2012-01-05
村上春樹のこと
今更感は否めないが、村上春樹『1Q84』について少々。発売日を知ったときには文庫化されるまで待とうと思っていたのだが、我慢できずにしっかりと発売日に買ってしまった小説である。三巻で五千五百円。どう考えても高いのだが、高い高いと言いつつ、『ねじまき鳥クロニクル』以降、新作長編が出る度にハードカバーで買い続けている。ハードカバーで新作を買い続けているなんて、多分、この作家くらいだろう。今作は宣伝も派手で、やたら大騒ぎになっていたから、本を持ってレジに並ぶのが少々恥ずかしかったものだ。
読み始め、文字を追うごとに、懐かしいような、どこかへ帰って来たような、そんな気分が高まってくる。多分、村上春樹の文体にはそのような癖がある。と、一般化するのは良くない。多分、僕が個人的に「憧憬」のようなものを抱いているだけだろう。要するに、それが「愛読者」であるということの証左なのだ。悔しいが、僕は村上春樹の「声」がどうしようもなく好きなのだ。
書評ではないから、特に本の内容などについて書く気は全くないが、『1Q84』において村上春樹は、過去の作品ではぐらかし続けてきたものを堂々と曝している。それは「叶わなかった初恋」とでも言うようなものだ。もし、小説家にとっての執筆動機というものが存在するのだとしたら、ある一面においては、村上春樹は一貫して「叶わなかった初恋」だけを追い続けてきた作家だと言えるかもしれない。もちろん、様々なストーリーがあり、メタファーがあり、イロニーがあり、修飾がある。しかし、根底には必ず「失われたもの」に対する希求の声があった。その「失われたもの」とは、今作において初めて率直に語られた「叶わなかった初恋」なのだと僕は思う。村上春樹の作品には度々「非現実的な世界」、あるいは「夢」などが現れるのだが、それはおそらく、著者自身が今作で度々触れているように、「過去」を書き換えたいという欲求なのではないだろうか。
と、このように分析的に書くと語弊があるかもしれないので念のために言っておくが、それは必ずしも村上春樹自身の「初恋」が叶わなかった、ということを指すわけではない。そんなことが僕に分かるわけがない。ただひとつ、はっきりしているのは、村上春樹の作品からそのように読み取る「僕」の「初恋」が叶わなかったということだ。それ故に、僕は村上春樹の作品に惹かれ続けているのである。そして、一人の小説家と愛読者の関係というのは、ある意味においては、このようなものなのかもしれない。
2011-05-05
『トニオ・クレーゲル』を読んで
ある小説を読んで、この小説は自分のことが書いてあると感じることは少なくない。ある種の小説というのは、書き手の創造の中に読み手を惹きこみ、読み手の想像を喚起させることによって、書き手の創造を追体験させるものだからだ。その追体験させる技術の巧拙によって、ある種の小説は読み手にとってまるで自分のことが書いてあるという不思議な様相を帯びる。
トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』という小説は僕にとってまさに自分のことが書いてあると感じるに足る小説だった。そう長くはないこの小説の中には、一人の人間が如何に文学を志すようになり、文学を志す人間が如何にそうではない人間と相まみえないか、しかし、どれほど平凡に生きることに憧れそれらを愛しているか、つまるところ、如何に俗人であるかがすべて書かれている。一部の芸術家が自らを世俗と切り離された高貴な人間であると確信するところの欺瞞を、それがどのような種類の欺瞞であるかを密かに知りながら、つまり自身の中にその胚芽を認めながらも、小説家はそれを恥じなければならないだろう。
小説家には生活がない。しかし、小説家は生活を生きる。マンの言葉を借りるならば、小説家とは「超越的領域」と世俗とを行き来する存在である。「平凡なもののもたらす数々の快楽へのひそやかな身を灼くような憧れ」を抱きながらも決してそれが叶えられることはないし、世俗の人間たちを心から愛しながらも決して心から愛されると感じることはない。つまるところ、小説家とは「道を踏み迷った俗人」以上のものではない。しかし、小説家がその創作の渦中にあるとき、そのときだけ小説家は「超越的領域」へ移行することによって世俗にしばし背を向ける。そのとき小説家は「迷える俗人」から少しばかり自由になるが、しかし「超越的領域」における創作物そのものは俗そのものである。ここに僕は少しばかり小説家のジレンマを垣間見るのである。
僕自身のことになるが、若かりし頃に『トニオ・クレーゲル』という小説に出会わなかったことは不幸なことだろうかとしばし考えてみる。ある見方によってはそれは不幸なことだったかもしれない。もしかすると、『トニオ・クレーゲル』を自分のこととして読むことによって若い時分にはっきりと自分の生きる方向性を決断できたかもしれないからである。しかし、おそらく、若かりし僕はこの小説を本当の意味では理解できなかっただろうとも思う。僕が『トニオ・クレーゲル』を自分のこととして読めたのは、曲がりなりにも小説を書いている今の自分だからではないかと思うのだ。贅沢を言えば、『トニオ・クレーゲル』は青年期に一度読み、その後小説を書き始めた人間がもう一度読み返すのが理想的かもしれない。故に、熱く文学を志す青年にはこの小説をその火が燃え尽きぬうちに読むことをお薦めしたいとも思う(もちろん、僕が言うまでもなく大多数の若い文志は読むのだろうとは思う)。
最後になるが、主人公のトニオ・クレーゲルが立っている場所とは「どこでもない場所」である。それは、小説家とは「道を踏み迷った俗人」、「迷える俗人」であると同時に、「超越的領域」で暮らす人間であることを考えれば明らかだろう。どこにも止どまることなく、「どこでもない場所」から「どこでもない場所」へと綱渡りしながら、人間的なもの、生命あるもの、平凡なものへと俗人的愛情を捧ぎ続け、そうした後で残り火のように微かに胸のうちに宿る虚しさこそが、小説家にとっては最上の歓喜ともなりうるのだから。
「いねましものを、踊らんとや」 ――『トニオ・クレーゲル』本文より
2011-04-26
PePe氏による『どこでもない場所へ』レビュー
『どこでもない場所へ』
【レビュー文:PePe】
ヨウコに萌えた。という私見とこの上ない技術面への言及は置いておくとして、とにかく「グッ」とくる読後感だった。「グッ」とは何のことかと言うと、それは小説らしからぬありえない臨場感のことだ。臨場感を伴う小説ならいくらでもあるが、何がありえないかと言えば音楽・映像・落語などの動態的表現のようにある種の有機物を包含していることにあり、またそれは作品の「意味」を特定させずに生き続けさせることの成功を意味する。故に、何度読んでも物理的に読者を脊髄反射させてしまう「iPadのプレイリストでリピートして聴けるような小説」として電子書籍時代(?)にうってつけの作品だ。
そのありえなさは一体どこから来るのか。
例えば、バーの入り口にてヨウコがシャッターを切るシーンは読者に像を焼き付かせると同時に逃避行へのスリルすら与える。(放射能込みの雨風とも噂される本日に拝読したこともあり笑)また、何も語らない「薫」が散漫的なヨウコとのやり取りを記すことで現前させるリアリティ。
と、いくらディテールを挙げてみても解明できそうにない。ならば、著者の嫌悪を恐れず国語的に正当な解釈を試みるとなんとかヒントの断片に辿り着けるかもしれない。
ヨウコにとって「どうでもいい憂鬱なこと」が多く、おかしくなりそうな「日本にいること」から逃亡するには「シャッターを切る」一瞬であるという。それを私の感覚に変換するとおそらく、サーファーが波に身体を一体化させる瞬間や、ギターキッズが彼らを鼓舞するパワーコードと合致する瞬間にも似た、殊日本に蔓延する「閉塞感」へと接続させられる自意識からの解放というエネルギーのようなものだと思われ、限りない「生」への肯定だ。(作中では国籍を問う内向性/排他性が伝統的日本人の閉塞感を象徴している)
そしてその全てはあの唇からディスクールされる。そう。薫への手紙も腐り死んだテキストではなくディスクールである。この小説においてありえない臨場感は「ヨウコのディスクール」という有機的なエネルギーの獲得によって生まれ、それこそが『どこでもない場所へ』の「小説が生まれる瞬間」をもたらし、それにより小説中の「ヨウコのディスクール」という有機的なエネルギーの獲得……とリピートしてしまっているではないか!かのように著者は逃げ続けるし、作品は生き続ける。そしてその「瞬間」は読者にもおとずれ、読後と同時に各自にフラクタルな逃亡が始まる。代わりに「ヨウコのディスクール」という呪縛を抱えながら。
2011-04-22
個人的な希望
【この文章は2007年3月19日に書いたものですが、東日本大震災を経た今現在においても、基本的な僕のスタンスは変わっていないのだと再確認しました。それは、端的にいうと、個人的であるということです。】
先日友人同士の女子中学生二人が一緒に自殺したというニュースを見た。遺書には「生きることに何の不満もない」と書かれてあったそうだ。その時は「生きることに不満がない」人間がどうして自殺するのだろうかとただ思っただけだったが、考えるにつれ僕はある種の個人的な憂鬱さを抱くこととなった。
生きることに何の不満もない、ということは言い換えれば「欲求がない」ということではないだろうか。例えば人間は空腹時においては将来空腹が満たされることを欲求する。それはささやかではあるが将来に対して希望を抱いているということだろう。アフリカの飢えた子供達には確実に希望が存在する。
村上龍という作家が「希望の国のエクソダス」の中で登場人物にこう言わせるシーンがある。「この国にはあらゆるものがあります、しかし希望だけがない」
僕は今執筆中の小説において希望を提示したいと思っている。「希望がない」ことを伝えたいわけではない。「希望」そのものを提示したいと思っているのだ。しかしながらそれは「僕」の「希望」であって、「あなた」もしくは「日本人」の「希望」ではないだろう。大江健三郎が「われらの時代」を書いた時にはまだ「われら」という言葉は陳腐なものではなかった。近代化途上にあった日本においてはまだ日本人全体が共有できる共同幻想があったのだろう。しかしながら近代化を終え共同幻想の消滅した現代において「日本人の希望」などという言葉はもう死語だ。現代とはそういう時代である。
先に述べた女子中学生の遺書に書かれてあった言葉を読んで僕が抱いた憂鬱というのは、「日本人」に「希望」を提示することの困難さからくるものではない。そうではなく、誰も彼女達を救える人間などいないのだということがはっきりとしてしまったからだ。彼女達は希望を持てなかった。あるいは希望を探すことを放棄した。もちろん希望などなくても生きていくことは可能だ。しかしながら、それは人間的躍動とはほど遠い生き物として生きることになるだろう。
死はすぐそこにあり、死の誘惑を拒むのは容易なことではない。この事実に意識的な人間だけが自分自身の希望を探し続けるだろう。死の誘惑に抗い、人間的躍動に満ちた生を生き続けるだろう。僕は「僕」の「希望」を探し続けようと思う。
2011-04-21
カタストロフ
ビルとビルとの間で切り取られたような
一瞬を切り取った写真のような
人間が識別できる範囲において青の入り混じった黒い空が告げるのは、
ほら、方々に散り始め、各々の偽りの姿へと帰っていく街娼たちの
あの夜の中においてのみ輝くことのできる不思議な秘密の蜜のような、
快楽と幻想と苦痛の交差した時間の終わりを示す
そして、帰宅の途につく彼女らの足は重く冷たく、
霧雨を頬に真に受けて、まるで涙のような粒が黒い夜に碇を下ろす
人間の真の動機を知っている彼女らは、この世界と人とに己を求めない
原始から彼女らはそれを知っていた すべてを知っていた
天上の女神とは悪魔であった 地上の楽園とは地獄であった
しかし、もしもおまえが太陽と海の重なりあった黄金色を、
あるいは、太陽と海との境界が鋭い刃のように青く煌めくのを、
その束の間の凪と恍惚の瞬間を偶然に発見したならば、
おまえの想念が真っ逆さまにたちまち巨大な渦巻きとなり
そのとき人間たちの真の動機が、世界の真の成り立ちが
大風によってなぎ倒される大樹のように、
長い長い時間をかけて崩壊していくのを目撃するだろう
おまえは街娼らの周知だった事実を、その光景を、
そのときこそ知るだろう
それが陽光を自ら遮った、己を闇夜へと解き放った
あの隠された人間たちの生きている世界であることを
そして、それこそがこの世界の唯一の真実であったことを
