市電廃止を阻止することができなかったが、その運動はマスメディアを通して広く全国に伝えられ、市電廃止を検討していた各都市に深刻な反省と再検討の機会を与えることになった。同時に「まもる会」と全国各地の市民運動との連携が、全国の市電存続の一大契機となったことも特筆される。
私は「まもる会」の事務局長として10年近くこの運動に奔走したが、研究蓄積が要求される若手時代に多大の時間とエネルギーを運動に割かねばならなかったことは大変辛かった。だが現在、路面電車が世界的に見直されて全面的に復活し、日本においても数々の復活プロジェクトが進んでいることを思えば、その努力が無駄でなかったことを率直に喜びたい。また今回「まもる会」の経験を語ることになったことを契機に、京都に路面電車を復活させる新たな構想についても提案したい。

Ⅰ 市電廃止反対は歴史的先進性を担った市民運動だった
 「まもる会」の運動の際立った特質は、市電の持つレトロな魅力を後世に残そうとする「鉄道友の会」などの懐古趣味的な運動ではなかったことだ。それは当時「時代遅れの乗り物」とされていた市電の優れた機能をまちづくりの視点から再評価し、市電存続を契機にして京都をモータリゼーションによる都市破壊(街壊し)から守ろうとする歴史的先進性に立脚したものだった。
「まもる会」の運動はまた、それに先立つ「京都タワー建設反対運動」(都市景観をめぐる日本最初の本格的な市民運動、1964年)の中心メンバーが多数参加したように、京都の優れた歴史景観と文化そして生活様式を継承しようとする市民運動の一環でもあった。「まもる会」の運動が京都を愛する多くの市民の共感を得たのはそのためであり、8年もの長期間にわたって市民運動を続けることができたのもそれゆえである。
 市電すなわち路面電車の優れた特質と性能は、「世界の路面電車の旅」といったテレビ番組で日々紹介されることで現在は広く知られるようになった。そのなかで路面電車が単に交通機関として「便利で心地よい乗り物」であるばかりでなく、都市の存在にとっては不可欠な「街によく似合う乗り物」であることが次第に認識されるようになってきた。街全体の景観や雰囲気と一体となった軽快でエレガントな路面電車は、市民生活にとっての「便利な乗り物」であるばかりか、その街を訪れる観光客にとっては「都市のアメニティ」を象徴する存在となり、都市の品格や文化を世界に発信する有力なツールとして評価されるようになったのである。
 「まもる会」は京都の市電をそのまま残そうと主張したのではない。当時の市電は車両も古く軌道もガタガタで「ガタビシ市電」といわれ、乗り心地はそれほど快適なものではなかった。多くの市民もそんな状況を見て、市電が「時代遅れの乗り物」だと思っていたに違いない。都市のモータリゼーションを推進する時代が市電の技術改良とメインテナンスを妨げ、市電をスクラップ寸前の代物に追い込んでいたからである。都市計画の分野でも自動車高速道路が張り巡らされた都市こそが近代都市であり、市電を撤去して高速道路を建設することが都市の成長と近代化につながるとの主張が圧倒的だった。高度成長期は土木工学的都市計画が学会も世論も支配した時代だった。
 「まもる会」はそんな世論に抗するべく、京都の市電を存続させる運動と並行してヨーロッパ(ドイツ、オランダ、ベルギー、スイスなど)の高性能路面電車(LRT)の紹介に力を注いだ。現地調査を精力的に行い、京都の市電とは「天地の差」があるヨーロッパの路面電車の性能の高さ、自動車交通を規制して路面電車の通行を優先する人と環境にやさしい都市交通政策の意義、都市のたたずまいと調和する路面電車の優れたデザインなど、京都の古臭い「市電イメージ」を刷新することを何よりも重視した。京都に高性能路面電車を導入すれば、京都の都市交通の改善はもとより京都のまちづくりにとっても画期的な成果をもたらすに違いないと、市民にはもとより市交通局や市議会に対しても何度も説得を試みた。

Ⅱ 路面電車はなぜ優れているのか、その特質と性能
【電気エネルギー、無公害性】
現代的都市交通機関としての路面電車には数々の優れた特質と性能がある。「まもる会」が最初に強調したのは、市電がクリーンな電気エネルギーで動くという「無公害性」だ。内陸盆地である京都は寒くなるとしばしば「逆転層」が発生する。「逆転層」というのは地表の空気が冷やされて対流が起こらず、京都盆地がすっぽりと「空気の蓋」で覆われてしまう気象状態のことだ。そんな気象条件のもとで自動車交通が増加すると、排気ガスが地表近くにトラップされて大気汚染が一挙に激化し、京都はまるで「燻製状態」になる。
このような事態を避けるためには、自動車交通をできるだけ減らして排気ガスを抑制しなければならず、そのためにはクリーンな電気エネルギーで走る市電を残さなければならない。鉄道技術は、蒸気機関ディーゼル機関→電車というようにエネルギー的には効率性を重視し、環境的には低公害性を目指して着実に発展してきた。にもかかわらず、なぜ都市交通だけはわざわざ電気で走る市電をガソリンエンジンの自動車に変えるのか。これでは技術の進歩・発展に逆行する反社会的・反歴史行為ではないかと「まもる会」は主張したのである。

バリアフリー、福祉性】
第2のポイントは、市電が高齢化社会の乗り物にふさわしいという「バリアフリー、福祉性」だ。今でこそエースカレーターやエレベーターが設置されていない駅は少なくなったが、当時の地下鉄は東京でも大阪でも階段での昇り降りが普通だった。都営地下鉄などはビル数階分の階段を昇り降りしなければならず、地下鉄内で高齢者の姿を見かけることは滅多になかった。
この点、京都では着物姿のお婆さんや子供連れのお母さんが毎日のように市電を利用していた。乗り降りに水平移動すればよい路面電車は、高齢者はもとより幼児を連れたお母さんたちも負担が少なくとても利用しやすかった。ヨーロッパでは乳母車や車椅子を車内に持ち込むこともできるし、そのための専用スペースも用意されている。市電は「人に優しい乗り物」であり、日本の未来社会である「高齢化社会の乗り物」だと「まもる会」は主張した。

【面交通機関、利便性】
第3のポイントは、ちょっとした近距離を移動するには市電は便利この上ない乗り物だという「利便性」だ。都市交通には大きく分けて性格の異なる「線交通」と「面交通」がある。「線交通」すなわち通勤・通学などの大量交通には郊外鉄道や地下鉄などの大量輸送機関が適している。しかし、買い物、通院、娯楽、観光、集会、ビジネス、訪問など一定区域内をあちこちランダムに動く「面交通」に対しては、短い駅間隔で絶えず発着する市電が最適交通機関なのだ。
東京・大阪などで都心部を移動するとき、数駅も離れていない近距離なのにわざわざ地下鉄を利用しなければならないのは苦痛でしかない。この程度の距離であれば、市電を利用した方がはるかに短時間で済むし身体の負担も少ない。急ぐ時はタクシーを利用すればよいが、そうでない時には市電をちょっと利用するのが一番便利なのである。

【省エネ・省空間、公共性】
都市は大勢の市民がともに暮らす生活空間であり公共空間だ。都市はまた長年にわたって持続的に形成されてきた歴史空間でもある。この都市の生活性、公共性、歴史性を尊重しながら、調和の取れた都市空間をサステイナブルに発展させることが本来の都市計画であり、まちづくりの理念でなければならない。
ところが不思議なことに、モータリゼーション時代の高度成長期には道路を広げて自動車交通をスムーズにすることが、あたかも「都市計画の全て」であるかのような主張が支配的だった。アメリカには都市全体に占める道路面積と駐車場面積が60%にも達する大都市がある(ロスアンゼルスなど)、それに比べて日本の都市の道路率は僅か20%にも満たない、だから道路を拡張しなければ「近代都市」とは言えないし、都市の経済成長も覚束ない――。こんな乱暴な主張がマスメディアを独占していたのである。
しかし、マイカーの空間効率性は著しく低い。また1人あたりのエネルギー効率性も恐ろしく低い。マイカー中心の都市計画では狭い道路を幾ら広げても交通渋滞を解消することはできないし、エネルギーの無駄遣いを改善することもできない。都市は自動車のために(だけ)あるのではなく道路は都市空間の一部にすぎない。道路を広げるために沿道の土地利用や景観を破壊することは間違っている。道路が狭いのであればそれにふさわしい市電を優先通行させ、自動車交通を規制すればよい。市電が交通渋滞の原因ではなくマイカーの増加が主たる原因なのだ。限られた生活空間であり公共空間である都市空間を効率的に利用するには、「省エネ・省空間」の公共交通機関である市電を活用するのが最も効果的だと「まもる会」は主張した。

【地上空間、文化性】
都市交通は、都市のアメニティを表現する「文化性」を持たなくてはならないというのも「まもる会」の主張だった。都市の中で一番美しいのは「地上空間」であり、その地上空間を走るのが市電なのである。地下鉄は高速大量輸送機関であるが、お世辞にも文化的な乗り物とは言えない。暗闇の中を走るだけの車内からは美しい都市景観を望むことなど不可能であり、むしろアメリカの地下鉄のように治安上の問題も多い。
京都は世界文化遺産にも多くの史跡や建物が登録されている世界有数の歴史文化都市だ。この街で暮らす京都市民はこの優れた環境をこの上なく誇りに思い、そして心から愛している。京都は交通信号に気を取られるだけの自動車都市であってほしくないし、地下鉄で移動するだけの機能都市であってもほしくない。街と市電が一体化した歴史文化都市が京都なのであり、京都には「路面電車がよく似合う」のである。
このような路面電車を文化的アプローチから捉える主張は、最近になって一段と影響力を増してきている。ヨーロッパはもとよりアメリカでも路面電車が最近復活している最大の原因は、路面電車モータリゼーションによって荒廃した都市空間を再生させる有力な手段であり、路面電車の導入が街の様相を変える大きな契機になっているからだ。路面電車に乗って街の様子をゆっくりと眺めながら目的地に向かう。目的地ではあちこち気ままに歩いて街の生活や雰囲気を楽しむ。このような「ゆとり」と「アメニティ」がある都市が私たちを惹きつけ、「そこに住みたい」「訪れたい」との気持ちを掻き立てるのである。
高度成長期に持てはやされた機能的なだけでゆとりのない自動車都市は、いまや魅力を失って急速に衰退の道を歩んでいる。高速道路が縦横に走り回る自動車都市の市街地は交通用地の「残余空間」でしかなく、都市としての「アイデンティティ」を喪失した「抜け殻」のようなものだ。いま世界では自動車がなくても住める「コンパクトシティ」「歩いて暮らせる街」が注目され、若者たちが「カーフリー」のライフスタイルを選択するようになってきている。高速道路に囲まれた自動車都市の駐車場の一角に住むことなど、もう誰もが見向きもしない時代になったのである。

Ⅲ 市民の圧倒的支持を得ながら、市電廃止を阻止できなかった理由
 「まもる会」の市電廃止反対の主張はあっという間に多くの市民の共感と賛同を得た。「まもる会」結成の呼びかけ人には京都の有識者のほとんどが参加されたといってもよく、科学者運動以外は滅多に参加意思を表明されない湯川博士夫妻も率先して呼びかけ人になられた。京都の老舗からも多額のカンパが寄せられた。こうして「まもる会」の市民運動は1971年4月の発足以来、文字通り京都挙げての大運動に発展した。
それから10カ月に亘る署名運動は圧巻だった。京都中が「市電撤去計画の再検討を求める請願署名」であふれ、市役所や市議会は廃止反対を要請する市民行動で埋め尽くされた。少なくとも25万人を下まわらない市民がこの署名運動に参加し、また1975年の暮から翌年の1月にかけて展開された「市電存続市条例改正直接請求署名」は、市内有権者の1/4を上回る27万人の署名を収集した。いずれもこの運動を支持してくれる市民諸各層や各種労組・団体の力強い活動の成果だった。
だが「市電撤去計画再検討請願署名」は1971年12月25日の市議会で自社公民4党の手によって葬られ、「市電存続市条例改正直接請求署名」は1976年2月19日の市議会で船橋市長および4党の手でいずれも一切の討論ぬきで否決された。こうして1978年9月30日、烏丸車庫で市電の終電を抗議集会の中で見送り、「まもる会」の運動は事実上幕を閉じた。
 これだけ大きな市民の支援を得ながら、市電廃止を阻止できなかった理由はいったいなにか。まず挙げなければならないのは、高度成長期にはモータリゼーション政策が中心に据えられ(自動車産業の育成が高度成長の基本)、日本中の都市計画が高速道路及び地下鉄建設一色となったことだ。このため大都市では市電廃止が都市計画の前提となり、大阪が1969年、神戸が1971年、横浜が1972年、名古屋が1974年にそれぞれ市電が全廃され、東京では荒川線を除いて都電が1972年に廃止された。
京都でも高山市長の下で1964年から都市交通体系の見直しが始まり、その後の「京都市長期開発計画案」には市電廃止と地下鉄・高速道路建設がセットになっていた。またちょうどその頃、第61国会で「地方公営企業法改正案」が可決され、市電の赤字補填など地方公営企業が政府から財政援助を受けようと思えば、「財政再建計画」という名の厳しい合理化計画(市電廃止)をのまざるを得ない制度が成立した。既に市電廃止方針を決定していた市交通局はこの制度にとびつき、1966年暮の市議会の議決を経て、1967年1月に「財政再建団体」として自治大臣指定を受けた。こうして「外堀」(市電廃止方針)と「内堀」(財政再建団体指定)を埋められた京都は、当局も市議会も一路市電全廃に走ったのである。
そうとはいえ、市電廃止反対の市民運動がもっと早くから立ち上がっていれば、「京都なら」市電廃止を阻止できたかもと今更ながら思わずにはいられない。しかし私たちが行動を起したのは、1973年度末までに市電を全廃することが決定された1970年11月市議会の後で余りも遅かった。せめても枝線の伏見線廃止(1970年3月)までになんらかの行動を起していれば事態は少し変わっていたかもしれないが、結果は「後の祭り」だった。
では、なぜ市民運動の立ち上がりが遅かったのか。その有力な原因のひとつに都市計画・まちづくり分野での研究の遅れがあると思う。当時は(いまも)モータリゼーション至上主義の都市計画理論が現実の進行とともに学会を席巻し、これに批判的な潮流は片隅に追いやられていた(いる)。そのような思想状況の下で、研究を始めたばかりの若手研究者が市電廃止の影響を的確に予測することは必ずしも容易ではなかった。
もうひとつの原因は研究者と市民の間の垣根が高く、その結びつきが比較的可能な都市計画・まちづくりの分野でも「市民参加のまちづくり」の経験がほとんどなかったことである。研究者が市民や住民とともに調査し計画を立てることは「学問の中立性に反する」といわれていた時代だった。だから、市電廃止反対の旗印を掲げて市民運動と連携し、研究上も学問的正統性を主張することには大きな障害があり、それが市民運動の立ち上がりの遅れにもつながった。
しかしながらそれを何とか乗り越えたのは、日に日に深刻化する公害問題の進行やこれを加速する大型開発プロジェクトへの危機感からだった。「天、地、人」という言葉があるが、モータリゼーションによる都市破壊・環境破壊が深刻化する情勢の下で(天)、日本最古の歴史を持つ京都市電を(地)、市民とともにまもることは(人)、時代の要請でもあり歴史的必然性でもあったのである。

Ⅳ 路面電車新設構想、「京都都心回遊路線」の提案
ともあれ時代は変わり、市役所の発想も変わった。京都ではいま「歩く街」が標榜され、四条通では車道削減による歩道拡幅も始まろうとしている。この動きをもう一歩進めれば、その先に路面電車復活が見えてくることは誰でもわかることだ。この際、私は時代の流れに合わせて歴史文化都市京都の新しい魅力のシンボルとなるデモストレーション・プロジェクトを提案しようと思う。名付けて「京都都心回遊路線」(御池通堀川通五条通川端通)の路面電車新設構想である。提案の骨子は以下のようなものだ。

(1)京都の都心部を取り囲む幹線道路、御池通堀川通五条通川端通を左回り(内回り)する単線・一方通行の路面電車路線を新設し、これを「京都都心回遊路線」と名付ける。単線・一方通行・左回り(内回り)とするのは、既存道路の車道削減幅を最小限にするためであり、路面電車の運行をスムーズにして(右回りは信号待ち時間が長い)交通流を妨げないためである。また幹線道路の内側歩道を乗降場として利用することで、利用客が車の通行に妨げられずに安心して乗り降りできるメリットもある。

(2)都心回遊路線の距離は約5キロ、停留所(乗降場)を300メートル間隔で設置すると18停留所ができる。軌道敷内の自動車通行・駐車を禁止し(ただし道路沿いビルや商店の荷物の般出入は自由)、路面電車の表定速度(乗降時間を含めた1時間あたりの走行速度)を少なくとも時速12〜15キロは確保する。こうすると20〜25分程度で都心部を1週できることになり、反対方向(右回り)に行きたい人でもこの程度の時間であれば抵抗を感じることなく「回遊」できる。

(3)各停留所に常に路面電車が見える(止っている)ような便利で安心できる状態を維持するため、車両編成は各停留所の数に見合う数とし、予備車両を含めて20編成程度を用意する。車両は最新式の大型2両連接車、定員60〜70人であればゆったりと座れる。京都の街を滑るようにエレガントに走るモダンでシックな路面電車が登場すれば、それが京都の「新しい風物詩」となることは間違いない。

(4)建設コストは、軌道敷設費用が1キロあたり5億円で25億円、車両購入費は1編成2.5億円で50億円、車庫と変電所は現在あまり利用されていない市役所前の地下駐車場を再利用するとして工事費15億円、その他停留所の設置費用や道路標識の変更など諸々で5億円、合わせて95億円程度で実現できる。これは道路工事関係や各種開発事業のコストに比べれば「驚くほど安い」といっても過言ではない

(5)新しい「京都都心回遊路線」構想は、京都内外の市民から大いに歓迎されると予測できる。関連して多彩なアイデアコンペが企画されてよいし、路面電車や停留所のデザインが公募されることも考えられるだろう。また路線や路面電車の愛称などが市民提案で実現すれば喜ばしい。いずれにしてもそれが京都のさらなる「イメージアップ」につながり、京都が歴史文化都市でありながら「新しい街」として進化を続ける切っ掛けになればと思う。

【注】なお「まもる会」の詳細な活動記録については、拙稿「古都に路面電車を残したかった」(『鉄道ピクトリアル』通巻356号、1978年12月臨時増刊号、京都市電決別特集)を御覧いただきたい。またインターネット検索では、拙稿のタイトルをそのまま入力すると見ることができる。