バイブル・エッセイ(764)からし種一粒の信仰


からし種一粒の信仰
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5:13-16)
「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と、イエスは言います。ちょうど、今日2月5日は日本二十六聖人の記念日ですから、殉教によって神の栄光を燦然と輝かせた彼らの信仰について考えてみたいと思います。
 先日、遠藤周作の小説『沈黙』の舞台になった外海地方を巡礼してきました。「人間がこんなに哀しいのに、主よ、海があまりに碧いのです」と遠藤が記した海を眺めながら、なぜ当時の貧しい農民や漁師たちは、過酷な拷問を耐え抜くことができたのかと思わずにいられませんでした。殉教していった人々のほとんどは、難しい勉強をしていたわけでもなく、特別な霊的指導を受けていたわけでもないごく普通の人たちです。彼らが理解し、信じていたのは、宣教師たちを通して出会った神の愛だけだったといってもいいでしょう。天におられる神様が、わたしたちの父だということ。すなわち、わたしたちは、誰もが神の子どもだということだけを、彼らはひたすら信じていたのです。
 粕谷甲一神父が、彼らを殉教に導いたのは、強い信念ではなく、信仰の力だと指摘しています。改宗したばかりの貧しい農民や漁民たちに、「信仰を守り抜く。神の愛を証する」という不動の信念があったとは思われません。彼らは、自分の弱さを知って、父である神に助けを求めただけなのです。そのとき、彼らの体に、雲仙地獄での拷問や穴吊るしの責め苦さえ乗り越えさせるほどの力が宿りました。おそらく、彼らは自分自身でも、自分に拷問を耐えぬく力があるとは思っていなかったでしょう。彼らは信念の強さによって殉教したのではなく、弱さのゆえに殉教の恵みを与えられたのです。
 逆に、たくさん勉強して日本に送り込まれた信仰のエリートであり、自分の信仰に自信を持ってさえいた神父たちの中に転んだ人たちがいました。そのことは、殉教が人間の力によって成し遂げられものではないことを示しています。「信仰が強いから殉教した、信仰が弱いから転んだ」ということではないのです。信仰は、彼らの力ではないからです。殉教者たちが偉大なのは、自分の弱さを神の手に委ねたということに尽きます。弱さを信念の力で乗り越えようとした人は転び、弱さを神の手に委ねた人は神の力によって殉教の恵みを与えられた。そういうことでしょう。
 おそらく、殉教を成し遂げさせるのは、からし種一粒ほどの信仰だと碧い海を見ながらわたしは思いました。神が自分たちの父であると信じて、自分のすべてを神に委ねるからし種一粒ほどの信仰が心にあれば、あらゆる困難を乗り越えるための力が与えられるのです。ですが、わたしたちの心には、からし種一粒ほどでも信仰があるでしょうか。「わたしは弱いから」と言い訳しているうちは、まだ自分の力を信じ、自分の力に頼っているように思います。わたしが弱いかどうかなどは、関係ないのです。問題は、その弱さを認めて、神に助けを求められるかどうかです。
 自分の力に頼っている人は、自分の力で乗り越えられないほどの現実に直面するとき、打ちのめされて転びます。しかし、自分の弱さを知って神の手にすべてを委ねている人は、神の力によってあらゆる困難を乗り越えてゆくのです。周りの人々は、「なぜあの人は、これほどの逆境を笑顔で乗り越えられるのだろうか」と驚き、神の偉大さを思うでしょう。それが信仰を証するということです。その意味で、殉教は、日々の生活の延長線上にあります。日々の生活の中でこの信仰を生きることで、この世界に神の栄光を証してゆきましょう。
※写真…外海、遠藤周作記念館からの眺め。