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日暮れて途遠し このページをアンテナに追加 RSSフィード

<ようこそ! 最初にお読みください。>
 告発、告訴の問題は、現在次のブログをメインにしています。
再審請求に向けて:http://hirono-hideki.cocolog-nifty.com/blog/

本日、金沢地方検察庁に電話連絡をしました。追って、エントリを書きます。
2008年1月21日

本日、金沢地方検察庁に電話連絡をしました。追って、エントリを書きます。
9月25日20時49分

 まだ書いていませんが、簡単にご報告しますと、今年度の新しい担当者のお名前は、「タカマツ」。たぶん、高松と書くのでしょう。当日不在ということで、 まだ声も聞いていないのですが、例の捜査官室長のような上司の人が、対応に出て、尋ねもしないのに、名前を教えてくれました。  とても変わった名前で、「戸澗(とま)」というそうです。  なお、この部分は、エントリに記載後、消去する予定のお知らせです。 10月4日23時31分


 ここ一ヶ月間のアクセス状況を公開しました。10分ほど前の記録になります。 2007年9月26日22時33分
2008年10月6日、金沢地方検察庁に電話連絡。応対したのは岸田さん。 2008年10月29日0時55分

2009-02-16 *1234736237*[検察]検察庁でハンコついてつべこべ言っているような人

2006-09-23 *1159016243*[アクセス状況]2006_09_23 時間帯別レポート(最新24時

[]情報公開の意義について(2006_09_23)

 時刻は22時17分になっています。新たにコメント投稿が入っていることは13時すぎから確認していました。それを含め、先程24時間以内のアクセス状況をエントリとして登録しましたが、アクセス自体が絶望的に少なくなっています。

# ぽんぽん痛い 『ブログ拝見しました。

気になったのは以下の点です。

・「被害者AAさんに暴行を加え、準強姦で刑務所に行ったのは事実だが、

それはまわりの人間がそうなるように仕組んだものであるから、冤罪だ。

それに、暴行の際に、彼女は嫌がっていない様子だった」という主張ですか?

・安藤さんの父親にも暴行を加えて服役したとの記述がありますが、

あなたは一体どのような経緯で暴行を加えるに至ったのですか?

また、どのような暴行を加えたのですか?

・目的は安藤さんとの結婚という記述がありましたが、

できる限りオブラートに包むと、かなり難しそうですよね。

現代に、婦女暴行の加害者と被害者が結婚するという事例を知りません。

ご存知でしたら、教えてください。

以上です。

パチスロやめられるといいですね。』 (2006/09/23 12:47)

http://d.hatena.ne.jp/hirono_hideki/20060922/1158874275#c1158983275

 これまでにも何度か同じ説明をしていると思うのですが、似たような印象を抱く人が多いようです。それで読む価値なし、ですか。コメントをいれてくれる人は、ある程度読んでくれていると思うので、私のアピールの仕方が、まずいともお考えなのかも知れません。

>それはまわりの人間がそうなるように仕組んだものであるから、冤罪だ。

 これも本旨からはずれていますが、限界事例としての参考にはなるでしょう。

 言い替えれば、直接手を出さなければ、何をやっても責任はない、という限界です。なお、刑法上、私の刑事責任は別個のものになりますが、事実関係は不可分一体です。冤罪という言葉自体が妥当性を欠きますが、警察の判断としては、同様の意義も持ちうるかと思えます。このような解釈を本気で行っているのであれば、冤罪被害まがいの制裁処置も行われそうです。

 その方向、つまり故意と過失を区別しない、客観主義的な刑罰の運用が、定着しつつあるようです。

 父親の件ですが、もう情けないやら、呆れ果てて書く気にもなれませんが、そのうちいつかは書くでしょう。これだけなめられたコメントを入れられ、アクセス自体が異常に少ないというのが、危機的です。なお、ある程度のことはこれまでにも書いてあるはずです。

 なめられたコメントというのも、私に対してと言うよりは、反応の異様に乏しい社会に対する不信感の現れなのかも知れません。

 その他、14年以上かかった真相解明、裁判とはこれほどまでの負担を強いられる。一方で、全く無責任な言辞を弄してその場をしのいだ連中が、平然と社会生活を営んできたが、告訴状という最終的な法的手続きを目前に控え、成立する犯罪は「殺人未遂」のみである、などという特徴を挙げることが出来ます。

 準強姦罪についても、本来、検察官が起訴しなければ犯罪として成立していないものです。それと軽視されがちなのは、被害者本人の意思です。本人の意思、尊厳がどれほど軽視されているのかという状況を示しているはずですが、あまりの反応の乏しさに驚きを通り越し、検察も裁判所も戸惑っているかも知れません。

 私自身、どうしてここまで長引いてきたのか、最近になって理解が出来てきたように思っています。自分自身の利益にしか関心がなく、知らないで済ませようとする人間が多すぎるということも一因かと思えます。まず、この知らないで済む、という大前提から崩され、途方もない責任をしょいこむことになるかと考えられます。建設のための人柱のようなものですが、潜在的な志願者が多すぎるのかもしれません。

 もう少しでも、他人の痛みを慮る想像力があれば、アクセスも増えていそうですが、まともな共感というのもこれほど難しい時代になっているのかもしれません。面白いことに、警察、検察、司法不信を煽りたてる人々が、この問題を遠ざけ、あるいは司法判断、事実認定を安易に尊重しているかのように見えます。

 つまるところ、自分の立場、利益でしか物事を推し測ることしかできない人間が多すぎて、どうにもならないということになりそうです。このブログのアクセス状況を軽く見ていると、途方もない負担を分担させられることになるかもしれません。

 マスコミも、警察の対応のまずさなどをなじるのは得意なようですが、現実の吟味力には疑問も残ります。資料がないと、駄々をこねて欲しがり、私のように提供していると、無視ですか。マスコミに限ったことではありませんが、私としてもこんなことをいつまでも続けているわけにはいきません。このままアクセス数が増えないようであれば、資格なしとして、情報提供を大幅削減の上、打ち切ることも検討します。

 皮相な捉え方で、相手を挑発し、情報を引き出すというのは、まずい手法の一つですが、関心を向けるだけでも、人間性が残されているような気もします。

 皮肉で、「ぽんぽん痛い」さんのことを言っているわけでもないのですが、それにしても面白いハンドル名です。この前も「ふとっちょママ」というハンドル名のコメントがありました。

 やはり、現実に検察が動いてから、ということになりそうです。無駄なことを繰り返してきたようですが、情報公開の意義について、現状を確認できたのも収穫であったと考えています。

 教育を含め、いろいろ問題がありそうです。青少年もこれではかみあった相談も出来そうにありません。画一的、単純な類型化でしか、判断が出来ないマニュアル体制なのですから、私自身、そのような好都合な総括は、持ち合わせていないのですが、除外項目に指定されていることは、確かなようです。

 パチスロには行っていません。昨日もたまたま用事で通りがかったので、オープン当初盛況で、全国チェーンの評判のよかった店を覗いてみましたが、客も少なめで出ていないようでした。乱立と乱獲が祟ったと言うのが、私なりの分析であり、見解です。

 「ぽんぽん痛い」さんに言われたように、やめる努力をしているところですが、面白くないとついつい行きたくなるのも事実です。まあ、勝てる気は全然しなくなったので、それだけでも大きな進歩かもしれません。

追記:2006.09.24:0245

 しかし、「ぽんぽん痛い」とはつくづく面白い命名です。ちなみに、私の母親は京都生まれで親戚もあるので、小さい頃はよく「ぽんぽん」と聞かされていたものです。お腹のことですよね。あるいは関西方面でしか通用しない言葉なのかもしれません。もうほとんど忘れかけていた言葉を思い出させてくれました。やはり関西系の人なのでしょうか。

2006-09-17 *1158461504*[時事]亡国ニッポンの象徴なのでは?

[]安田敏の妻、ユミについて

 今日20時過ぎに被告訴人の一人安田敏の家の方に電話を掛けました。案の定安田敏は不在でしたが、妻としばらく話しをすることが出来ました。

 安田敏は金沢の方で、ずっと運転手をしているといい、余り帰ってこない等といいながら、安田敏のことより自分のことを気に掛けた様子で、「私は、関係ないですよね」、「別居していたこともあるし」、「離婚すれば関係ないですよね」などと問い掛けのように話していました。

 この妻についても、資料の方には書いてあるのですが、被告訴人らの犯行計画に加担していた疑いがあります。

 安田敏が連絡を寄越してきた平成3年の4月の終わり頃から、ちょくちょく安田敏のアパートに遊びに行っていたのですが、その金沢市花里のアパートはもともと彼女のもので、そこに安田敏が転がり込んできたそうです。

 当時すでに、入籍していたのかもしれません。このあたりも私の記憶は曖昧になっています。

 問題の行動というのは、彼女が徹底して私に顔を見せず、ずっとベットで横になりシーツのような薄い毛布をかぶり続けていたことです。

 変わった性格なのかとも考え、初めは余り気にしてもいなかったのですが、12月22日の夜になると、出産間近の状態で、マタニティも着ず、体にフィットしたジャージのような姿で現れ、ごく普通のようにその場にいて、もちろん顔も見せていました。

 出産の一週間ほど前のことです。

 安田敏はそれ以前から、自宅の電話線を抜くなどし、おかしな行動を見せていましたが、私に電話を掛けるように仕向けていたのも、東渡、浜上、松平日出男でした。

 これだけでは、些細なことに思えるでしょうが、それは被害者となった被害者AAさんの行動を予め模倣したようなもので、錯誤に陥らせ、暗示に掛けやすくするための高度な策動であった可能性が濃厚です。

 とにかく、これだけを読んでも理解が難しいと思いますが、こういうこともあったことを改めて記録しておきたいと思います。

 安田敏は昭和37年ぐらいの生まれで、学年的には私の二つ年上でした。ユミという名の妻は、安田敏より少し年上だったように思います。少なくとも年下ではなかったはずです。

 実家は、金沢市内諸江あたりで、旧姓は「やなせ」と聞いたように思います。

 犯罪組織の一員であった可能性があり、そのあたりは検察の方でも調べていることでしょう。

 今日の電話で、前に電話をしたり家に来たときも、警察に連絡をしたなどと言っていましたが、警察から私に連絡があるようなことはありませんでした。

 これまでの対応を見ると、安田敏に関しては観念をしているようです。生活の窮状も訴えていましたが、自分らのことしか考えておらず、相変わらず虫のよい甘えが感じられました。

 私の方から、「警察に言うのは勝手だが、でたらめを言ってもらったら、責任は取ってもらう。まだ分かっていないようだな」などと伝えて電話を切りました。

 先程のことなのに、具体的な言葉がはっきり思い出せなくなっています。思い出せたらまた書きます。

 自分でも非情だと思いますが、これが組織的共謀の実態であり、累は家族にも及びます。

 そのあと、梅野博之の自宅にも電話を掛けましたが、今回は人が出ました。留守できていると言い、声からも梅野博之の妻とは違っているように感じました。

 安田敏同様、前に何時掛けたのか思い出せませんが、あるいは一年以上経過しているかもしれません。前回梅野博之に電話をしたときは、登録された電話番号しか繋がらないとアナウンスが流れていました。

2006-09-09 *1157784250*[司法全般]刑事弁護の限界と模索という課題

[]組織犯罪と法的救済について(14)

 時刻は23時51分になっています。前回エントリを登録してから、夕方にかけ横になってうとうとと寝ていました。それから買い物に出掛け、20時少し前ぐらいに戻り、テレビを観ていました。途中からみたのですが、次の番組はいろいろと参考になりました。

19:00 ステレオ放送文字多重放送 緊急特番!!仰天格差社会ニッポン!あなたも中流から転落する!? 辰巳琢郎ハローワークで職探し▽ほしのあきが(秘)データに衝撃告白▽借金返済に命を削る父親▽ニートの暴言に高橋ジョージ激怒!▽ウドちゃん転落への道迫真ドラマ

21時になるとしばらくあちこちチャンネルを変えていたのですが、久しぶりにテレビドラマを観ました。女刑事の2時間ドラマです。

21:00 ステレオ放送文字多重放送 土曜ワイド劇場特別企画 「さくら署の女たち・5人の美人女刑事の華麗なる殺人捜査!3つの死体に仕組まれた二重逆転トリック」

主演は高島礼子でしたが、以前彼女が主役の2時間ドラマを観たのは、検察審査会を取り上げたドラマでした。このブログを見てくれた人のなかにも、同じ番組を観た人がいるかもしれません。

 今日の番組では、終わりに「罠の罠を仕掛け、暗示を掛けた」などという事件解決の手法が説明されていました。なんか今までの私がみた事件ドラマにはなかったような展開で、たまたま観た番組でしたが、割と面白かったような気もします。

 初めは同じ時間帯の次のドラマも気になっていて、こちらをみようと考えていたのですが、このブログの記述に専念しようとやめにし、適当にチャンネルをつけていたところ、結局前のドラマを大半まで観たことになります。

21:00 ステレオ放送文字多重放送 土曜プレミアム 2夜連続秋のヒューマンミステリー(2) 「死亡推定時刻〜北の国からのスタッフが贈る人生の感動の物語〜少女はなぜ誘拐され殺されたのか?無実の青年と冤罪の裏に秘められた兄弟の悲しき宿命の絆」

 本当をいうと、殺人事件を取り扱った創作ドラマというのは、余り好きでなく観ることも少ないのです。ドラマの構成としては、「7人の女弁護士」と似ていて、あとで確認すると同じテレビ朝日の制作だったようです。「7人の女弁護士」をやっていた頃は、その前の20時からの時間帯で、「京都地検の女」が放送され、こちらも何度か観ました。「主婦の勘よ」が口癖のような女検事が主役でしたが、女性検事と聞いて思い出すことがあります。

 これも私が福井刑務所にいた頃だったかもしれません。スポーツ新聞だったように思います。福井刑務所ではレクの時間に、報知新聞などのスポーツ紙も読むことが出来ました。

 確か広島県だったと思いますが、女性検事の夫が恐喝か恐喝未遂の事件を起こし逮捕されたというニュースで、大きな報道ではありませんでしたが、印象に残りました。

 同じ頃、これも確か広島県だったと思いますが、もっと印象的な事件があり、それは現職の教師と教え子の生徒が、共謀をして強盗事件を起こしたようなニュースでした。

 いずれも時代が変わったものだとしみじみ感じた憶えがあります。

 先程、Googleで「警部補 死刑囚」と検索を掛けたところ、次のブログに辿り着きました。なんかものすごく警察や裁判に対し不信感をお持ちの様子で、とても細かく具体的な情報が満載された珍しいブログです。

 早速、前回のエントリをトラックバック送信し、登録反映されたことを確認しました。

<冤罪製造軍団ザ・紅林組>

http://donzokoblue.blog55.fc2.com/blog-entry-112.html

 昭和30年代とずいぶん前のことですが、対象が静岡県に集中しているようで、それも気になりました。前のエントリで紹介した自称元弁護士も静岡県から来たと聞いていたからです。

 同じブログのなかに、秋田児童殺傷事件を取り上げたブログがあり、こちらも読んでみたのですが、いろいろと参考になり、最近の問題でもあるのでより強い関心も引きました。けっこう緻密な分析もされているようで、とても参考になります。

 このような人に、私の事件も分析、検証して頂ければ、社会的に有用なことだと思います。

< 完全自殺捏造マニュアル—秋田は自殺大県か>

http://donzokoblue.blog55.fc2.com/blog-entry-128.html

 他にも冤罪や死刑問題を取り上げたエントリが沢山あるようなので、読んでおきたいところですが、自分自身のブログエントリの作成もしなければならないので、なかなか行き届かないかと思います。

 ブログ名は「どん底あるいは青い鳥。」のようですが、どんな人が書いているのでしょう。単なるマニアにしては、情報量も豊富で洗練されているので、あるいはその方面の研究者なのかもしれません。心理学とか、いろいろ想像してしまいますが、なんとなく法律家ではないように思えます。

 このブログにも、コメントやトラックバックを入れてくれると有り難いんですけど。

 「大本営発表は日本人のサガ」というエントリもあるようです。サガは性と漢字で書くはずです。あえてカタカナを使ったのも、分かりやすくするための配慮かもしれません。

 秋田事件を取り上げたエントリに触れられていましたが、秋田県が日本一自殺者の多い県だということは、聞いていました。NHKのワーキングプアの特番でも解説されていたように思いますが、それ以前に何かで見た憶えがあります。

 私は以前、長距離トラックの運転手をしていた関係で、ほぼ日本全国の都市を津々浦々まで見るという経験もすることが出来ました。秋田県もちょくちょく行き、風景や町並みはよく覚えていますが、人と接する機会はほとんどありませんでした。

 秋田市や能代市の市場に鮮魚を降ろしていたのですが、こちらはフォークリフトを使い、自分でパレットに積んで並べてから、検品をしてもらい伝票にサインをもらう程度の触れ合いしかなかったからです。

 私は個人的に東北に行くのが好きでした。信号も少なく、のんびり走れるのが性に合っていたようです。細かくいえば、国道13号線の湯沢市あたりを走るのが好きで、そちらから岩手県の盛岡市に行くこともありました。

 風景としては、日本海沿いの新潟、山形県の県境あたりが好きで、こちらは国道7号線になります。知らない人が多いと思いますが、秋田あたりから青森、北海道では瓦屋根の家がほとんどなく、みなトタン屋根の家です。なんか異国に近いような情緒も好みになっていたようです。

 それと東北の食堂は、ほとんど例外なくご飯がおいしかったです。お米の問題でなく、炊き方が違っていたのかもしれません。226事件が起こる頃、東北地方では3人に一人の割合で、女の子が芸子として身売りされていたそうですが、売春婦として人身売買されていたように読めました。

 「おしん」の舞台も山形県だったと思いますが、やはりお米に対する思い入れも格別で、その伝統がおいしいと感じさせるご飯に繋がっていたのかもしれません。あくまで個人的な感想ですが。

 ただ、山形県の海岸沿いの食堂では、生まれてこのかた経験がなく、忘れられないほどまずいラーメンが出てきたことも強い印象として記憶に残っています。たまたま店主の個人的な味覚があったのかもしれません。

 宮城県の国道286号線でも「日本一」か「街道一」まずいラーメン屋かうどん屋という看板の店がありましたが、入ることはありませんでした。

 静岡県もたまに行きましたが、東名高速の通過以外では、年に数回程度だったと思います。事件の前日の未明、ここ一年ほど前になって突如思い出したことですが、茨城県の古河青果市場から積んだ野菜を名古屋の市場で卸す前に、浜松の市場に立ち寄って降ろしました。初めて行った市場でしたが、建物の作りや風景がどこか山形市の市場に似ていて、それが印象に残っていました。

 被告訴人の一人、本恒夫のことですが、彼は金沢生まれですが、二十歳前ぐらいに富山市の方に行き、繁華街で飲み屋を経営していたそうです。数店舗経営している実業家のような話しぶりでした。自分が時代に先立って、カラオケを導入したとも自慢していました。

 その後、彼は静岡市に移ったそうですが、そこでこれも時代に先立ち、サラ金を始めたそうです。事前に町の規模などを情報を分析、研究し、静岡市を選んだとも自慢していました。いずれも大成功を納めたらしく、静岡では御殿のような家も建てて住んでいたとか。

 そのうち詐欺で警察の手配を受けるようになり、逃亡した先が金沢市で、金沢市場輸送で仕事を始めたそうです。そして1,2年ぐらいで警察の手に掛かり、静岡刑務所で1年ほど服役したと話していました。

 個人ではない大きな相手の詐欺で、何億円せしめたなどとこれも誇らしげに自慢していました。昭和61年の12月頃の夕方遅く、蛸島のTSさんと三人で北安江の焼肉店に行ったときの会話です。

 出所の際には、竹沢俊寿が身元保証人として向かいに来てくれ、金沢市場輸送に戻って再び仕事をするようになったとも話していました。

 可能性は小さいと思いますが、サスペンスドラマのように考えると、この話を聞いてしまったことが、あとの事件に繋がったのかもしれません。本恒夫は酒に弱く、ビール一杯でも顔が真っ赤になるようなたちで、うっかり口を滑らせてしまったのかもしれません。この一事だけでは、穿ちすぎのようですが、表向きの運送業とは別の裏の犯罪組織のような活動を続けて行く上で、私が不都合な存在になったことは合理的にも考えられることかと思います。

 本恒夫は私が初めて金沢市場輸送で働いた昭和59年当時、入社7,8年目という最古参の運転手でした。これは特別な意味もあることで、金沢市場輸送の給料システムでは、1年ごとに基本給が1万円ずつ増えて行くようになっていたので、一番の高給取りでもあったと推定されます。

 給料の計算システム自体は、平成2年頃に竹沢俊寿が変更しました。その頃、月に6日の休みが義務づけられたという話もあり、それにもあわせて変更したようです。

 変更前の基本給は確か10万円で、歩合というのは荷物を積んで走行した距離だけでした。1キロにつき20円という計算だったと思います。これだけではたいした給料にならず、大抵は休みなしで働き、休日分を上乗せしていましたが、休みにならない空き時間というのも緩やかに認めてくれたので、月に休みがなくても、実際は家で休めることが少なくはありませんでした。

 一方の中西運輸商では、夜中の3時ぐらいに福岡市の佐川急便を出て、大阪、金沢などと佐川の支店で荷物を降ろし、夕方に荷卸しか完了しても、そのまま帰れば、半日仕事という扱いにされ、休みが規定の4日だったかを越えると、手当が大幅に削減されていました。

 要は控えの運転手を確保するための、間接的な強制力のようなもので、かなり強引でしたが、その点に限ればそれほど際立った特徴でもない、時代だったと思えます。

 経営自体が強引で暴力的な会社が少なくない時代で、規制もそれだけ緩かったのだと思います。サラ金の強引な取り立てや高金利が、大きな社会問題になっていたのもだいたい同じぐらいの時期だったと思います。

 暴力的なやり方で、運転手が逃げて行けば、丸儲けのように考えていたようです。無理のある運行で、事故も多発していましたが、それも儲けのひとつとして捉えていた節が窺えます。取り立てはヤクザに頼む、事故の保険金で快適な病院生活というのが、当たり前のような時代でした。他県のことは知りませんが、金沢辺りではそんな感じでした。

 中西運輸商にいた昭和60年頃、同じ会社の運転手から聞いた話では、「大洋まるは」という当時は有名だった水産加工会社は、保険を掛けた人間をマグロ船に乗せ、海に突き落として保険金をせしめることで大きくなったという話でした。あくまで噂のようなもので真偽のほどは不明です。

 中西運輸商はもともとその大洋マルハの仕事を請け負っていたそうですが、密告から白ナンバーで摘発され、大打撃を受けてつぶれたような話でした。

 もともとは中西水産輸送有限会社という会社でしたが、私がいた頃も運転手自体は、中西水産輸送の社員であり、中西運輸商というのは、配車を本業とする会社だったそうです。

 「ミズヤ」などという言葉で聞くこともありましたが、要は大手運送会社などから仕事を請け負い、実際の仕事は「庸車」と呼ばれる他の運送会社や、個人営業の白ナンバーのトラック運転手に丸投げするというシステムでした。

 一度、富山県高岡市の冷蔵庫に行ったとき、青森ナンバーの運転手と少し話をしたのですが、それは白ナンバーの中西運輸商の庸車で、中西運輸商では燃料代だけでよしとしなければならないと開き直ったように話していました。

 当時の軽油代というのは、今よりはるかに安いもので、大型車の燃料タンクは二つ付いていることが多く、計算上は満タンで600リッターでしたが、ガス欠したあとでも600リッター入ることは私の経験上ありませんでした。最高でも570リッターぐらいでした。

 軽油代というのは当時で、高くても50円ぐらいだったと思います。一番安い時期には、38円ぐらいの時もあったように憶えています。今では100円を超え、ほとんどガソリンと変わらなくなっていますが、当時は経由というのはガソリンよりはるかに安いものだと相場が決まっていました。

 50円で600リッターとして計算しても3万円です。

 金沢市場輸送を除けば、冷凍魚などを積む保冷車はほとんどがV型エンジンで、ターボ車に較べ燃費が悪かったのですが、それでも満タンにすれば、1300キロぐらいは走行できたと思います。

 ちなみに、私は長崎県で満タンにし、金沢に戻り、翌日の朝、金沢で魚を積み、青森に向けは知ったところ、富山市をこえたあたりで、ガス欠を起こしました。雪の降る時期で、あの時は、終わりかと思いましたが、幸い延着はしませんでした。鮮魚の延着は一千万円以上の損害になるという話で、その返済は、運転手の自己負担になると相場が決まっていたからです。

 前も見えない猛吹雪の中走っている車もほとんどなく、秋田市の市場から、能代、大館の市場を降ろし、青森市の市場まで2時間20分ほどで走ったこともありましたが、秋田市から青森市までは距離にして200キロあります。手から脂汗がにじみ出るほど、怖い思いをして運転をしていましたが、青森の市場では、新車のトラックの下の部分が吹き付け塗装でもしたように分厚く白く輝き、保冷車の箱全体が樹氷のように凍り付いて、それはそれは綺麗で見事な光景でした。

 時には神経がおかしくなるほど、無理な運転を続けましたが、成し遂げた達成感というのも格別なもので、そんな経験が、他の仕事をずいぶん楽に感じさせていました。

 その当時も、歳がいってからはこんな仕事はしたくないと考えていましたが、振り返れば自分自身の財産としてあとあと役立つことも多かったと考えています。

 金沢市場輸送では名前通り市場の仕事が多く、市場の仕事というのはセリの時間に間に合わせるため、大変なこともありました。雪の時期でも出発、到着時間ともにほとんど変わりがなかったからです。あとはたまにある大雨でも、神経のすり減ることはありました。

 しかし、中西運輸商に比較すれば、条件的にもはるかに楽な仕事でした。中西運輸商は過酷な運行を半ば脅迫的に強制するような会社で、そのような評判も高い会社でした。まだ未熟だったせいもありますが、中西運輸商にいることは、よく居眠り運転をし、危ない思いもしょっちゅうで、実際、居眠りで高速道路で他のトラックに接触したり、山間部の国道でガードレールにぶつかるようなこともありました。はっきり言って、命知らずの馬鹿のようなことをやっていました。

 振り返れば、高額の保険金を掛けられ、競馬で大穴を当てるように死ぬことを期待されていたのかもしれません。そのあたりは警察が調べればすぐに分かりそうなことですが、これだけでは警察も殺人未遂として立件はしないし、出来ないでしょう。

 参考までに、一度中西運輸商の社長の夫人と二人で、車に乗りどこかに向かったことがあり、車のなかで話をしていたところ、およそ次のように言っていました。

 「丸西水産輸送、北都高速の奥さんらと話をしたが、運転手が死ねば儲かると話していた。とんでもない話で、うちで死んだ運転手は一人だけで、それも休日前の空車回送のとき、自分の用事で無理な運行をしたらしく事故を起こして死んでしまった。」

 当時私はちょうど20歳ぐらいでした。憤慨した様子で話していたので、そのまま聞いていたのですが、それにしては言行不一致で、殺人的な仕事を運転手にさせているとも考えていました。自分自身に身の危険が降りかかる危険があるほど深刻には考えませんでしたが、たまたま死んでくれても利益にはなるという考え程度かな、といったところです。

 あとあとおかしいと感じたのは、むしろパンクしたタイヤの修理のことでした。当時は、箱の長さが9200,つまり9メートル20センチある4トン車に乗務していました。大型車の長いものでもだいたい9400が限度だったと思います。

 高さの上限は大型車と同じ、3メートル80センチ。中西運輸商のこだわりはすごく、それでも足りずに、車検のときに扁平タイヤを付け、実際の高さを稼いでいたという話です。高ければその分、荷物が多く載るからです。

 その上、4トン車だったので、低床とも呼び、荷台の高さははるかに低くなっていました。それだけ箱の容積が大きく、沢山の荷物を詰めたことになります。ちなみに、金沢市場輸送の保冷車の箱のなかの高さは2100センチでしたが、中西運輸商の4トン車は3000センチ近くあったのかもしれません。

 箱が大きくなったり、冷凍物を積むため補強などすると車体自体が重くなり、総重量の関係から実際の積める重さも少なくなっていました。中西運輸商の9200の4トン車の場合、2トンちょっとぐらいと推定されます。もともとは、発泡スチロールを積むようなトラックで、実際、羽咋郡押水町にある優水化成という会社から、魚箱用や建築資材の発泡スチロールを運ぶ仕事もありました。特に、春頃には東北方面によく建築資材を運んでいました。

 中西運輸商は白ナンバーで摘発を受けたと倒産したような話で、社長家族もどん底の状況にあったと聞きます。その窮地を救ったのが、広島県東広島市にあった「西日本運輸興業」という会社で、佐川急便の下請け会社でした。

 当時の佐川急便は、自社としてはローカルというか地場の集配仕事だけで、各支店路線間の長距離の仕事は、すべて別の運送会社に請け負わせていたそうです。代表的なものとして、「京和」、「大東実業」、「九州運送」などがありました。見た目は全く佐川のカラーのトラックで、飛脚のマークも入ったものが半分かそれ以上多かったと思います。

 中西運輸商の受け持ちは、北陸の支店からの広島、九州便でした。

 私は九州も好きだったので、それも中西運輸商に務めた動機のひとつでした。その頃は、東京や大阪の渋滞の多い都会に行くのが、嫌いでした。運転することも好きだったので、信号待ちなどで止まるのも苦痛だったのです。

 二度目に中西運輸商に入ったのは昭和62年の1月のことで、この時は大型車に乗務していました。中西運輸商の全盛時代で、トラックの数も運転手の数も一番多い頃でしたが、事故も多発していました。私の知る限り、中西運輸商で死んだ運転手は一人だけでした。

 実際現場を見たのですが、中国自動車道の上り線、新見インターの先にある右にカーブしたトンネルの入り口で、そのままトンネルの入り口のコンクリートの壁に激突したそうです。事故を起こしたトラックを見ましたが、運転席のキャビン全体がせんべい布団のようにつぶれていました。運転手の体も押しつぶされたようになっていたそうです。

 当時一緒に運転手をしていた吉村哲と見に行き、彼から話を聞いたのですが、事故を起こした運転手は広島市内の佐川急便で荷物を降ろし、九州方面に向かうはずが、逆方向で大阪に向かって走行していたそうです。なぜそんなことをしたのか、彼もずいぶん不思議がっていましたが、死人に口なしなので、真相は分かるはずもないと考えていました。

 他にも同じ頃、トレーラーの運転手が、北九州市の都市高速で、高架から転落し、意識不明の植物人間になっていると聞いていました。二人で乗務していたらしく、二人ともそうなったような話でした。その後、死んだのかもしれませんが、私が話を聞いた頃は、植物人間状態だったようです。

 他にも中国自動車道のあちこちで大事故を起こしていたという話でした。特に大きかったのは、広島県内での対面通行のトンネル内での火災事故で連鎖的な大事故になり、多数の死傷者が出たと聞いていました。事故の引き金となったのは中西運輸商の運転手で、20歳前後の女の運転手と聞いた憶えもあります。

 当時の中国道では、雪の降る時期になるとちょくちょく起こっていたトンネル事故で、トンネルの出口にある大きな避難用の駐車場に、丸焦げになったトラックが多数置いてあるのも何度か目撃したことがありました。中国道の山間部は、北陸と変わらないぐらい雪が降ることがあり、スノータイヤを装着していない車も多かったので、大事故に繋がりやすかったようです。

 当時は、広島から山口間のトンネルのほとんどが、対面通行でした。今では変わっていることでしょう。なお、六日市インターなど一部島根県という区間もありました。

 中国道は岡山県内から山口県内に掛け、急なカーブも多く、上り下りの激しい道路でした。そこをサーキットのように走るのが当時は面白かったのですが、もともと事故も多かったようです。

 そのうち、中国道で中西運輸商のトラックが事故ばかり起こすので、問題になっていると聞くようになり、佐川から切られたと聞きました。もともとの路線は九州運送が替わりになったそうです。

 そんな話をちらほら聞いている頃、吉村哲から連絡があり、私の紹介というかたちで、金沢市場輸送に入社し、配車係をするようになったのです。

 しばらくすると吉村哲は、中西運輸商から藤田博巳という当時45歳から50歳ぐらいの元トレーラの運転手を金沢市場輸送に招き入れ、一緒に配車係をしていました。

 中西運輸商の運転手の大半は、九州の人間でしたが、金沢の桐畑運送という鉄鋼関係の運送会社から10人ほどまとまって中西運輸商に入社していた時期があり、藤田もその一人でした。

 吉村哲と藤田は野心を抱き、佐川急便の仕事を金沢市場輸送に引っ張るのを目的としていたようです。実際、5,6人の九州の運転手を金沢市場輸送に連れてきたことがありましたが、みなすぐにやめて行き、残ったのは井口(もしくは猪口)という運転手だけで、彼は東渡とも親しくしていたようで、一緒に長崎県の松浦漁港の市場に魚を積みに行ったとも話していました。東渡は、その市場でも一悶着を起こしてきたような話を聞きました。入社した当時からあちこちで、トラブルを起こしていたそうです。

 私が実際に目撃しただけでも、目を疑うような光景がありました。平成3年の春頃だったと思います。朝方明るくなった頃、金沢の中央卸売市場で、古河から積んできた野菜を降ろしていたのですが、荷受けのおじいさんと荷卸しのことで、言い合いになっていたのです。困る事情があったので、早く荷卸しをさせてくれと頼んでいたように思います。

 先に荷卸しを済ませてきた東渡が、市場急配センターの駐車場にトラックを止めようとしたところ、ちょうどその光景を見たらしく、歩いてこちらに向かってきたのですが、押し黙ったまま近づいてくると、ものも言わずおじいさんの首根っこを掴み、力任せでキャベツの箱の中に顔を押し込んだのです。キャベツの箱というのは、白菜とほぼ同じ大きさですが、キャベツの場合、なかに隙間があり、湿気の関係か箱が柔らかくなっています。うまく状況描写ができませんが、それは理解を超えるもので、びっくりする光景でした。

 糖度は最後まで口を開かず、そのまま立ち去っていったかもしれません。普通、運転手と市場の荷受けの間には、事実上の力関係のようなものがあり、逆らってトラブルを起こすと出入り禁止になると聞いていました。

 しかし問題になるようなことはなく、松平日出男がうまく処理をしたか、おじいさんが余りの出来事に圧倒されて、沈黙を貫いたのかもしれません。

 とにかくこの時は、冗談ぽさのようなものはありませんでした。力で支配するような勢いのみが感じられました。

 これと負けないぐらい驚いたのは、同じ平成3年の7月頃に起こした包丁事件でした。事件と書きましたが、警察沙汰になったわけではありません。

 これまでにも何度か書いてきたと思うのですが、初めて読む方も多いと思われるので、面倒ですが、もう一度書いておきます。

 ある日16時ぐらいに配達が終わり、市場急配センターの事務所に戻ったところ、東渡好信が包丁を手にして、何かを口走っていました。テーブルに持っていた包丁を突き立てたような記憶もあるのですが、実際に突き刺さるようなことはなかったかもしれません。

 先日、このブログでも掲載した「証拠番号5」の書面の冒頭に書いてあることですが、私はそこで、金沢市場輸送から市場急配センターに移った時期を5月下旬と記載していますが、実際は6月下旬であった可能性が濃厚です。私自身、5月だと思い込んでいたのですが、斐川弁護士から郵送された縮小版の資料のなかにも「運行表」があり、今確認すると6月18日が最後の運行になっています。

 私自身この運行表のことはすっかり忘れていて、一月ほど前にデジカメで写真を写すときにたまたま発見したものでした。

 最後の運行のことはよく覚えています。神戸でミールを降ろし、空車で帰ったのですが、金沢刑務所でも顔を合わせたYAと一緒の運行でした。夜中一緒に、敦賀のガソリンスタンドで給油したことも憶えています。朝になって事務所に顔を出したところ、本恒夫に挑発的とも受け取れるような態度で、九州行きを指示され、これを断って、会社に出なくなったのです。これが6月18日の朝ということになりそうです。

 この時の問題自体は、たいしたことがなかったのですが、ゴールデンウィークに前後して東渡好信がクーデターのように起こしたストライキの問題が尾を引いていて、私が本恒夫という人間に見切りをつけ、やめることにしたのです。

 本当はストライキの最中にもやめるつもりでいて、他の運送会社にも面接に行っていたように思います。そこに突然電話を掛けてきたのが、安田敏でした。当時彼は、輪島屋鮮冷という冷凍関係を主に扱う同じ金沢の運送会社で4トン車に乗務していました。

 直接的に言うことはありませんでしたが、初めから私の紹介で金沢市場輸送に入社することを目的としていたはずです。そしてこれもどこかわざとらしい接近のような雰囲気を感じさせるものでした。深くは考えませんでしたが、どこか不自然さも感じられたからです。

 当時、安田敏は大型免許を持っておらず、入社が決まるとすぐに市場急配センターの方で仕事をするようになり、配達が終わってから大徳自動車学校に通っていました。

 結局、金沢市場輸送をやめた直後、安田敏の入社の条件のようになっていた50万円の前借りの保証人になっていた頃から、その話をつけておく必要があり、市場急配センターの事務所に出向いたところ、松平日出男に一日1万5千円の日当を出すので配達の仕事をして欲しいと誘われたのです。

 結局これは、3日分だけになりました。市場急配センターの給料は25日締めの翌月5日払いになっていたので、6月23日から市内配達の仕事を始めたことになりそうです。

 始めるとすぐに、市場急配センターの方で大型車を導入するので乗務して欲しいと持ちかけられ、すぐに入社が決まったのです。

 実際に大型車に乗務するようになったのは、8月の終わりか9月1日になってからで、初めの運行というのは、安田敏と二人で神奈川県の厚木市に荷物を運び、東京の晴海埠頭からバナナを積んで戻りました。

 それまでは、安田敏と二人で市内配達をしていましたが、仕事の内容は別々でした。終わり時間が似たようなもので、仕事が終わってからゲームセンターに遊びに行ったこともあり、それとその頃はよく金沢港の五郎島というところにセイゴを釣りに行っていました。セイゴというのはスズキの小さな魚ですが、3,40センチクラスがものがよく釣れ、コツを掴んだらしく、行って釣れないことはほとんどありませんでした。ただ、金沢港の魚は油くさいと聞いていたこともあり、持って帰って食べるようなことはありませんでした。

 9月一杯ぐらいまでセイゴ釣りに出掛けていたと思いますが、その最後の方で釣りをしながら、安田敏に被害者AAさんのことを相談したような気がしてきました。今うっすらと思い出し掛けてきた記憶です。

 セイゴ釣りを始めたのも7月くらいからで、なんとなく五郎島で釣りを始めたところよく釣れたので、ちょくちょく行くようになったのです。本当は、同じ金沢港でも別の場所では、一メートル級のスズキも釣れると聞いていたのですが、五郎島の方が車も止めやすく、公園に手を洗うことが出来る水道もあったので、そちらにばかり行っていました。

 以前もしばらく魚釣りをしたことがありましたが、あまり釣れなかったので、行かなくなっていました。以前は、ちょくちょく金石港の堤防の方で、やっていました。堤防の先端まで妻が用事で呼びに来たことも憶えていますが、何時頃かはっきりしません。夏以外ではないはずです。夏であっても、夜釣りをしていると肌寒くなることがあり、寒い時期に釣りをすることはなかったからです。

 そんな頃、東渡が包丁を振りかざしていたのですが、たぶんその当日の朝刊で、丸西水産輸送の社長が、片町で拳銃で射殺されたという記事が出ていました。東渡はその社長の名前を、仲間内でしか知らないような通称で呼び、事件に触発されたように興奮し、何かを口走っていました。

 要するに、私が金沢市場輸送からいなくなった直後ぐらいに、新車で導入され自分が乗務していた三菱ふそうの大型ウィング車を、竹沢俊寿が松平日出男と自分に断りもなく話し合い、そのトラックを金沢市場輸送から市場急配センターに譲り渡すと決めたことが気に入らなかったらしく、松平日出男を探しに来たようです。「殺してやる」などとも口走っていたかもしれませんが、全体的にわざとらしく演技じみた行動でしたが、あまりに興奮の方も激しかったので、物騒でもあり気味悪くは感じていました。

 その場を去りたいとも考えていたのですが、おいそれと抜け出せるような雰囲気でもなく、どうしたものかと考えていたところ、電話が掛かり、池田宏美か被害者AAさんの方から取り次ぎを受けたはずですが、出るとそれは安田繁克でした。

 スイカを積んで四国の徳島に向け出発したが、重量が重すぎてトラックの調子が悪いなどと相談を持ちかけられたのです。ポンコツの4トン車でしたが、もともとは魚と言うより油揚げを中心に運んでいたような箱の大きな保冷車の4トン車でした。

 私自身、中西運輸商の4トン車で下に付いている燃料タンクのコックを折り、軽油を垂れ流した経験もあったので、相談したところ、金沢市場輸送からこれもポンコツの10トン車を引っ張り出して、荷物を積み替えることになりました。

 電話を掛けてきた先も、金沢の西インターから30分ほど走った先の、片山津インターと加賀インターのほぼ中間にある尼御前サービスエリアでした。

 10トン車を運転して、サービスエリアに行き荷物を積み替えて、4トン車に乗って会社に戻ったのですが、安田敏も同行させていました。

 安田繁克とはそれまでも何度か、少し話をしたことがある顔見知りの関係でしたが、あまり顔を会わすこともない関係でした。先入観もなければ、予備知識もなかったのですがタイミングがよすぎたこともあり、東渡のわざとらしい包丁事件と突然の電話の間には、単なる偶然ではないような気もしていました。ただ、東渡と安田繁克の間に接点があるとは、考えていませんでした。

 積み替えに持っていったポンコツの10トン車は7180というナンバーの保冷車で、「石」ナンバーでした。昭和61年の秋頃に新車で入ったイスズのトラックでした。この一年後ぐらいから、「石」ナンバーが「石川」ナンバーに変更されました。

 そらからしばらくして、中央市場のなかに高瀬商店というパンやおにぎり、惣菜、カップ麺などを置いた小さな店があり、よく利用していたのですが、その店の前に、7180を停め、トラックのなかで安田繁克と話をしたことがありました。

 その時安田繁克は、本恒夫が大阪の方の運送業者とトラブルになったらしく、右翼が街宣車を100台ほど連ねて攻撃に来る、などと話していたのです。あり得そうなことであったので、その時は本当の話だと感じていました。

 同じ頃、安田繁克が中央市場の青果売り場に、都商事の日産ディーゼルの新車の大型車で、姿を見せたことがあり、少し話をしてからトラックを運転させてもらいました。日産のトラックはその一年ぐらい前に大幅なモデルチェンジをしていたのですが、運転したことがなく、これを機会に少し運転してみたのです。

 都商事というのは、吉村哲が社長をする会社でした。ちょっとややこしい会社で詳しいことも分からないのですが、もともとは北陸3県の鮮魚の中継をしていた社名で、守田水産輸送の子会社のような会社でした。

 守田水産輸送は、もともと金沢市場輸送と同じ中央市場前の2階建てテナントビルのなかにあった会社で、本恒夫が配車係をするようになってから仕事のやりとりもするようになったのですが、1年半ほどで付き合いも断絶したようです。

 守田はもともと青森の定期便をメインにした鮮魚、冷凍物の運送会社で、やりとりを始めてからは一日交替で、青森の定期便を金沢市場輸送でするようになり、それでちょくちょく秋田や青森に鮮魚を運んでいました。金沢市場輸送が新社屋を建設し移転してからもしばらくの間は、敷地内のある給油機に軽油を入れに来ていました。

 ここにオジコこと干場充行という珠洲市三崎出身の私よりひとつ年上の男がいて、守田と輪島屋鮮冷の間を行ったり来たりしていました。もともとは中西運輸商にいた頃もあり、私が昭和59年の10月頃に金沢市場輸送をやめる一月ほど前には、私の紹介で金沢市場輸送に入社し、しばらく4トン車に乗務していました。

 また、昭和60年の秋から冬ぐらいにも私の紹介で、再び中西運輸商で仕事をしたことがあり、その頃は、吉村哲とも付き合いがありました。

 吉村哲はもともと昼、栃折組という会社で4トン車のダンプに乗務していて、夜、中西運輸商のアルバイトで佐川急便のホーム作業を手伝っていたのです。親しくなり、そのうち私の紹介で運転手をするようになりました。

 私がトラックの仕事をするようになったのも、オジコがきっかけのようなもので、安田敏の観音堂のアパートに居候していた昭和58年の秋頃、ちょくちょく遊びに来ていたオジコに誘われ、一度、中西運輸商の長距離の仕事に同乗し、山口県の小野田市あたりから、静岡県の清水市に行き、松本市、白馬、糸魚川経由(通称大糸線)で戻ってきたことがありました。

 オジコは15,6歳の頃、被被告訴人OSNとも兄弟のように仲良くいつも一緒に行動していたことがあると聞いていました。名前だけは、だいぶん前からちょくちょく耳にしていたのですが、実際にあったのは安田敏のアパートが初めてだったと思います。

 その観音堂のアパートは、古い木造の風呂もないような建物で、同じ建物が2棟向き合うような格好になっていました。道路から入って、右側の建物の一番手前が安田敏の部屋だったと思います。

 確か向かい側の建物の一番奥が、これも珠洲市宝立町の出身で私より二つ年上、安田敏とは同級生になるヒロボこと山崎某の部屋でした。この部屋にもちょくちょく遊びに行っていたのですが、そこで知り合ったのが、「告訴状(途中)」でアルファベットの仮名表記をしてある内堀秀行でした。

 その頃はヒロボも無職で遊んでいたと思いますが、しばらくして高井水産という鮮魚専門の運送会社で仕事をするようになり、2003年頃に安田敏に聞いた話では、「偉様」になっているといい、管理職になっているらしく、あるいは部長と言っていたかも知れません。

 初めは、これも安田敏やヒロボの部屋にちょくちょく遊びに来ていたコウキこと下根コウキという同級生の男が、高井水産で4トンの保冷車に乗務するようになったのがきっかけだったようです。彼も珠洲市三崎の出身でした。

 そのあと、昭和59年には、ベトこと川畑政宏や芝西さんも働くようになっていました。高井水産のメインの仕事は、大阪の本場市場や伊丹空港から鮮魚を金沢まで運ぶ仕事で、大阪の本場市場で、中継の積み替えなどで待機しており、たまに本場市場に行くとよく顔を合わせたものでした。

 芝西さんは被告訴人HTNと同級生で、同じ能都町間脇に家がありました。被被告訴人OSNとも一時期、1年ほど親密に交際していました。周一の特長のひとつですが、このように濃密な関係がある程度の期間続くのですが、そのうち離れることが多く、例外的に長い付き合いの続いていたのがバッサこと干場茂幸でした。「告訴状(途中)」では書き忘れましたが、平成14年の宇出津のあばれ祭りの時、バッサは、私に何度も「あんちゃん、頭なっとないか?」と繰り返していました。酔いながら冗談のようにも話していたのですが、(被害者AAさんの父親AKさん)の事件のことなどを指していたはずです。O兄弟からよほどのことを吹き込まれているという印象もありましたが、聞きただすことはなく、調子を合わせて馬鹿なことを言い合っていました。

 「あぁ、干場、お前こそなっとないがかい」というような感じです。「なっとない」とは「大丈夫」というような意味の方言で、「なんともない」の省略なのかもしれません。これも近頃はめっきり聞かなくなった言葉のひとつです。

 その祭りで、バッサとはよく話をしましたが、被被告訴人OSNは酔っていても言葉数が少なく、並々ならぬ警戒心が窺えました。

 また、古い資料には書いてあるかと思いますが、その時、高田醤油店の前ので被告訴人HTNらしき姿も見かけたのですが、彼は視線を外し、気が付かないようなふりをしていて、これも明らかに不自然、異様に見えました。6,7人ぐらいの座った輪のなかに彼がいて、たまたま私の方に顔を会わす方向に向いていたのですが、私の方も合図を送りながら、キリコという祭りの山車のようなものを担いでいた状態で、そのまま通り過ぎてしまいました。

 コウキのことですが、彼はその後、蛸島のTSさんが自殺した頃に、同じ新田商店(新幸)で鮮魚の運転手をしていました。

 録音しNHK金沢放送局にもCDで郵送した会話だったと思いますが、安田敏はその後独立したというコウキの運送会社で使ってもらうことを進めていました。保冷車の箱の後ろの扉に、三島由紀夫がはちまきを締めた絵を描いたトレーラーの運転手がいたような話もしていたかと思います。

 コウキは16歳ぐらいの頃、加賀市の暴力団に所属していた時期があり、その時おなじ組みで一緒だったのが、杉本(長谷)政男だと聞いていましたが、私の知る限り、その後付き合いはなかったようです。

 知り合った頃、政男は肩に入れ墨も入れていましたが、真面目に仕事をするようになってから、入れ墨がばれて会社をやめることになり、入れ墨を消し手術を受けたとか、受けるという話も聞いていました。

 政男とも付き合いのあった内堀秀行は、昭和58年頃、無免許の飲酒運転でタクシーに衝突し、数人を植物人間にさせたと聞いていました。知り合った頃、河北郡内灘町にあった自宅にも一度遊びに行ったことがありましたが、もうすぐ売り払うことになると話していました。

 昭和61,2年頃になってから、裁判が決着し、1年ほど交通刑務所に行っていたとも聞きましたが、いくつかの施設を転々としたとも本人からではなく聞いたことがありました。ちなみに、このあたりでは、交通刑務所は愛知県の豊橋刑務所になるそうです。余談になりますが、同じ愛知県の岡崎刑務所は医療刑務所で精神病の受刑者が多いと聞いています。

 ただ、私の経験上、福井刑務所でも金沢刑務所でも交通事犯の受刑者が収容されていて、殺人や強盗などの受刑者と同じように生活していました。

 昭和59年の夏頃、内堀と再会して、西念のアパートにちょくちょく遊びに行くようになったことは「告訴状(途中)」にも書いてあるはずです。そこで知り合い、のちに被告訴人OKNが本陣不動産で働くようになった紹介者が、羽咋郡(当時)富来町出身の奥野辰男でした。

 辰男も私に対しては、好意的でした。金沢西警察署にも一度面会に来てくれたことがあり、差し入れも沢山してくれました。軟派な面と、硬派な一面もあり、前者では被告訴人OKNとも気が合い、女遊びに明け暮れていましたが、硬派な一面の関係で被告訴人OKNと仲違いしたというのも、理解の出来る話でしたが、それにしても被告訴人OKNの態度が強硬すぎて、秘密を必死に守ろうとでもしているような不自然さも伝わってきたのです。

 そこまで嫌い、反目していた相手と同じ会社で、仕事が出来ていたとは常識的にも考えにくかったからです。本陣不動産は、本陣住宅、本陣建設などのグループ企業になっていましたが、本陣不動産の規模自体は、被告訴人OKNの話を聞く限り、多くても十数人ぐらいの所帯で、アメリカやヨーロッパに社員旅行に行くほどの会社であれば、和というものも重視するはずで、容認放置していたとはこれも考えにくいことでした。

 内堀も一生掛かっても払いきれないような多額の賠償金を背負ったと聞いていましたが、私が福井刑務所を出た頃には、石川郡(当時)野々市町で、古くて小さな建物でしたが、「内堀自動車」という看板を掲げた修理工場のような店を出し、店の前には数台値段表示をした中古車も展示していました。

 被被告訴人OSNの話では、自動車レースもやっていて、活躍していたそうです。私自身、少年時代は本気でレーサーに憧れていたこともあるので雑誌なども読んでいたのですが、とてもお金のかかる趣味だと聞いていました。

 その平成9年の夏頃には、政男と二人で、同じの野市町にある日赤病院(よく知りませんが、正確には日本赤十字病院とでもいうのかもしれません。あくまで通称です。)に入院していた内堀を見舞いに行ったことがありました。

 仕事で富山県の新湊市か富山港あたりに行ったとき、他の車の無謀運転が原因で、軽トラックを横転させ、痛みを感じていたもののその夜飲みにで掛け、そのあと急に具合が悪くなり、診察を受けると肋骨だったかの骨が折れ、内臓に突き刺さり、危ない状態だったという話でしたが、この男の話もどこまで信用できるのか、疑わしい点があります。

 ただ、若い頃から交友関係も広く、特に女の子に関してはプレイボーイで交際が広い上、細かく大量に書き込まれた女の子の電話番号のメモも、持っていました。

 前科のある犯罪者であるので実名は書けませんが、彼らと行動をともにして遊び回っていたOYは、片町での薬物密売事件で逮捕され、新聞にも報道されていました。

 安田敏も、同じようなグループと交際があり、そのうち、二人の受刑者と福井刑務所で同じ工場の同じ班で作業をしていたことは、「告訴状(途中)」に書いてあると思います。

 これも前記と同様の理由で実名は書けませんが、安田敏が片町で働いていたという飲み屋の名前は、初めが「ハートブレイク」、そのあとにつとめたという店の名前が、「ラバズバ」であったと記憶しています。

 吉村哲は安田敏とも私のアパートで知り合い、被告訴人KYNとも知り合っていました。個人的な付き合いは確認しておらず、あまり馬があったとも考えにくいのですが、吉村哲と被告訴人HTNも一緒に飲むことがあると聞いたような憶えがあり、どちらも野心的だったので、馬が合い気があった可能性はあると思えます。

 金沢市場輸送には昭和59年頃、大西真というこれも古参の運転手がいました。50歳と年齢を聞いていましたが、何時頃であったのかははっきりしません。本恒夫よりはすこし年上のようでした。

 昭和63年の12月頃から翌平成元年の2月一杯ぐらいまで、私は大西真と一緒に行動をともにすることが多く、一緒にイワシの運搬の仕事をしていました。毎日のようにいつも食事をおごってもらっていました。

 これも記憶の日付特定の目安になっているのですが、ちょうど昭和から平成になったのは1月の7日ぐらいで、その時私は、大西真と二人で、トナミ航空の展示会の仕事で大型の保冷車に乗り、茨城県水戸市内にあるデパートに行っていました。

 蛸島のTSさんが自殺したのも、その少し後のことで、まず朝刊の記事を見て驚いたように思います。午前中、金沢市場輸送の事務所で、大西真、竹林、鴨などとその事件の話をしました。一番動揺していたのは鴨さんでした。

 鴨さんについては、過去の裁判の資料を別にすると、まだほとんど書いたことがないかもしれません。私より3つほど年上で、内浦町越坂に実家があると聞いていました。小木の町の宇出津の反対側には、市ノ瀬という部落があり、そこに鉄道の小木駅もあったのですが、その先に越坂という部落があって、いずれも小木中学校に通っていました。

 彼は水産高校を卒業した蛸島のTSさんと同じ頃金沢市場輸送で4トン車の運転手をしていましたが、その後、中西運輸商で大型保冷車の運転手をしていて、オジコとも仲良くしていましたが、その後、独立して白ナンバーの仕事をするようになり、中西運輸商の保冷車を中古で買い、主に金沢市場輸送の仕事を庸車でしていました。

 社員同様、あるいはそれ以上に、金沢市場輸送の事務所に出入りしていました。もともとは宮城県の石巻港で、エサを運ぶ仕事をメインにしていたそうですが、エサの仕事がなくなり、運賃も安くなって金沢市場輸送の仕事をするようになったようです。

 エサの仕事というのは、冷凍した小魚を満載にし、四国や南九州のハマチの養殖場に運ぶ仕事のことで、月に2,3回程度の運行という一発屋のような仕事で、昭和59年の頃は金沢市場輸送でもちょくちょくやっていた仕事でしたが、私が金沢市場輸送で大型車に乗務したことにはしなくなっていた仕事で、私自身、話はよく聞いていましたが、一度もすることはありませんでした。

 だいたい30トンほど満載にし、主にフェリーを使ってやる仕事で、東渡も以前やっていたと話、東渡が金沢市場輸送に来るきっかけになったのも、以前、フェリーのなかなどで本恒夫と東渡が知り合い、たまたま再会してことで、本恒夫の方から誘ったような話でした。

 中西運輸商も以前は、このエサの仕事をしていて、専用の大型車を特別に作っていたほどで、10トン車にトレーラーのエンジンを積み替え、トレーラー同様10段ミッションだと聞いていましたが、最高速度はギア比が低いので100キロ程度しかでないとも聞いていました。

 箱の横に「中西運輸商」と感じで大書きされていましたが、その後は、「N−LINE」などが主流になりました。

 書き忘れていましたが、高井水産はその後、社名が「山水運輸」に変更になり、数年前からは金沢中央卸売市場の裏に、近代的で大きな会社事務所兼冷蔵庫のようなものを建てています。実際、市場急配センターが青果物の覇権を掌握し、山水運輸が水産物の覇権を握ったような格好です。

 他に水産関係では、「ウロコ運送」があり、これも昭和59年に私がいた頃から、共同で福岡の魚市場からの定期便をやっていました。私もよくやっていた仕事ですが、定期便は、一日交替で、行き荷にトナミ運輸の中央店(新湊市か小杉町の境あたり、国道8号線沿い。たぶん同社では一番大きな営業所で、あるいは本店かもしれない)から福岡行きの雑貨を積んでいました。降ろし先は、北九州と福岡市内でしたが、いずれも降ろし先は「西武運輸」でした。

 そして福岡の魚市場から鮮魚を積んで戻っていましたが、現地にはウロコ運送の「佐部徳次」という人が駐在していました。近くのマンションに住んでいましたが、私はちょくちょく遊びに行き、よくそこで寝泊まりもしていました。

 福岡の魚市場は、長浜というラーメンで有名な地名でもある場所にありましたが、近くには裁判所もあると、後年知りました。福岡の中心部で、あるいは中央区だったかもしれません。繁華街である、天神や中州までは歩いて行くとけっこうな距離がありましたが、どうも官庁街の趣があるようです。東京で言えば、霞ヶ関ということになりそうです。

 福岡は食べ物も安く、おいしく豊富な土地柄で、私のお気に入りでした。パチンコでも負けることが少なく、よく勝てた上、負けてもけっこう長い時間遊ぶことが出来ました。平成4年の2月以来行ったことがないので、今はだいぶん変わっているかもしれませんが、事件や問題が比較的多い土地柄でもあるようで、よくニュースで見かけます。

 余談になりますが、九州や四国の魚はまずく、北陸の魚はおいしいと聞きますが、これは北陸の方が小型の漁船で魚が傷まないのと、水温が低いため身が締まっているという話を聞いたことがありますが、焼き魚でも料理の仕方は、福岡の方が格段上で、食べるとはるかにおいしく感じていました。グルメという趣味はなく、その言葉が流行する少し前だったような気もしますが、福岡の料理は総じてレベルが高く、他県と比較してもおいしかったという印象があります。

 九州はみそ汁やラーメンも独自のものでした。米の味にもずいぶん違いがありました。他に印象に残っていることは、山口県の下関の近くにある王司パーキングの、肉玉うどんがうまかったことです。いつもそこか山口市付近にある湯田パーキングでうどんとおにぎりを食べていました。

 福岡の市場の前には、セブンイレブンのコンビニもありました。宮城県の塩釜や石巻でもセブンイレブンのコンビニのコンビニが多く、よく利用していましたが、石川県にはなく、もう長い間見たこともありません。吉野家の牛丼は金沢でもだいぶん前に出来たのですが。

 吉村哲と藤田の二人は、中西運輸商に対して挑戦的で、中西運輸商から佐川急便の仕事を奪うことを目的にし、そのために金沢市場輸送に来たようですが、本恒夫がお山の大将のように独善的で、佐川の仕事には消極的だったようです。それでも金沢市場輸送のトラックで、佐川の仕事を中西運輸商の庸車ですることもありました。

 私以外の運転手のほとんどは、生理的に佐川を受けつけなかったようです。まず当時の佐川急便では顔を会わす社員の全員に挨拶をする必要がありました。能都中学校の時も、出会う上級生には全員挨拶をするという慣習があったので、それほど苦痛ではありませんでしたが、煩わしくはありました。

 今は、佐川急便もずいぶん変わったようですが、その当時は、精神主義の右翼的な傾向が強く、カルト教団的な要素さえ感じられるところがあり、それだけの力も持っていたようですが、マスコミや行政の締め付けもあったらしく、いろいろと物議を醸すようになっていたようです。

 スピード違反で、事故も多かったことから、私がやっていた頃から徐々にスピードに関しては、以前のような奔放さは消えつつありました。ただ、荷扱いの方はずいぶん乱暴で、荷物を引き倒して投げつけていました。

 よく分からないというか、当時の私の頭では理解も難しかったようですが、そのうち政治的な問題としても佐川が矢面に立つようになり、週刊誌によく出ていました。

 佐川急便の会長というのはカリスマ的な存在で、夫婦二人で始めたところから飛躍的に成長を遂げて大会社に発展させました。笹川良一という右翼の大物のバックアップが大きかったというのも有名な話でした。日本の首領ともいわれる人物で、戦前戦中は満州の特務機関にも関係していた人物だったようです。

 テレビのCMにもよく出ていてモータボートの協会であったか「世界は人類、兄弟、家族」のようなことをいつも話していました。昭和の時代であったと思いますが、今では知る人も少なくなっているのかもしれません。

 そういえば、佐川急便の飛脚のマークもすっかり目にすることがなくなりました。

 佐川急便には司直の手も伸びたらしく、いろいろと取り沙汰されていたようですが、平成5年頃でしょうか。印象的な記事を新聞で見ました。

 佐川の会長が金沢市内の病院に入院していて、確か民事部であったように記憶しているのですが、裁判官が病院に出張尋問に行ったところ、拒絶されてすごすごと手ぶらで引き返したことが報道されていました。

 私の記憶が正しければ、「聖霊病院」だったと思います。金沢の中心部の裏地にあるような小さな病院で、少年時代、友達がナンパした看護婦の女の子を付き合いで迎えに行ったり、送り届けたような憶えも残っています。

 マスコミの方も、ずいぶん精力的に追求をしていたようですが、そのあたりを境に、私としては報道を見なくなり、そのうち、佐川急便の名前自体あまり聞かないようになって、一時は忘れかけていたようなこともありました。

 佐川急便が有名になったのも昭和58年ぐらいで、当時は仕事はきつく長時間労働だが、破格の高給で、切羽詰まった借金持ちが起死回生で頑張っていると聞いていましたし、それが一般的な認識であり、イメージでもありました。

 笹川良一氏に関しては、そのまえから有名で、極真空手の大山ますたつ氏のような人間離れをしたような存在感がありましたが、大山ますたつ氏の名前も、長い間すっかり聞かなくなりました。世界最強といわれた極真空手で、「空手バカ一代」という本も大流行していました。私が中学生の頃のことです。

 「ゲゲゲの鬼太郎」という漫画もその頃にも放送されていたように思いますが、私の幼稚園から小学生低学年の頃が初めの放送だったのかもしれません。こちらは今でもけっこう有名な感じです。作者の水木しげる氏の名前は、ネットでも見かけることがありますが、官本で「寝ぼけ人生」という本も読みました。南方戦線の兵士で、片腕だったかも失いながらも、沈没した艦船から生き残ることが出来た強運の持ち主でもあったようです。

 数奇な運命で、大変な苦労もされたようですが、生来ユーモアのセンスもお持ちであったようです。「ゲゲゲの鬼太郎」はその後、オカリナのような武器を手にし、「スケ番なんとか」のように進化したようですが、今見かけるのはオリジナルなキャラのようです。

 アンパンマンが登場したのも、佐川急便と同じ頃であったかもしれません。それまでの勧善懲悪で善悪がはっきりした漫画とは一線を画し、新鮮にも感じていました。まずアンパンマンが格好のよいヒーローとは思えず、バイキンマンとのなかも、明確な宿敵ではなさそうでした。これも時代の変化を感じされる流行のひとつでした。

 もう一つ同じ頃で大きかったのは、「おれたちひょうきん族」というテレビ番組の登場で、そのうち「おニャンコクラブ」が出てきました。社会的影響も大きかったと思いますが、お笑い番組のなかで、政治家が出てきたのもこの頃からでした。

 そのうち竹下登という政治家が台頭し、総理大臣にもなりましたが、日本の国がおかしくなったのもその頃からで、その大きなつけが現在にも及んでいるのかもしれません。

 金沢刑務所で次の本を購入し、読みましたがまともとは思えず、あまりにも国民を愚弄しなめきっているような印象が拭えませんでした。

竹下登 不敗の人間収攬術

竹下登 不敗の人間収攬術

 「私が汗をかきましょう。手柄はあなたにあげましょう。」

という言葉が特に印象的でしたが、おかしいと感じる人はいないものでしょうか。

 そのうち平成4,5年頃になると、拘置所にいた頃ですが、右翼団体から「褒め殺し」という攻撃を受けるようになったそうですが、これも当時の私には、理解の難しい問題でした。

 「金丸信」とかいうゲゲゲの鬼太郎の「こなきじじい」に似たような大物政治家もいましたが、不正疑惑の検察処理を巡って、東京地検の看板にペンキをぶちまけている人もいました。

 政治の世界のことは関心もなければ、よく知らないのですが、今でも竹下登のことを尊敬し影響を受けている政治家というのは少なからずいるようです。週刊誌に「妖怪」という表現がされているのが印象的でしたが、直感的にもとんでもない人物のように思えていました。

 目先の利益をちらつかせて、とんでもないぼったくりをする危険人物というのが、報道を含めた総合的な印象でした。

 当時の日本という国は、ものすごく豊で余裕綽々だと聞かされていましたが、その後はとんでもない赤字を抱える破綻財政とも聞いています。竹下登だけではありませんが、疑惑の強い過去の不埒な政治家を暴き出し、残された財産を全額没収し、国庫に帰属させるような措置を検察には講じて頂きたいものです。それこそが超A級戦犯と思えるからです。

 少なくとも、東条英機らは実に見事な潔さで、処刑台に登って行きました。直前の姿まで記録フィルムに残されているので、唯一知ることの出来る事実です。

 現状や内容を正しく把握し、理解しようともしない報道の姿勢は、戦前も今もさほど変わりがないように思えます。

2006-09-03 *1157280058*[司法全般]刑務官、検察との関わり方

[]組織犯罪と法的救済について(13)

 時刻は23時になりました。今回の土日の休日も予定していたことが全然出来ませんでした。アクセス数の少なさに、このまま進めてよいものかどうか、大いに迷うところがあったからです。しかし、この状況は、百年河清を待つ、が如く、変わることはないのかもしれません。

 今日もizaの方で、気になる記事があったので、参考用の記録として引用させて頂きます。

手配学生「娘の友達」 母が告別式後に明かす

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手配学生「娘の友達」 母が告別式後に明かす

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 山口県周南市の徳山工業高専で殺害された同高専5年、中谷歩さん(20)の母、加代子さん(45)は2日の告別式後に記者会見し、行方不明となり殺人容疑で指名手配中の男子学生(19)について、歩さんから「友達だった」と聞かされていたことを明らかにした。

 自宅で男子学生の話をすることもあったといい、加代子さんは「出てきて話を聞かせてほしい。そんなことはなかったと今でも信じています」と涙声で呼び掛けるように話した。

 父の純一さん(48)も「(男子学生が)犯人かどうか…。話を聞かないと分からない」と声を詰まらせた。

 男子学生は歩さんと同じ研究室に所属していた5人のうちの1人だった。

 歩さんの葬儀・告別式は2日、同県防府市内の斎場で営まれ、参列した親族や友人ら約700人が最後のお別れをした。

 斎場の一角に設けられた故人をしのぶ「思い出コーナー」には、友人らが持ち寄った寄せ書きや手紙、マネジャーをしていた野球部員のサイン入りバットやボールなどが並べられた。

 参列した同市内の女性(19)は「よく通学の電車のなかで楽しくおしゃべりをした。これまで通り友達だよと言ってあげたい」とハンカチで涙をぬぐった。

<産経新聞>

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/crime/17589/

 izaについては、こちらの記事が参考になりました。共同通信社のホームページのようです。

http://ch-k.kyodo.co.jp/kiji/bn_henshu14.html

 はっきり言いまして、産経新聞社も、共同通信社も石川県ではほとんどなじみのないメディアです。私の知る限り、朝日新聞の購読者もごく稀なばかりでなく、あるいは販売自体をしていないのかもしれないと思えるほどです。

 新聞では、読売新聞、北国新聞、中日新聞がよく読まれているようです。

 もう10年ぐらいは経つと思いますが、テレビ朝日はテレビで観れるようになりました。テレビ金沢という放送局もその数年前ぐらいに開局しましたが、いずれも平成になってからだと思われます。

 私自身、もうずいぶん長い間、新聞を購読しなくなりました。金沢の北安江に住んでいた平成9年頃は、しばらく購読していたような憶えもありますが、長続きせず、やめてしまい、それ以来、新聞を購読したことはありません。

 本当は、記事よりスーパーの安売りなど広告チラシが欲しいのですが、今のアパートで3年半以上生活していますが、新聞社の勧誘が来たのは一度だけで、ちょうど夜勤の仕事で出掛けるところだったので、後日来るように行っていたのですが、以来二度と来た様子はありません。

 警察の手回しでもあるのか、他の勧誘を含め、アパートを訪ねてくる人は皆無です。昨年末、地元の警察署に相談に行ったときも、近所の人について、受け取り方によっては、遠回しに意味深なことを聞かされました。

 少しでも事実関係について書いておきたいところです。どうせ今憶えていることは、断片的なことばかりです。断片しか見ることがなかったのでそれも当然かもしれません。

 連載エントリの続きになりますが、(被告訴人KYN)設備工業を首になったのが、平成10年12月の月末でした。正月休みで、すぐに仕事を探すことも出来なかったので、パソコンの館という店で、「Visual C++ 6.0」というプログラム作成のソフトを2万円ちょっとで買い、しばらくはその勉強をしていました。

 求人情報誌を買い込んだり、鳴和の方にある職業安定所に行き、仕事を探し、面接にも2件ほど行ったのですが、だめでした。

 どちらも私の方から、再審請求をしているという事情を説明したのですが、あとで考えると自殺行為のようなものであったのかもしれません。ひとつは割と好意的で、私の事情も理解してくれたようですが、本社の方に伺いを立てなければならないといわれ、そちらの方からストップが出たそうです。

 今のアクセス状況の少なさを見ても、面倒なことに関わり合いたくないという世間の気持ちは想像以上に強かったのかもしれません。

 この2件は、教育関係のセミナーや訪問セールスのような仕事であったと思います。自分自身、基礎から勉強をしたい気持ちもあったので、そのような仕事を選んでみたのです。

 他に運送会社にも面接に行ったのですが、一件は進洋運輸という市場急配センターと同じグループに入る運送会社でした。当時、そのことを私自身が知っていたのかどうかははっきりしません。

金沢貨物運送協同組合

http://www2.icnet.or.jp/~isikaren/kumiaiin_kinkakyo.html

 進洋運輸には、面接に行き話をしました。後日連絡をするといわれましたが、断りとともに履歴書も丁重に送り返されてきました。

 その頃私は、市場急配センターに電話を掛け、松平日出男と話をしたことがあり、同じ運送会社から自分のことで問い合わせがなかったか尋ねたところ、別人のような言い方で、「シャブで様子のおかしい運転手がいたので」それについては話をしたことがあるという言い方をしていました。

 同じ頃、金沢市場輸送にも電話を掛け、数年ぶりに本恒夫と話をしましたが、初め本恒夫は、私の名前を出しても知らないようにとぼけ、しばらくしてから思い出したように話を始めました。トラックの仕事をしたいので、現在の運送業界の事情について教えて欲しいといったところ、「君がいた頃の三分の二の給料で、」などと、よくない状態なのでとてもお勧めではないという説明をしていました。

 私自身本気でトラックの仕事をするつもりはなかったのですが、そちらの方に目を向けておいた方が、妨害もされずに時間稼ぎが出来るような気もして、見せかけの対応をしておいたのです。

 進洋運輸に関しては、本当に大型車で長距離の仕事をするつもりもありました。トラックで長距離の仕事をするとなると、高速道路のパーキングやサービスエリアで、否応なく昔の知り合いの運転手に顔を合わせることになると考えていました。

 この時ではなかったのかもしれず、そうなると平成9年の秋頃、小森建設をやめた後ということになるのですが、大東実業という佐川急便関係の運送会社に面接に行きました。

 中西運輸商で佐川急便の長距離の仕事をしていた経験もあり、当初はトントン拍子で採用に向けた話が続いていたのですが、面接の担当者から、飲酒運転に関することであったように思うのですが、「一度間違いを犯した人間は、必ず同じことをやる」と言われ、無理をして採用され肩身の狭い思いをするより、本当のことを話しておこうと考え、事件のことや被害者の父親と打開に向けた話をしていること、再審請求のことも話したと思います。

 担当者は嘘を暴いてやったような、やや傲慢な態度の変わり、結果について連絡するという日時になっても電話が掛からず、しばらくして、確かこちらから電話を入れたところ、不採用だと言われ、声には軽蔑の念とともに、非難が感じられました。

 かなり強い調子だったので、市場急配センターに連絡をいれ、何かよからぬことを吹き込まれたのかとも考えました。

 進洋運輸につきましては、メールの送信リストに当初から加えていましたが、だいぶん経ってから丁重に、仕事に支障があるので送らないで欲しいというメールでの連絡がありました。

 石川県の運送会社の大半は、このように当初から送信メールのリストに加え、事情も説明していたのです。石川県貨物運送協同組合連合会やさらに上位と思われる業界の組合にもメールを送っていましたが、ほとんど無反応で、無関心でした。

 あるいはそれが、法務検察当局等の逆鱗に触れ、大型車のリミッター装着義務、駐車違反の罰則強化などに反映されたのかもしれませんが、実際のところは、私の知るところではありません。

 より問題視されるべきは、金沢中央卸売市場の対応でした。これは私が直接電話を掛け、話をしましたが、堀という人が対応に出て、門前払いをされました。この件については、これまでの資料にも詳しく書いてあるはずです。

<金沢市中央卸売市場>

http://www.kanazawa-market.or.jp/Homepage/index.html

 これまで書いていなかったことは、金沢地方検察庁の担当者であったテンヤマさんが、この件についてだけは、私に、先程電話があった旨を教えてくれたことです。私の方からも内容など詳しい話は聞かなかったのですが、心なしか憤慨されたような呆れたような様子にも感じられました。これは、看過できないと即座に判断されたような感じにも思えました。

 市場急配センターについて、「場会に聞いてくれ」などといいながら、電話番号も教えず、市場急配センターの常務に話をしてくれと繰り返していましたが、全く異様に狼狽し、関わりのみを強固且つ徹底的に避けていました。

<つづく>

追記:2006年9月4日0時28分

 日付が変わっていますが、日曜日の午前中テレビを観ていたところ、堀江貴文氏の元特捜検事という弁護人が田原総一郎というアナウンサーと対談をしていました。台所でカレーを作りながら聞いていることが多かったので、よく分からない部分もあったのですが、「生きている会社に関しては慎重に扱う」などという言葉も出ていました。

 私は金沢市中央卸売市場の上層部の責任のある人に取り次ぎを頼んだのですが、門番のような立場のホリさんに断られ、社会的責任について言及すると、「ない」ときっぱり断言していました。以前私は、市場急配センターという会社は、金沢市中央卸売市場の出資で出来た会社だとも運転手間の話で聞いていたからです。

 出資に関しては明確に否定していましたが、類似の間際らしい表示をさせていて、密接な仕事関係もある場合、損害賠償責任を認めた判例もあり、商法や労働法についても一通り勉強をしていたので、全く無関係とは思えず、とりあえず直接面談をして、誤解から不利益も生じないよう、きっちりした話をしておこうと考えていたのです。それは全面的に拒絶されましたが、私たちはさらにイバラの道を進むことになり、市場急配センターは野放し状態で、さらに規模を拡大しております。

 同じく日曜日の午後に観た番組でしたが、新聞の一面カラーの広告は、広告料が4700万円もするそうです。これには驚きました。

 明日は堀江被告の初公判があるようです。座右の銘は「諸行無常」だと弁護士が変わりに説明をしていました。ちなみに、それに相当するような私の座右の銘は「人生感意気」です。

 堀江被告というかライブドア事件については、はっきり国策捜査だと明言しているコメンテーターもいたようです。

 規模ははるかに小さいようですがライブドア事件も前座に過ぎないかもしれず、市場急配センターの方が国策の本命なのかもしれません。実務を知る方であれば、察しもつきそうに思うのですが、なかには目の曇っている人もいるのかもしれません。