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片柳神父のブログ「道の途中で」

2018-06-03

バイブル・エッセイ(808)食事に愛を込める

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食事に愛を込める

 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。(マルコ14:22-26)

 最後の晩餐の席で、イエスはパンを取って弟子たちのために裂き、「これはわたしの体である」と言いました。わたしたちのために裂かれたイエスの体は、神様の愛そのもの。イエスの言葉によって、このパンは神様の愛に満たされた、命の糧となったのです。また、イエスはぶどう酒をとって「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言いました。人々を救うために流されたイエスの血は、神様の愛の何よりの証。イエスの言葉によって、このぶどう酒は、神様の愛の目に見えるしるしとなったのです。神様の愛に満たされたパン、神様の愛を証するぶどう酒が、人生を支える命の糧、御聖体としてわたしたちに与えられたことを記念するのが、今日、「キリストの聖体」の主日だと言っていいでしょう。イエスは、聖なる食事によって、わたしたちが神の愛をはっきり実感しながら日々を生きられるようにしてくださったのです。

 先日、ある研修会で考えさせられる話を聞きました。思春期の子どもたちが、「自分は親から愛されていない」と訴えるとき、その一番大きな理由は、食事を作ってもらえないことなのだそうです。スーパーやコンビニの総菜などでも、工夫すれば栄養は十分に取れるはずです。ですが、子どもたちは、そのような食事だけでは満足できません。中には、親がそのようなものを買い与えても、「あんなのは飯じゃない」と言い捨てる子どももいるそうです。その食事を買うために、汗水たらして働いている親御さんのことを思えば厳しすぎる言葉にも聞こえますが、やはり子どもたちは、愛されていることを、目に見える形で実感したいのでしょう。親から抱きしめられたり、ことさら声をかけられたりするのを嫌がる思春期の子どもたちにとって、親が自分のことを考えて手間暇かけて作ってくれた食事、愛情が込められた食事こそが、親の愛を実感する数少ない場面なのかもしれません。これは、大人にも言えることでしょう。誰が真心を込めて準備してくれた食事を感謝しておいしく頂くとき、わたしたちは自分が愛されていることを素直に、全身で実感するのです。

 御聖体を準備するために、イエスはどれほど大きな愛を注いだことでしょう。ご自分の体、ご自分の生涯を、何の混じりけもない純粋な愛とするために、イエスはご自分を十字架上で神に捧げました。自分の命さえも捧げることによって、キリストの体、キリストの生涯は、隅々まで神の愛で満たされたのです。キリストが十字架上で流した血は、親たちが子どものために流す汗以上に、わたしたちへの愛をはっきりと証しています。イエスは、わたしたちのためならば命さえ差し出しても惜しくないほど、わたしたちを愛して下さっている。御聖体を頂くとき、わたしたちはそのことを実感するのです。神の愛で満たされた御聖体、神の愛の何よりの証である御聖体を、心から感謝していただきたいと思います。