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2009-10-08

リバタリアン・パターナリズム

『ナッジ』(邦題『実践行動経済学』)のリチャード・セイラー教授のインタビューが日経ビジネスにのっている(リンク)。


セイラー氏が共著者のキャス・サンスティーン教授と唱えているのが「リバタリアンパターナリズム」であるわけだが、これは自由放任と家父長的管理の両方を矛盾なく並存させてしまおうというアイデアだ。


左翼的な人は、すぐに何かを禁止したり、法律で縛ろうとしたりします。例えば米国では、健康に悪いから学校ではコカ・コーラを禁止しよう、と運動する人たちがいる。極端な例ではありますが、こうしたやり方はあくまで上からの強制であって、人間的な対応ではありませんね。

逆の極端な例は「レッセ・フェール(なすに任せよ)」、まさに自由放任主義のやり方です。人は何が自分にとって最善の選択かを知っているのだから、政府は強制すべきでない、好きなようにさせよというものです。

しかし「リバタリアンパターナリズム」の考え方は政治的にこの中道を行きます。「無理強いはしませんが、お手伝いします」というスタンスです。強制はしないのですが、本人が自ら、本当に望ましい選択をするように誘導するというか、もって行くというか——。そういう仕組みのことを言います。

自由主義者を意味する「リバタリアン」と親が決定するという意味の「パターナリズム」は反語だと言う人もいます。でも、この2つの考え方は共存できるのです。我々も「リバタリアンパターナリズムは矛盾ではない」という論文を書いて反論しました。

リバタリアンは、我々の文脈では「選択の余地を残す」といったニュアンスです。パターナリズムは、元々は親が温情的に子のやり方を選ぶ、という感じの意味で、ある意味選択を強制するニュアンスがありますが、我々からすれば「手助け」の意味です。ある程度手助けしながら自由にさせる。選択の余地を残したまま、望ましい方向へ誘導していくわけです。これがリバタリアンパターナリズムの意味するところです。


そしてこの共存を可能にするのが、「人間」は「ホモ・エコノミクス」ではない、という認識である。すなわち、自らの利益とそれを達成する手段の関係を正確に把握し行動するような人間はいない、ということだ。人間がホモ・エコノミクスであれば二日酔いも交通事故もない。


すなわち、セイラー氏が提案するリバタリアンパターナリズムは具体的な政策の提案である前に、新しい人間観の提案なのである。より直截にいえば、それは「大人を子どもと見なす」ということである。不完全な子どもが一定の期間を経て完全な大人になっていくという一般的なビジョンを捨て去るべきだという主張なのである。


だから「パターナリズム」という語の選択はまったく正しいのである。たとえば親はこどもに自転車を買い与えるか否かという選択を行ったり、あるいは携帯電話を持たせるか否かの選択を行うわけだが、そこで親は子どもの選択できる幅を潜在的に制限しているわけである。セイラー氏はこうした関係、すなわち彼が「選択アーキテクチャー」と呼ぶ関係性を親子関係に限定せず全ての人間関係に拡張しようと提案しているのだ。


大学のカフェテリアでは、メニューを作る人と、ディスプレーに料理を並べる人が両方います。

メニューをどのような順番で見せ、どうやってなるべく健康に良いものをたくさん食べてもらうかを計画することが「ナッジする」ことです。

カフェテリアの陳列の順番が学生の食事の選択に影響を与えるとしましょう。仮に最初と最後が選ばれやすいというならば、デザートをディスプレーの最初や最後に持ってきたりはしないでしょう? この順番を決める人が「選択アーキテクト」で、順番が「選択アーキテクチャー」です。

学生が大学でバランスの良い食事をするためには、食事の内容を決める人だけでなく、ディスプレーに並べる順番を決める人も重要なのです。


この例からもわかるように、働きかけられているのは人間の意識化されない部分である。同じメニューでも置いてある場所にとって選ぶ確率が変わる、という事実は人間集団の物質性にかかわる問題である。


それではリバタリアンパターナリズムの世界が実現したとして、そこで「親」の役割を担うのは誰なのか、そこには新たな独裁者が現れる可能性はないのか、という疑問が出てきそうである。しかし、親は一人ではないのである。むしろ多様な分野に存在する多様な専門家こそが親の役割を担うとセイラー氏は考えているようだ。そこでは誰もがある場面では親でありまた別の場面では子である、ということになる。


何にせよ重要なのは、ふさわしい専門家を雇って、危険を避けるための適切な選択肢を作り上げることです。

日本料理店の「料理長のおまかせコース」というのがあるでしょう。あのような感じですね。選ぶ方としては、細かいところは良く分からないけれど、それでもなるべく自分で吟味して意思決定をしたいでしょう。ですから、とりあえず専門家が知恵を絞っていくつかの選択肢を用意して、そこから選んでもらう。

私は日本料理が好きなのですが、料理長の方が私よりずっと日本料理について詳しいのは当たり前ですから、ある程度お任せした方が安心です。その意味で、リバタリアンパターナリズムのやり方は「おまかせコース」の提示にとてもよく似ているとも言えます。


重要なことに、自分が「選択アーキテクト」であるという意識は(選択アーキテクチャの存在そのもののためには)必要でない。『ナッジ』でもいわれているとおり、むしろ「そうとは気づいていないケースがほとんど」(13頁)なのである。そして選択アーキテクチャをなしですますことも不可能だ。現状維持も一つの選択アーキテクチャの設計である。さらに最善の、あるいは中立的なアーキテクチャも存在しない。すると、これはしごくまっとうな社会設計の議論である、ということになる。


実践 行動経済学

実践 行動経済学

ぺロぺロ 2010/06/22 14:03 今、カナダのリバタリアニズムについて調べているのですが、どういった著書を参考にしたらよろしいでしょうか?

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