「ヒト」(被災者救済)よりも「ハコモノ」(インフラ整備)を優先する復興都市計画の悲劇、神戸新聞連載記事で明らかになった恐るべき「神戸市役所一家=市役所共同体」の体質(2)、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その12)

 阪神・淡路大震災の発生後間もなく、大阪で開かれた土木学会の緊急シンポジウムに参加した時、主催者の冒頭発言に思わず慄然とした記憶がある。それは開催趣旨を説明するなかで主催者の口から飛び出した「今回の大震災の復興は難しい。それは市街地がまだらに焼け残っているからだ」という言葉だった。

この発言を聞いた時、私は一瞬身体が凍るような気持ちに襲われたが、さらに驚いたのは、会場の参加者(役所関係の土木建設技術者が多かった)がこの発言に大きく肯いたことだった。そこには焼け残った市街地の存在を不幸中の幸いとして喜ぶのではなく、「全部焼けてくれた方が後の復興はうまくいく」との考え方が色濃く流れていたからである。

「ヒト」(被災者救済)よりも「ハコモノ」(インフラ整備)を重視する復興思想は、神戸市に限らず土木分野や都市計画畑のなかで連綿として受け継がれてきた伝統的な考え方だ。日本の都市や市街地は無秩序な状態にある、しかし平常時には大規模な再開発事業を行うことは難しい、だから災害で市街地が焼けるような非常時には機を逃さず都市計画を決定し、幹線道路の建設や市街地整備を断行して都市の秩序を取り戻さなければならない――。こんな計画思想が大学教育の中でも役所の仕事の中でも一貫して受け継がれてきた。

しかもそれが単なる計画思想ではなく、関東大震災後の首都特別都市計画や太平洋戦争で壊滅した全国都市の戦災復興都市計画としての「実績」を持ち、かつ法令、予算、人員などの制度的裏づけによって行政実務として執行されるような体制になっているのである。だから真面目で仕事熱心な役所人間(とりわけ建設部署)であれば、阪神・淡路大震災のような事態に遭遇すれば、とかく「この機を逃さず」といった心境に陥るのはわからないでもない。

しかし神戸市の悲劇は、長年の宮崎市政の展開によって「開発主義」が行政哲学(テクノクラシー)として庁内に隈なく浸透し、それを都市計画の推進によって実現するという行政手法が確立していたことだ。そして宮崎市政の後継者としてトップに立ったのが土木技術者出身の笹山市長であり、その笹山市長時代に奇しくも阪神・淡路大震災が発生したのである。

地方自治体の首長は、憲法地方自治法にもとづく「全体の奉仕者」としての姿勢と見識が求められる。だが「デモクラシーよりもテクノクラシー」を標榜する神戸市役所一家にあっては、社会の常識は通らない。前述の神戸新聞連載記事、『まちをつくる〜二つの震災、続く葛藤』によれば、総務局長(笹山市長)は震災発生5時間後に都市計画局と住宅局に被災地図の作成を命じ、職員には「(市民から)救援依頼があっても無視して作業」するよう指示を与えたのである。

また、都市計画局のなかには十数人からなる「特命チーム」が組織され、僅か10日前後で市全体の再開発事業と区画整理事業の都市計画案がつくられた。神戸新聞が入手した特命チームの手引書には、「不幸な災害を千載一遇の機会と捉え(略)、都市問題の解決を図る」と基本方針が記されていた。神戸新聞は次のように書いている。
「くしくも震災直前、市は2010年度までのマスタープラン(長期計画)をつくり、新長田や六甲道を副都心と位置付ける再開発構想を打ち出していた。震災復興は長年の懸案を解決し、震災前からの構想を一気に前進させる“好機”とみなされた」(第3回、2012年8月20日

この連載記事では取り上げられていないが(多分避けたのだろう)、復興都市計画を強行決定した時の市都市計画審議会会長は神戸市の助役(後に焼身自殺)だった。都市計画審議会は、市長からの諮問に応えて「答申」するだけの通常の審議会ではない。市長から諮問された都市計画案を「決定」する権限を持った特別な審議会なのだ。この仕組みは、都市計画への地方議会の関与を嫌う国の官僚がつくったもので(国の指導の下で地方自治体の都市計画をつくるため)、地方自治体の最重要議題であるはずの都市計画を地方議会が審議し決定できないというという特異な(世界でも稀な)構造になっている。

したがって通常、都市計画審議会は第三者的な性格を装うために学識経験者などが会長に就任することが慣例となっているが、神戸市の場合は助役が審議会会長を務めると言う慣行がずっと続いてきた(現在は大学教授が会長に就任している)。市長が諮問する都市計画案を助役が会長を務める審議会が反対できるはずがない。これは居並びの審議会委員もほぼ同様の立場だろう(そんな委員が選ばれる)。だから、神戸市の復興都市計画は「市民の、市民による、市民のための計画」というよりは、「市長の、市長による、市長のための計画」といった方がふさわしい。

とはいえ、当時は神戸市の素早い都市計画決定を「世紀の壮挙」と賞賛する声が都市計画分野では強かった。NHKラジオの震災特集番組でコメントを求められた某大学教授(関東大震災の研究者)は、「よくやった。神戸市には切れ者がいる」と声を大にして賞賛したことを昨日のことのように覚えている。しかしそれから20年経った現在、その教授(いまは名誉教授)に当時の都市計画決定の評価を改めて聞いたら、果たして同じことを言うかどうかわからない。

私は、「ヒト」(被災者救済)よりも「ハコモノ」(インフラ整備)を優先した復興都市計画が、その後の神戸の復興を遅らせたことを否定できないと思う。そしてそのことが現在の「冴えない神戸」の背景になっているように思う。次回以降はその原因を考えたい。(つづく)