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反復的ディスクライブ

2012-02-05

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18:44

たとえばル・クレジオとかロブ・グリエとか読む前から「え、読んで影響うけて書いたんじゃないの?」ってくらい変な(ある意味でわかりやすいかもしれない)文章を書くひとを、ぼくは今年ひとりグシャグシャした文章に誘い込んでしまったようなのだけれど、それは例外的なものとして、基本的に「読んだら?」なんて言わない。

けれどやっぱりなんだかんだで「ふつうに書けない」人がいくらかいて、そういう人はふつうの言葉で書くこともふつうに物語を話すのも(たいていは自分がなくなっちゃう不安がおおうから)うまくできない人で、だからまず一語一語をひたすらめんどくさく組み立てていく(ある意味ひとりだけの言葉を作るように書く寂しい)作業を経たあと、同じような神経質さで「神経質でないありふれた言葉の、自分だけの組み合わせかた」を探っていくのが必要になっていくのだろうけど、それはそれで楽しいところはあるかもねって、「これ読んで!」って自分から言えるようになるいつかへの迂回として楽しいところがあるかもねって、少ないひとに言いたい。

それは絶対的にひとりでしかあれないにも関わらず、ひとりとして語れない苦痛をどこまでも自覚してしまう、ある意味で「自己満足な」、ある意味で「寂しい」ひとが、「ひとりでいいよねー」って妥協するわけでも、また「ひとりってなんのこと?」とごまかすわけでもなく、折り合いを少しずつつけていく過程でもあって、だから思うような身体であれないことや、人間として生きるしかないことともほとんど変わりない、というかむしろ書くことがそっちから派生してる。悲しいけれど悲しむだけだと死んじゃうからやるしかないことなんだと思う。

2012-01-29

はなし半分でね!

01:37

引用ってことでね!↓

 人は雑食と言われる。もちろん必要な栄養やその量は様々な客観的理由から定められてはいるものの、それを完全になぞらえる生活を送っている者はおらず、なぞらえようとする者さえ少ない。身体に害を与えるであろう多さの栄養を摂取していても、または摂取していなくても人は明確な死に陥るわけではなく、病は積み重なる無数の原因によって初めて訪れる。栄養は複数の方法でしか得られない。たんぱく質をなにから摂取するか、食物繊維をなにから摂取するかは個人の自由だとされる。たしかに過去の一時と比べればわたしたちは自由だ。コンビニに行くだけで相応の支払いを済ましさえすればわたしたちはパンでも米でもアルコールでも購入し食すことができる。だが完全な自由が与えられたと喜ぶのはあまりに状況を許し過ぎているだろう。わたしたちはあらゆる拘束を残している。

 たとえば幼児は自らの選択で食事をすることはできない。主に母親の与えるものを受け入れる。幼児期ならそれは母乳を与える正しい育成として認められるだろうが、母親の強制は幼児期を過ぎても終わらない。そしてそれは子どもにとって大きな運命の方向付となっていく。単純なところで言えば、親の食文化はかなりの割合で子どもへと受け継がれてしまう。肥満の親を持つ子どもは肥満である傾向が強いと言われる。肉をひたすら毛嫌いする家庭では肉を当たり前のように食す子ども時代を送った大人は育たない。日本的な食文化をふいにフランスの子どもがフランス的な食文化の親を持ちながら獲得するなどということは、自らがひたすら積極的に日本へ慣れ親しむ以外にほとんどありえない。それはまさしくひとつの歴史の伝達が、その歴史以後に生まれた世代へとなかば強制的に受け継がれていく過程のあらわれである。親が人肉を当たり前のように食べる親であれば、子どもは人肉を当たり前のように食べることを基底として食を積み上げる他ない。だれが拒絶し抹消できるだろう?

 親や学校給食など、子どもを取り巻く環境が子どもに与える食の拘束はひたすら大きいままだ。わたしたちは自らの身体を構成する栄養を歴史によってなかば強制されているとも言える。摂食障害を患う人々の、子どものころ過ごした家庭の多くでは母親が父親やその他を抑え、最も強い権力を持つという。それは母親を大他者とした子どもの食を通じての反抗であり、母親の希望通りの自分になりたいと思えない自分に対する罰であり、母親から産まれて来なかった自分への欲求である。

 また宙吊りの状態とも言えるのかもしれない。動物と人間の境界における宙吊り。母親によって書きこまれた規範をわたしたちが逸脱する食は、一種の動物的様相を呈する。つまり正しい人間としてのあり方を自ら妨げようとする行為のように思える。人は母親の反復や否定を通じて、母親の先行選択基準を受け取り、それを元にして言葉の分節を行っていく。その点で猿とは違う。猿は物と言葉を直接結びつけざるをえないが、人は外部の選択基準に従って言葉を母親へと結びつける。そのため、人は因果律をまったく現実にはっきりと横たわっているかのように感じてしまう。だが、そんな確証などどこにもなく、因果律は本来それぞれの身の内から染み出す。その混同は自律性の高まり、神に対し人間の主体性が主張され、自己所有の課題を命じられた西欧近代的な人間の時代に多く統合失調症のあらわれる傾向が高まったことに似ている。それまで他律志向の強く、神にすべてを委ねていたわたしたちは、因果律が大きなひとつであったとはいえ、外部の因果律が自分とは別に存在することが当たり前だったが、しかしそれは崩れ、自分の内部の因果律が外部と強制的に同期され、結果として「自分が他者のまなざしに囚われているかのように思える」統合失調症があらわれる時代となっていく。それは他者の選択基準にエラーを起こしてしまう可能性の露呈である。統合失調症は自己の因果律を外部に適用するようになって初めて生じるのであり、そこにおいて摩擦は明らかとなる。

 そして現代、父性の衰退や他律性文化の発展により統合失調症の病勢は弱まりつつあるという。それはひとつの中心を持たず、複数の中心を持つようになったある意味で幸福な状態への発展なのかもしれない。だが平穏無事なものでもないだろう。自らの因果律を自覚すること、容認されること、それはある種の動物化に近い。猿のように目の前の現象へポジティブに原因を投げかける様子。ジェンダーの選択やiPS細胞の受け入れなどにもつながっていくこの問題は、ひどく辛いものでもまたある。男として産まれ、男として生きること。女として産まれ、女として生きること。男と女から子どもは産まれなければならないこと。卵子は人にならねばならないこと。そこからの逃走。与えられる「人間」という基準、「人間」にあるべき食の基準を曖昧にしなければならなくなることの苦痛は恐ろしいものだ。それは幼児期に母から与えられた人間を否定することにもつながる。カニバリズムには自己へと陥入した母親を噛み砕く感覚が伴ってくる。口のなかで、すり潰される肉が母親であると同時に自分である摩擦を全身に感じる。はたして自分は今なにを口にしているのか? なにが身体に取り込まれ、栄養として皮膚や内臓を形作っていくのか?

 肉を食すときに起こる戸惑いは肉の持つ心に由来する。それは身体ではない。わたしと共に承認を繰り返すことでそれぞれを心だと命じあう、実際にはどこまでも閉鎖された存在だ。それゆえ口のなかの肉は物自体をも超えうる。そこには世界を知覚する実体、ライプニッツでいうモナドが挿入されている。「モナドロジー」の世界観において、世界に満ち満ちた個々のモナドは互いに通信できない。だが神の予定調和で世界は秩序を保つ。なぜ断絶した個々の集まりである世界が予定調和によって秩序を保つのか? そこには共可能性という概念が存在する。閉鎖されたモナドはそれぞれ手探りで歩き回り、他者とぶつかりあった瞬間、ひとつの常識を見る。矛盾した世界観は同居できないことを知ってしまう。そうやってゆっくりと見出される空間こそが身体であり、現実だ。心は否定を持って外部と接する。否定は無限の他者を産む。「そうではない」と言われたとき、相手が間違っているのかそれとも相手が自分を上まわる正しさの世界観を持っているのか、判別できない。本当はただの一面的な否定であったとしてもそれを信用したそのとき、わたしは相手に心を見てしまう。つまり物でなくなる。ただ黙々と慣習に従って肉を食うそれではなにも感じない。だが一度、あるかどうかもわからない心を見てしまったとき、わたしはその心の持つ世界を受け取る。肉は物でなくなり他者の弾力を得る。自分でない世界の縮図の圧縮された肉片を噛み締めながら、わたしは自分の指先も、頬も尻も、脳でさえも肉片に違いないことを知る。わたしであったはずの身体がわたしを離れ、わたしに世界を気づかせる。いつもの動作で生じる指令の、まったく逆方向の気づきがある。なぜわたしはこの身体をわたしと認識していたのか、名乗っていたのか。疑問をいくら投げかけようとも崩れないわたしの身体がわたしを覆う。

 蜜蜂は産まれたときの遺伝子ではなく、その後摂取した栄養が遺伝子を組み替え女王蜂となる。しかし、だからといって完全な後天性ではなく、「摂取した栄養が遺伝子を組み換え女王蜂となる」システムをあらかじめ組み込まれてしまっていることにかわりはない。それが現実だ。「わたしは肉を食べます」「わたしは男として産まれました」「わたしはひとつの身体にあります」「わたしはひとつの主体です」それらすべてが解釈を越えた現実として迫ってくる。逃れようのないように思えてしまう。だが、わたしたちは完全な意思伝達のできない存在だったはずだ。わたしは自分の背中を自分で見られないにも関わらずわたしには背中があると信じて疑わない確信はなんなのか? それは他者への無垢な信頼に支えられて存在する。矛盾のないようきれいに補正された道のりだ。そこを歩くのが辛いなら、たとえば現実を支える常識よりも先にわたしが存在すると考えてみる。つまり現実を単なる常識や共有ルールでしかないと考えてみる。突拍子もないことではないだろう。身体とは互いを観測するなかで産まれる一種の共有可能な空間だった。わたしはわたしの身体を本当に理解していないにも関わらず他者はわたしの理解を完全だとみなし、そこに「あなたの身体」と名付けてしまう。つまりわたしの身体には他者の視線が織り込まれてある。そのつらなりによって現実は構成されていく。肉を食べるとはつまりそういった経緯で作られた他者の身体を取り込むことであり、解釈のやり取りによって毒のように蓄積または伝播されていく歴史に飼育された家畜に過ぎなくなってしまった個の不幸にしめつけられる行為だ。つまり、わたしたちは個別でありながら、すでに世界の一部をなしてしまっているのである。

 家畜化された人間からの逸脱を望むとして、わたしはいったいどこへ向かって行けばいいのだろう。あらゆる方向へ進んだとしても間違いなくその先では自らの肉体を構成する栄養の摂取が必要となってくるように思えてしまう。その栄養はわたしではなく、あなたでもない、不明な誰かとしてそこにあり、わたしをじっと見つめている。「いらない!」と拒絶した瞬間あらゆる方向から「気狂い」の烙印を押される。ひたすら続いていく逃亡がある。そのなかで絶えず揺らぎながらも、しかし、今この瞬間のひとつの直線を引かねばならない苦痛がどこまでも不足なわたしを追いかけていく。呼びかける声は発せられた先で返ってくるものでなければ聞き取れない。街並みに反射して歪んだ叫び声が鼓膜を震わす。複数の個人にあわせて中心のない現実が見ることを望んで聞く。

「わたしは人間として産まれてしまった!」

2012-01-09

 

17:32

食べることを通して世界を分節する。

ひと以外は物対物で接するが、ひとは母親という食物を通じて接する。母親はなにを食べるべきでなにを食べないべきか判断するそれを世界の因果律として受け入れる。

なにを食べるべきか?という問いの答えはいつもぼくの内側から訪れるはずなのにあたかも外から規定づけられているかのようにぼくは振舞う。

管理されたひよこたちがそれぞれの輪郭もわからないくらいに敷き詰められて管理は行われる。彼らはあれだけ敷き詰められて、交代する視界のなかで特定の個人を発見するのは死んだものを管理者が集めて回るそのときくらいかもしれない。皮を剥がれ、首もなくなった肉の連なって流れていく工場でわかるのはオスとメスの違いくらいで、メスは卵を産む。

なにを食べるのか、それだけを起点として幼虫は女王蜂になっていく、その可能性はもともと平坦にある。栄養素が遺伝子のあり方を変えることで存在の部類も変わっていく。

摂食障害の起きる家庭では母親が強い権力を持っていることが多い。

母親=ダイタシャへの反抗

「現代はひとつの大きな外傷でなく、世界中が無数の外傷によって切り刻まれていると言います。」

"原初的な制御・認知対象は常に母親だけであり、母親は言葉・情報の「コミュニケーション的あて先」というより、唯一の「操作・認知対象」なのである。つまり人間の母親は猿のバナナと同じ場所にあるが、これは人間の母親は、他者である以前にまず「食物」であり、しかもその期間は猿等よりずっと長いことを思い出せば当然である"

"咀嚼から言葉が派生し、他者は本源的に「差し出された」食物である"

"「模倣」ではなく「反復」によるモデルでは、帰属主体が定かでない反復運動のただ中で、他者が自己の内側に貫入し、自己の運動を「騙しとり」、他者が直接に自己の中身となることが、運動=存在のフィードバック制御なのである"

2012-01-08

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00:53

お風呂から出たぼくが洗面所で「世界にはひとりしかいなくてそれが同じようにひとの数だけたくさんある」って思ったのは8歳のころで、よくある話だけれど、そこからぼくは死んだひとの世界でいま生きてしまっている。死んだひとについての新聞記事が載っているのは間違いだと思った。

どうにかして別の世界にいるひとと連絡が取れないかと思った。連絡を取るには同じ世界にいたひととでないといけないけれど死んでる。死んだのはぼくの思った通りか? それだと生きるのがみんな失敗だった。

と思うと、それはぼくが本来ぼくであったものをふたりと知ってしまった、その繰り返しじゃないか? ぼくは分身が死んで初めてぼくがふたりと知るまではひとりだった。なのにもういっぱいいて、それがぜんぶ死んでる。

分身が自分であるかどうかという話はたくさんある。クローンドッペルゲンガーも雷でうたれて再生する沼のひともいたりする。それを感じるのは自分を通してで、つまりぼくはぼくを通して外にまるでプロジェクターのように映しているぼくが立っているとぼくだと思う。まったくの外からやってきた魔女のりんごを食べない。食べるには身体の承認が必要になる。

栄養補助食品はとても小さいのが一日分のすべてを補うくらいにあればあとはなにがいるのか? もしくはそれ以外を摂取しているいつものぼくはいったいなにを摂取しているのか? たとえばたった20粒の栄養補助食品ですべてが完結するはずなのに、食べている水以外の何かとは何か? 栄養になるものでなければ身体に受け入れられず外へそのまま流される。食べたいかわいそうな牛の感情は食べられず、ぼくであった身体の部分と入れ替わるのはタンパク質や脂質ばかりで感情はない。

タンパク質の不足を補うためにひとはひとを食べることはある。ここで言うのは生存のための飲食だ。仕方のないことだった。けれどじゃあ満たされたぼくらはなにを食べればいいのか? 少なくともリンゴは余剰だ。

でもリンゴはぼくらをそこに立たせている。リンゴがないとたったのひとりであったとしても世界を大切にできない。色や痛みを比べることさえもわからない。少なくともぼくらは比べることを知っている。ただ少し届きづらいだけだ。

星の王子さまのように小さな星でぽつんと立っているひとりが遠く離れた宇宙のあちらこちらで互いをみるでもなく知らぬまま立っているそれがぼくの8歳に思った映像だった。そこは地球であり、同じ地球にみんなはいるのに地球はそれぞれがばらばらになっていた。その日はそれしか覚えていない。

2011-12-31

2011

12:44

「エビを食べるとエビにのっとられるんだよ」とわたしはお父さんが言ったのをずっと覚えていて、ぼくは聞いたそれが1年のまんなかくらいだから実際には1年の半分くらいだけれど、ぼくはそれを中心に1年のまわったと思っている今年が終わる。ぼくを取り囲んで離さないフェンスを描くための言葉をなんとか手に入れたのが三年前で、どうにかしてそれを越える準備をしたのが結局今年だった気はする。

前から文章に関してはごちゃごちゃしてるかもと言われながらやわらかいかもと言われるところはあり、それはまったく当然のことだけれどぼくも自分のなかに分裂するふたつがあったのをわかっていて試したり計ったりしてきたけれどぜんぜんダメで、なぜならごちゃごちゃした言葉を使う一方のほうをぼくは進みたいと思っていたからだった。進むべき道だと確信して進んだ先にあるのが自分でなくちゃならないのが絶対で、それを無視してもうまくいかない。とってつけた言葉は簡単に産まれる。

平易な言葉で書くことは読んでもらうためにも、また物語を語るためにも、また「常識でないことしかできないぼくのなかの誰かのなかの論理」の表現のためにも必要なのは間違いなくて、それをやる前にまずは理由づけというか自分のなかのレールを準備しなくちゃいけない。ぼくは10月を過ぎてようやく糸口のかすかに見えたそれまではずっと焦っていた。なにかを得ても気を抜くと前までの文体に戻るのはぼくの確信が見つかっていないからだ、このまま自分の中途半端なまま終わったらどうすればいいだろう? そんなふうなことが大半だった。

でも今から思えばやっぱり自分の好きなことやかっこいいと思うこと、正しいと思うことをその場その場でやっていればあとから見直したときにびっくりするくらい筋が通っているのが人間だ。そんな簡単にフェンスは破られない。自分をあとかたもなく寸断するのは難しい。強度がとてもすごいから壊せるのは自分のすごいと思った他人くらいで、でもそれも自分の選んでしまった他人だから結局は自由な選択の上の運命がピシッと一本張っている。偶然をなるべくその一本の上にのせるのがどうしても求められる。運命は自分の意思で選択した道をくっきりと浮かびあがらせる。

思ったのがはっきりと輪郭の持った部分が具体性を維持したまま部分と部分でこすれあってそれが全体となる方法で、それをするには抽象的な言葉ばかりではいけないし、モンタージュのレベルによってはぼくのなかのリズムも保たれる、コラージュを作るときに抽象的な部分ばかりだと少し困るのと同じように、というのはこのまえ「タンクメイト」を書いたっていうブログのやつでつらつらと書いたのだった。デイヴィッド・リンチの映画の最近のものとかを思ったらいいのかもしれない。デイヴィッド・リンチの前期作品のつまらなさはなんなんだろう? 後期というか最近はものすごくおもしろくてぼくは3時間の『インランド・エンパイア』を見るのに止めては書き止めては書きを繰り返していたから6時間くらいはかかってもおもしろくてびっくりした。見るたびに書ける。それと比べて『ブルー・ベルベット』とかは「え? これでおわり?」になった。よくわからない。けれど作品名をいくつも並べるとなんだか勝手な部類づけと言うか誤解というか、ずれてしまった要約の手がかりをわざわざ目の前に設置するようでちょっとこわいし、ぼくは何度も今年見たり聞いたり読んだりしたもののリストでも作ろうかなーなんて思って実際に作ってみたけれどあんまり意味がない。書いた小説であらわさないとそんなに楽しくない。やってるぼくだけ楽しい。

だからある種の夢だと思う。夢は自分の生理感覚というあきらかに自分でしかない固有性を部分部分は明確に、それこそベタな物事を用いてあらわしていく。それはすごくうれしい。物語のないようで物語しかないくらい。大抵の夢はそれなりのものばかりだけれどたまにおそろしい展開の急激さがあって唖然とする。すぐにメモをとらなくちゃならなくなる。『輪るピングドラム』を見ていてぼくは今年すごくびっくりしたもののひとつにピングドラムはあるのだけれど、歴史の接続方法とか、抽象性の処理とか、いろいろあるのだけれど思ったのが「現実を越えた映像感覚のルールが物語を進めていく」ということで、たとえば現実的にありえない展開は起こる。つっこみどころはたくさんある。たとえば病院で目覚めたひとりが道を走って次の瞬間もうひとりの登場人物の目の前に、それも満員電車のなかでこっそりなにかをしていたはずのひとりの前にあらわれて呼びかける。けれど見ていて普通だ。なぜなら映像的にいいから。そこには作り手側の奥底にあって説明できない、わけのわからない論理が視聴者側へ伝わってしまう恐ろしい出来事は生じている。似たものというか、ぼくのいちばん好きなものにエヴァの劇場版26話やTV版25・26話とかがあって、庵野さんにははやくエヴァでない新しいアニメをやってほしい。ピングドラムはすごくおもしろかったけれど最後は謎というかもっと世界を深める要素になりえたところを深める必要のないものとして処理してしまった気はしてそこだけがちょっと残念だった。その分すごくきれいに終わったけれど。あーよかったなーって感じだった。

というのともちょっとつながるかもしれないけれどエヴァは事前の企画案とまったく別の展開で進んでいってすごくなった。それはぼくはずっとどうしてあんな物語は作れてしまうんだろうと尊敬してばかりいたけれど今思えば必然だった。テレビシリーズをギリギリの日程で、なかば即興的に演出したり絵コンテを作ったりしていたそれがその場その場のベストをつくすことで、それによってエヴァはすごくなった。最初からエヴァの物語を全部考えようとしてもできない。「ここで使徒をエヴァが食べちゃったらかっこよくない?」という考えが先にあってエヴァは使徒を食べるんじゃないか。だから新劇場版はあんまり楽しくないとぼくは思ってしまうのだろうけれど、それはそれでいい。あれはあれでかっこいい。でも物足りない。つまり事前の計画通りに作っていては映像感覚を使っての物語の創作ができなくなるのが大切で、同じことは小説にも言える。

文体をとるか物語をとるか、みたいな話をするひとはいるような気がするけれど文体によって物語を作らないと小説で書いてる意味があんまりない。事前の計画でいいならそれで漫画や映画をつくればいいわけで、よく二次創作の小説を書いてるひとが言われてしまう「絵を描けなかっんだねー」というまさにその通りだと思う。単純に情報量でいうと映像や絵のほうが多いのは確かにそうだと思う。小説で書く理由は自分のなかの文体であらわされるところの論理を使って物語を構築するためじゃないか。小説を通してしか得られない「要約できる(しなくてもいい)物語」はあるんじゃないか。そんな気はする。

みたいなことを思ったけれどそれが1年の全部じゃないのも当たり前だった。ぼくがこういうことを考えてたのだと知ったのは最近ひとにべらべらととりとめもなく話したから知ったのであって、それまでぜんぜん知らなかった。ようは無理やりなこじつけはここまでだった! ぼくは三年ぶりの大きな言葉の転機を今年中に迎えられたことで今年を生きられたと思っているのが全部だ。ぼくはレポートとかもみんなヘンテコに書いちゃっていいと言われるかダメだと言われるかは半分だからぼくのそういう評価も五分五分だ。

トーキョーではいろんなひとに会っていまだにまだ8ヶ月もたってないのはびっくりしてしまうのだけれどまだ少ない? トーキョーはこんなものでないのかもしれない。ぼくの会いたいのはぼくの知らない言葉で話すひとで、それは前から何度も言っているのがそうだ。ちょっと話すだけで唖然とする。ぜんぜん珍しくない。

そういえばTwitterのような感覚で小説を書きたいと思っていたし思ってるかもしれない。Twitterで聞いた他人をぼくはほとんど引用する。ぼくはむかし父さんに他者の話をすると「他者じゃなくて親だ」って言われて今も覚えてるしたぶんずっと覚えている。え?ってなったぼくも含めて覚えている。ぼくがいろいろ迷惑をかけた中学生のときのことだ。

「食い食われのめくるめくのが人生だ!」

忘れてたけどドキュメンタリー映画にもいろいろぐらっとなったのだった。フィクションノンフィクションのまじりあい。それはエビが死んだ魚を食ったり魚がエビの子を食ったりするのとそんなに変わらないというかぼくのなかで同じだからこの前書いた。小説にどばどば流しこんだ。あれを今年書けてよかったなーってとりあえず思おうとしている。伝わるかは別にして。

あと言うならiPhoneで小説を書けるようになったのは大きかった。ぼくは最初はノートで書いていてそれからqwertyキーのスライドして出てくるスマートフォンを手にしてから長めのものの書けるようになって、でもその端末はボロボロでキーのいくつも欠けてしまったくらいだったからパソコンで書こうとしても書けない。そもそも電車のなかで立ちながら思ったことすらも書けない。ぼくはお風呂に入ってシャワーをしてるときに思ったことを忘れないように何度もつぶやきながら毎日過ごすからお風呂にメモ帳は欲しい。そもそも机にむかってしか書けないわけはなくて、机にむかってるときなんて一日の思うことの十分の一も満たさない。iPhoneでどこでも書けるのは本当にうれしいしむしろ家でもiPhoneで書いてパソコンで添削してる。スマートフォンの小さい画面で書くのは手書きに似た視野の狭さはあってそれと同時に電子的な書き換えの可能性もあるのだからいいとこどりじゃん!っていうのは何度も書いたかもしれない。最近手書きのすさまじさにおののいてばかりいる。手書きのひとは(つまり一定の時期より前のひとたちの多くなるのだけれど)文法の狂ってるのに意味のわかってしまうギリギリの文章をどんどん書く。今だとすぐに手直しできてしまう間違いも時間系列の狂いも唐突さも残っている。そういうのを見るとうれしくなる。こんなに普通でないのにみんな普通に読めるんじゃん!っていう勇気はわいてくる。文章を書くたびにぼくは言葉の意思伝達機能を信じられない。まるで点描画を画布の間近に迫って描くことしかできないかのようにぼくは不安だ。こんなことを書いてもぜんぜん伝わらないんじゃないか?読めないんじゃないか?だからみんな普通に読んでると「あーやっぱり案外言葉ってすごいね」なんてバカみたいにぼくはうなずいている。とりあえずiPhoneはしばらく潰えないだろうからよかった。

小説のことをずっと考えながら日々を過ごすそのことをとりとめもなく話すのが普通で、親しんだ友達にはみんなそうするのだけれど初対面やぼくについてなにも知らないひとや年上のさまざまなひとにはうまく話せないのがとてもつらくて悲しくて仕方がなかったのも今年だった。Twitterはそういう意味でぼくの自由に話せる関係の基盤を多く作ってくれていた気はしてTwitterやっててよかったなーって思うことしかないくらいなのだけれど、もっと自由に話せる関係の増えないかなーとも思うのは贅沢なのかな、いやいや、それがほしい!

なかばルール違反として小説を考えるのでなくなった今はおおかたすごくハッピーにキリキリ生活してる。よかった。よくないことはたくさんあったけれどよかった。悲しい。プラス思考にしか生きられない。思うだけで涙が出る。

こうやって長々と書いていても本当になにも書けていない気はする。感覚的な、身体的なことが少ない。でもそれはやっぱりその瞬間にしかないし、その瞬間に自分をもっていくのが小説だ。みたいに思っても仕方ない。とりあえず食べることがどうとかカニバリズムがどうとか自分以前に設けられた歴史を自分の語ることがどうとか子どもを産むことがどうとか、みんななんだかここに書こうとしてもうまくいかない。どうしてか知らないけれどそうだから別にいい気もする。

来年は今年の準備したぼくをもっとぼくでなくしたいし、ぼくでなくなったぼくが出会うのがどんどん極まったぼくだから痛みと快楽を同時に摂取する。ふむふむ。来年は数字が20になります。死にたくないしすごく生きたいけれどぼくだってすぐ死ぬしみんなもすぐに死ぬからベストをつくして一日を生きたと必死に血眼に信じて眠るしか許されていない。大変なことだと思う。