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片柳神父のブログ「道の途中で」

2017-07-09

バイブル・エッセイ(758)再び歩き出すために

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再び歩き出すために

 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:25-30)

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と、イエスは言います。背負い込んでいる荷物を、イエスの前でいったん下ろしてゆっくり休む場所。それが教会だと言っていいでしょう。祈りの中で、わたしたちは背負い込みすぎた荷物を軽くし、再びそれを背負って歩くための力を与えられるのです。

 「教会に来ても休めない。それどころか、いろいろな仕事を頼まれてますます疲れてしまう」という人もいます。それは、きっと肝心の祈りがうまくいっていないからだと思います。ミサの間も、「終わったらあれもしなければ、これもしなければ。早く終わらないかな」などと考えていれば、ミサが終わる頃にはますます疲れが溜まっているでしょう。祈るためには、そのような人間の思いを一度、すべて手放さなければなりません。すべての心配事を神様の手に委ね、神様の愛の中でゆっくり休む。それが祈りなのです。

 祈りの中で自分自身を振り返るとき、わたしたちは自分が荷物を背負い過ぎていたことに気づきます。「あれもしなければ、これもしなければ」と考えていたけれど、本当にしなければならないことはそれほど多くない。「あれも欲しい、これも欲しい」と思っていたけれど、本当に必要なものはそれほど多くない。静かな心で自分自身を見つめ直すとき、わたしたちは自分が欲張ってたくさんの荷物を背負いすぎていたことに気づくのです。自分が本当に背負うべき荷物を、神様の前で選び直す。本当に背負うべき荷物を神様に教えて頂く。それが祈りの時間なのです。

 あれもこれもと欲張って、両手、肩、首から荷物をぶら下げながら歩いているなら疲れて当然です。本当に担うべき荷物だけを、両肩でしっかり背負えば楽になるでしょう。本当に大切な使命を見つけ出し、それを全身でしっかり背負う。そうすれば、疲れることはないのです。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」というのは、きっとそういう意味でしょう。

 祈りの中で、わたしたちの心を聖霊が満たしてゆきます。心配事を神様に委ねて、楽になるというだけではないのです。さまざまな考え事をやめて神様とつながるとき、わたしたちの心を聖霊の力が満たしてゆきます。まるで、携帯電話を充電器につなぐようなことが起こるのです。聖堂に入る前「なんでこんなに忙しいんだ」などと考えていた人が、聖堂から出てくるときには「世界の果てまで出かけてゆく」と思えるようになるのです。荷物を軽くしてしっかり背負い直し、歩いてゆくための力を頂く時間。乱れた心を整え、魂をリフレッシュする時間。それが祈りです。神様の前でゆっくりと休み、新しい気持ちで一週間を始めてゆきましょう。