2011-03-21
収差
収差 |
落ちたっぽいので心置きなくサラバ。
http://p.booklog.jp/users/hirokiyamamoto
遠路市街かいてる途中から(つまり一年前から)もうこういうのやめたほうがいいな、と思ってて、実際に遠路市街書き終わってからはSFとか目指してたんだけど9月に文學界でああいうことになって変に浮かれて「いややっぱりこういう路線!?」みたいな感じでガッと書いたのがこれ。
書き終わって(というより書き終わる間際あたりですでに)「やっぱちょっとやばい気がする」とか思いつつもぼくがこういう形式にある程度の愛着を持っていたのは確かだしそれを否定するのもバカだから最後まで書いて、もうこれで一区切り、といった具合。
もともとぼくはエヴァみたいなやつ書きたいなーって思って小説書きはじめていつのまにかこういう形式に飲まれていった(?)わけだけど、なんというか、この方向性だとドツボにはまるだけ、というか、どれだけ設定とか構造とか念入りに組んだってこの方向性じゃ仕方ないんじゃないかっていうのが一番。時間とか人格とか狂わせたって結局文体のあれこれに回収されたんじゃどうしようもないし。要は「平凡なストーリーに回収されないようにいろいろ頑張ろうとしていたのに逆に平凡なストーリーにならざるを得ない方向へ突っ走ってた感」。
だからとりあえず来年度はSFとかホラーとかしか書かないつもり、今のところは。原点回帰みたいな。
ぼくはけっこうな唯物論者であると同時にけっこうなセカイ系派なんだと思う。「すべては出尽くしているからなにやったって無駄」と「自分が自分である限り他人と触れあえないんだろうから自分やめたい」ってのが昔から基本にあって、今回はそれに関しての虚しさみたいなのが露骨に集約されたような。遠路市街でやろうとして途中で行き詰まったものを(いいのか悪いのか)最後まで書いたような。
必死にがむしゃらに生きたってこれまで蓄積された物語たちに回収されて終わるだけで、つまり固有のオリジナルな自分なんて求めたって仕方ない気がするし、と同時に一方で自分がバカなくらい自分でありすぎるから人とはわかりあえないし、きみとの記憶もなんだか純粋に楽しく思い出せないでいるし、さらに言えば記憶はどんどん薄れて抽象化してありふれたものになっていくからいつまでも状況はよくならないままだし、もうぼくは全部が全部自分で、外に出られないまま死ぬしかないんだろうねもうあきらめたよぐっばいさようなら。
もちろんこれはこれでぼくなりに全力尽くしたし一定期間の書きもののまとめみたいになってるけどいかんせん読み直すのが苦痛。っていうかこの小説のことを考えるのが苦痛。
昔読みあさってたSF・ホラー小説ながめてたらすごく楽しいのが現状。物語をつくってきみとなにかわかりあえたらそれで満足なんだからちょっといっぺんやってみるよという。
時系列的にはこれのあとに書いたのが『シャライ(タイトル未定)』

「新しい」って、過去に無いってことですよね。
で、現在にあって、たぶん未来にもあるものですか。
線で時間を表すと、ある点からぽっと存在し始めるわけですけど、俺はどうも、それが不自然に思えてならないんですよ。
なぜ、「無」だったものが「新」になり、「古」となるのか…
時間をひとつの球、あるいは点として見た場合、それがまた(俺的に)新しい考え方になるのですが、時間を、全ての可能性を内包した巨大な球あるいは、限りなく小さな一点として見ます。
そのとき、無から有が生まれるのではなく、見えなかったものを見えるようにするとか、あるいは、可能性として存在していたただの混沌から、名づけられたものとしての存在にかわったというような…
まあ、あくまで憶測ですが…
こういうふうに書いていて、つくづく自分は説明が下手だと思います。
論理性に欠けている。考えたことを表現するのは好きなんですけどね。
単純なことを考えているだけなのに、なんか難しそうに書いちゃう。
さっき言ったことを宗教家風に一言で言うと、
「人間は(可能性という名の)神の手のひらで踊っている!」
これでいいのか・・・?
自分やめたいっていうのはすごくわかります。(軽々しくわかるって言っていいのか…)
なんか埴谷豊みたいだけど。自同律の不快みたいな。
でも、うーんそれで片付けちゃいけない気もします。
俺としては自分のペルソナは気に入っているけど、もっと単純な意味での「自分」にないものを常に求めて、大きく膨らんで行くイメージと同時に、何もかもが不要に思えて、無に帰りたい衝動もあり…
うーん、考えすぎて狂人みたいになってきたな。危ない。
まあ、書きたいものを書くのが一番ですよ。
完全にあたらしいものなんてありえない。けれど人はけっこう簡単に「新しさ」を感じる。たんなる既存のパターンの組み合わせなのに驚いてしまう。
自分がなぜ自分として考えられるのか? そこにある余白とはなにか?
それを、他者との交流、それにともなう自己の内在的変化に求めていきたい気分です。
世界はものすごく唯物論的で、ぼくの意識もみんな計算しうるんだと思います。
でもやっぱりなぜだかわからないけれど人は自分や他人を感じてしまう。
それなりに足掻きたいです。
初めて遠路市街を読んだときには、小説を書く気が失せるほどの衝撃を受けました。yamamotoさんはいずれ受賞されると思いますが、私もいずれ受賞するはずと信じてるので(笑)、お互い頑張りましょう!
文学界にはずっと出してるんですが、三次までは通ったこともなく……
今回も落ちたっぽいので新しいのを書いています。
私も自分の傾向が凝り固まっていて、書いているとうんざりすることがあります。それで次は違うものを、次は違うものを、とやるんですけど、結局自分のスタイルや思想傾向が根底に必ずあって、それを打ち消すのに苦労しています。思いきってSFやライトノベルを書いて気分転換しようと思っても、結局どこか、自分の型通りになっているんですよね。あなたの悩みというか、抱えている閉塞感っていうのはとてもよくわかる気がします。(こういう「わかる」の感覚が所詮思い込みであり、他者との本当の触れ合いは不可能だという考えもよく「わかる」(気がします))
しかし、どの方向性でも突き詰めればドツボにはまるのではないかと最近は思います。ドツボにはまらない形式や方向性とは? 偉大な作家たち、たとえば村上春樹もドストエフスキーもル・クレジオもドツボにはまっているように見えなくもない――自分の型を決めすぎて抜け出せなくなっているように見えなくもない。しかしそれぞれに型を極めているから、作品のレベルは高い。
なので、ひとつの型を極めるまでは、一度は愛したやり方なんですから、捨てなくともよいと思います。少なくとも受賞していない、世に出ていない段階では。今はうんざりしていても、またどうせ戻ってくることになる――
あなたは若くて才能があります。こういうところで、真剣に小説を書いている人の言葉を見ることはとても励みになります。落ちたとはわかっていても、文学界の結果楽しみですね。
ではでは。
意識を計算する、ということは全く俺の頭にはありませんでした。
なぜなら、たとえ計算できるとしても俺には自分の意識を計算する理由がないからです。
そこに、ある。また、意識を計算する前に、意識の広大さに戸惑います。
それから、自分の意識を計算するためには、意識を測る物差しが必要なのかもしれませんが、意識の大きさに見合う物差しを知りません。
自分の意識を論理的にわかりたい、という欲求はあります。
その欲求こそが、
>自分がなぜ自分として考えられるのか? そこにある余白とはなにか?
と、俺にも問わせるのだと思います。
それは、果たして他者からヒントを得られるような問いなのでしょうか。
先哲の考えを読むことはできます。
でもそれはたとえるなら、同じ山の頂上に行くのに、先哲とまったく違う方向から登ろうとして、その先哲の書いた地図を持って山に登ろうとするようなものです。
結局、自分の地図は自分で書かなければ役には立たないのではないでしょうか。
最近、こんな話を聞きました。
西洋剣術の大先輩で、日本人の中で最強と言われている方が言いました。
「(西洋剣術で日本人は不利と言われて)どの国へ行っても、強いやつは強いし、弱いやつは弱い。
強いやつは、自分の体にふさわしい戦いかたを知ってる。
弱いやつは、自分に合った戦い方を知らずに、全然体格の違う人の真似をしようとする。
だから弱いんだ。」
たぶん、小説にも同じことが言えると考えています。
小説では、その「強さ」が身体性や強度、密度となって現れるのではないでしょうか。
言いたいのは、自分の「体格」にあった小説を書けばよろしいのではないか、ということです。
まあ、そんなに簡単に自分の「体格」を見極められたら苦労しませんがね。
自分の型から逃れられない、というのは確かにあると思います。いくらやり方を変えたって結局は自分が書いているのだからどうしても自分が現れてしまう。書けば書くほどドツボにはまる。言い換えれば自分の容量のちいささに愕然とさせられる……
もちろんそうなのですが、今回はちょっと自分でドツボにはまりすぎたかなぁって思ってるんです(笑)おかしなところに行っちゃったなって。だからすこしやり方を変えます。でも上に書いたようにどれだけやり方を変えたってぼくの型からは逃れられないでしょう。だから今までのやり方を捨てるというわけではなく、また完全一新するわけでもなく、なにかしらの化学変化みたいなものを目指していくんだろうなと思います。今、そこのところで毎日悩みっぱなしです(笑)
結論としてどうなるかはまだわかりませんが、それでも何らかの答えは出さなければならないでしょう。なるべくベストな答えを見つけたいです。
でも一方で、今の世の中は科学の進歩により人間(に限らず自然そのもの)が次々と解明され、計算され、改変されている。例えば人間の集団行動に関するパターンの問題。例えばiPS細胞の問題。それまで神秘化されてきたもの(計算不可能と思われてきたもの、改変不可能と思われてきたもの)が客観的に暴露されてきている。このままいくと人間の行動のほとんどが予測可能になったり、個人の意識を外部が勝手に作りかえたり(つまり個人の意識が絶対化されなくなったり)するかもしれない。そういうことがSF夢物語で片付けられなくなってきている。
ぼくはすべてが科学で解明しつくされることは難しいだろうし、たとえそれが可能だったとしてもかなりの時間がかかるだろうと思っています。でも間違いなく昔までのような安易な神秘化はできないでしょう。科学の強迫からはなかなか逃れることができない。
また、そもそも科学がすべてを数式であらわしたとしても人間の意識の広大さには辿りつけないだろうとも思います。よくいうクオリアみたいなものですけど、おそらく人間個人には数式化された人間(自然)を理解することができない。そこまで人間は優秀じゃない。きっとどこまでも神秘的なものはついてくるんでしょうね。その上でぼくたちになにができるのか? みたいな問題だと思います。
そういう意味で、自分の「体格」にあった小説とはなにか、を考えていきたいです。