バイブル・エッセイ(560)「狭い戸口から入る」


『狭い戸口から入る』
 エスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」
 「狭い戸口から入るように努めなさい」とイエスは言います。滅びに至る戸口は広々として大きいが、救いに至る戸口は狭くて小さい。だから、入ろうと思っても、なかなか入ることができないというのです。広々とした戸口は自分の欲望に従うことであり、狭い戸口は神の望みを行うことだと考えていいでしょう。イエスの教えを聞いて受け入れるのは簡単でも、実践するのは難しいのです。
 イエスの教えを実践しようと思っても、わたしたちはもう一つの戸口、滅びに導く戸口を選んでしまいがちです。その戸口は、ただ大きいだけでなく、わたしたちを引き込む力を持っているようです。たとえば「怒り」という戸口。救いに至る道は「ゆるし」であり「共に生きる」ということですが、わたしたちはつい、怒りに身を任せ、相手を滅ぼそうとしてしまいます。自分の間違いは棚に上げて相手の悪口を言う。自分を正当化するために相手の欠点をあげつらったり、自分の落ち度を相手のせいにしようとしたりする。そのような誘惑はとても大きく、その戸口に引き込まれてしまう人が多いのです。
 ですが、イエスはわたしたちを、「ゆるし」へと招いています。怒りの感情を押しとどめ、「自分に相手を責める資格があるのか」「怒りの本当の理由は何なのか。単に、相手が自分にとって都合の悪いことを指摘しているということだけではないのか」など、自分を客観的に見ることが必要です。とても難しいことですが、それだけが救いに入ってゆくための戸口なのです。「怒り」の誘惑を断ち切ることによってのみ、わたしたちは「ゆるし」という狭い戸口に入ることができるのです。
 「絶望」という広い戸口もあります。何か大きな試練にあうとき、わたしたちはつい「もうだめだ」と諦めてしまいがちです。これから先に起こるかもしれない悪いことばかりを考えて不安にさいなまれ、希望を見失ってしまうのです。ですが、救いに至る狭い戸口は「希望」です。それを捨てれば、決して天国に入ることができません。「主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれる」とパウロが言うように、神様があたえる試練は、わたしたちを成長させるための鍛錬なのです。神様が、わたしたちをつぶしてしまうような試練を与えることは決してない。そのことに、希望を置きたいと思います。
 相手への信頼を失い、自分は裏切られた、見捨てられたと思い込んで「絶望」することもあります。ですが、救いに至る狭い戸口は「信頼」です。そんなときには、どんな人の心の中にも、必ず神様が住んでいるということを忘れないようにしたいと思います。相手を信頼できなかったとしても、相手の中におられる神様を信じ、待ち続けることこそ救いに至るための道なのです。
「怒り」や「絶望」の根底にあるのは、すべてを自分の思った通りに動かしたいと考える傲慢です。それに対して、「ゆるし」や「希望」「信頼」の土台となるのは、すべてを神にゆだねる謙遜です。謙遜こそ、わたしたちを救いに至る狭い戸口へと導く道しるべだといっていいでしょう。謙遜にいざなわれながら、狭い戸口、救いに至る戸口を通って歩んでゆきましょう。