真野地区まちづくりの歴史は長い、しかし全容を把握するには「マクロ視点」からの神戸市都市計画との関係性の分析が必要だ、私の著書を紹介してその一端に換える。阪神・淡路大震災20年を迎えて(その15)

 真野地区のまちづくりはなにしろ半世紀にも及ぶのだから、その足跡をたどることは容易でない。まして拙ブログのような短文では、言えないことが余りにも多すぎる。そこで多少とも興味のある読者諸氏には(少ないとは思うが)、私が書いてきた幾つかの著書を紹介しておきたい。他にも専門誌や学術雑誌に書いた論文は多数あるが、ここでは省略する。最初に書いたのは、私も編者の1人に名を連ねている『町内会の研究』(御茶ノ水書房、1989年)のなかの一節、「先進的まちづくり運動と町内会―神戸市丸山、真野、藤沢市辻堂南部の比較考察―」という小論である。

 ここでは丸山のまちづくり運動を「大都市圏フリンジエリアのスプロール開発地域における旧中間層中心の居住環境整備とコミュニティづくり運動」、真野地区は「大都市圏インナーエリアの住工混在衰退地域における勤労者主体の地域再生運動」、辻堂南部は「大都市圏アウタ−エリアの郊外住宅地における新中間層・住民主体の居住環境保全整備運動」と、それぞれのまちづくり運動を地域別・主体別にタイプ分けし、運動の発生から80年代に至るまでの経過を主として町内会との関わりで比較分析している。なお本書は四半世紀も経ってから最近再版され、編著者がそれぞれ書き足して『増補版、町内会の研究』(御茶ノ水書房、2013年)として出版された。私は新たに横浜市のコミュニティ行政を書き加えたが、前著の3地区については加筆していない。

 2冊目は、阪神・淡路大震災が発生してからちょうど1年後の1996年に上梓した『震災・神戸都市計画の検証―成長型都市計画とインナーシティ再生の課題』(自治体研究社、1996年)である。本書は、それまで丸山・真野地区などのまちづくり運動を支援し、神戸市の住宅審議会委員として市行政にもかかわってきた私にとっては「自責と自戒の書」とも言えるものだ。阪神・淡路大震災の惨状を目の当たりにして、都市計画・まちづくり研究者としての存在を否定されたような衝撃を受け、それに決着をつけるべく真野地区のまちづくりを神戸市のインナーシティ(既成市街地)計画との関連で分析してみようと思い立ったのである(多くのまちづくり研究者は真野地区それ自体には興味を示すが、神戸市の都市計画との関係性については関心が薄い)。

 震災直後の1年間は、神戸市役所(旧館)の上部階は崩壊して資料室は使えず、市立中央図書館(大倉山)も大損傷を受けて休館中だったので、手持ちの資料で書くしかなかった。また大学の公務の都合もあり、執筆時間は著しく制約されていて推敲する時間がほとんどなかった。それでも、読んでくれた神戸新聞記者から、厳しいながらも心のこもった講評が寄せられたことが忘れられない。

 主たる内容は、まず神戸市都市計画が戦後直面した3大都市問題として、戦災からの復興問題(第1期)、高度成長期の公害問題(第2期)、阪神・淡路大震災による被災地の復旧復興問題(第3期)を挙げ、それぞれの時期に対応する都市計画の特徴を分析し、次に公害問題を起点にして起こった真野まちづくりが神戸市都市計画にどのような影響を与えたかを、80年代の「真野まちづくり構想」「まちづくり協定」「真野地区計画」を中心に検討するものであった。そこでの私の結論は、以下の通りである。

 「神戸市がまちづくり政策の代表事例として常に真野まちづくりを挙げてきた背景には、そこでの様々な先導的実験や経験を通して多様なノウハウを『先進モデル』として蓄積・集大成し、それらを同種の課題を抱えるその他の既成市街地へ応用していこうとの考えがあったためと思われる。(略)この間、真野まちづくりを通して獲得された多彩な行政経験は、神戸市都市計画の主流を担う『ハード・テクノクラート』とは一味違う『ソフト・テクノクラート』ともいうべき数多くの人材を都市計画局・住宅局内に育て、そのことが他都市にはみられない都市計画マンパワーの層の厚さを築いてきたのである」

 しかしこの路線が転換されたのは、1989年に策定された『インナー神戸・新生プラン21』における新たな既成市街地整備(再開発)計画であった。この新しいインナーシティ総合整備計画の策定を機に、70年代から80年代にわたる「まちづくり運動と協調した段階的市街地整備方針」(いわゆる真野方式)は事実上転換され、行政主導で大型プロジェクトを導入し、その波及効果で周辺地区の活性化を図ろうとする「リーディング・プロジェクト方式」(拠点開発方式)が導入された。以下は、『インナー神戸・新生プラン』の計画趣旨である。

 「神戸市では、インナーシティ対策の強化を市政の重要課題と位置づけ、市街地再開発、住宅・住環境整備、インナー工業団地整備等早くから種々の対策を講じてきたが、未だ十分な効果を挙げるに至っておらず、早急に適切な措置を取る必要がある。また関西国際空港大阪湾岸道路あるいは六甲アイランドポートアイランド(第2期)、神戸空港など地域に大きなインパクトを与える事業や計画が進行中であり、これらの及ぼす影響をインナーシティの活性化に取り込んでいくことも重要である。このようなインナーシティ対策の現状、神戸を取り巻く都市基盤整備の進捗等を考慮すれば、もはや個別の事業の積み上げによる対症療法によって地域の活性化を図るには限界があり、新たな発想が必要とされる」

この「リーディング・プロジェクト方式」は、阪神・淡路大震災が発生する直前に完成していた「第4次マスタープラン」の骨子となり、さらには阪神・淡路大震災を「千載一遇の機会」として推進される復興都市計画のコアとなった。新長田駅南再開発計画が「創造的復興」のシンボルとして推進された背景には、それ以前の「まちづくり方式」による段階的(漸進的)市街地整備方式に対する否定的評価が横たわっていた。(つづく)