バイブル・エッセイ(767)いまを精一杯に生きる


いまを精一杯に生きる
「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:25-34)
「だれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」とイエスは言います。わたしたちは、明日もそのあとも生き続けることを当然の前提として「ああなったらどうしよう」「こうなったら困る」と思い悩んでいますが、今晩死んでしまうかもしれません。明日、大地震が起こるかもしれないし、病院で癌を告知される可能性だってあります。どんなに綿密に計画を立てても、死がやってくれば、すべてご破算になってしまうのです。自分がいつ死ぬかという一番大事なことがわからないのに、先のことをあれこれ思い悩んだところで意味があるでしょうか。
 あてにならない地上の富や権力などに執着し、自分の力ではどうもならない先のことまで自分の思った通りにしようしてあれこれ思い悩むのは、自分の人間としての限界をわきまえない傲慢とさえ言えるかもしれません。「明日のことは明日自らが思い悩む」とイエスは言います。自分の力でどうにもならない先のことは神様の手に委ねて、いまこのときを精一杯に生きなさいというのが今日の福音のメッセージでしょう。
 そのような生き方の模範になるのが花や鳥だと思います。「空の鳥をよく見なさい」というのは、バードウォッチングを趣味にしているわたしが一番好きな聖句の一つですが、確かに鳥たちの姿の中に人生の答えがあるように思います。鳥たちは「種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない」とイエスは言います。働かなくていいということではないでしょう。鳥たちを見ていて見習いたいのは、先のことまであれこれ心配しないということです。長年バードウォッチングをしていますが、将来のことで悩み、暗い顔をしている鳥をこれまでに見たことがありません。鳥たちは「もっと種を植え、刈り入れて餌をためておかないと、冬になって困る。子どもも多いんだし」などと心配しないのです。
 鳥たちは、いつもその時を精一杯に生きているように見えます。目の前にある状況と全力で向かい合い、ただいまこの時を生きることだけを考えているのです。そんな鳥たちを、神様は豊かに養ってくださる。だから、先のことは心配せず、いまを精一杯に生きなさい。そういう意味で「空の鳥をよく見なさい」とイエスは言っているのでしょう。「野の花」についても同じことが言えると思います。花たちは、先のことを考えず、いまこのときを全力で咲いているのです。
 鳥や花たちに共通しているのは、先のことを心配しないということです。それはまるで、神様の恵みを信頼しきっているかのようです。鳥や花は、冬の次には春が来る、どんなに暗い夜にも必ず朝がやってくる、そのようなことを素朴に信じています。「神様がすべてをよくしてくださる」ということを前提に、いまを精一杯に生きているのです。「わたしがあなたを忘れることは決してない」というイザヤ書の約束を信じ、わたしたちもいまこのときを全力で生きられるよう祈りましょう。