バイブル・エッセイ(822)争いの原因

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争いの原因

 そのとき、イエスと弟子たちはガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(マルコ9:30-37)

 弟子たちの間で、誰が一番偉いのかという言い争いが起こったと記されています。家も財産も、すべてを捨ててイエスに従った弟子たちの間で、こんな争いがあるというのは意外なことです。しかも、弟子たちはイエスの一番近くにいて、「互いに愛し合いなさい」と繰り返し言い聞かされていたはずです。それなのに、なぜそんな争いが起こるのでしょう。

 このような争いが起こる原因について、「あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか」(ヤコブ4:1)とヤコブは指摘しています。誰かが「自分こそ、イエス様の一番弟子だ」などと主張しても、「一番弟子とか二番弟子とか、そんなことはどうでもいい」と思っているなら、腹は立たないでしょう。腹が立つのは、その人の中に、「自分も偉くなって、みんなから尊敬されたい。自分が一番弟子になりたい」という思いがあるからです。争いを引き起こすのは、わたしたちの心の中に隠れた欲望だと言っていいでしょう。自分の中に相手と同じ欲望があるから、欲望と欲望が競い合い、わたしたちの間に争いが生まれるのです。

 そのようなことは、わたしたちの間でよくあることです。「あの人は、自分だけ目だとうとしている」と人の悪口を言う人の心の中には、「自分だって目立ちたい」という欲望があるし、「あの人は、モテようと思って気取っている」と人の悪口を言う人の心の中には、「自分だってモテたい」という欲望があるのです。すべての人が目立ったり、モテたりすることはできませんから、当然、欲望と欲望の間には競争が起こり、競争は妬みや怒り、争いを生み出します。これが、人間のあいだに争いが起こる根本的な理由だとヤコブは見抜いているのです。

 「自分が偉くなりたい」と争い合う弟子たちに、イエスは、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と語りかけます。欲望を剥き出しにし、人を踏みつけてでも自分の欲望を満たそうとするような人は、神様の前で少しも偉くない。むしろ、自分の欲望を捨て、家族や友人、助けを求めているすべての人々に献身的に奉仕するような人こそが偉いというのです。自分を忘れて愛する人こそが、神様の前では一番偉いと言ってもいいでしょう。

 では、どうしたら欲望を捨てられるのでしょうか。そのためには、神様の愛で満足することだと思います。「仲間の間で一番になる必要などまったくない。わたしは、イエス様のそばにいて、イエス様にお仕えできるだけで満足だ」と思えるようになれば、「偉くなりたい」という欲望は自然に消えます。もし、誰かに対して妬みや怒りが生まれたなら、それはまだ、わたしたちが神様の愛で十分に満たされていない証拠。そんなときこそ、心を落ち着け、神様に向かって心を開きたいと思います。心が満たされたなら、乱れた欲望は消え去り、欲望同士が争い合うこともなくなって、この世界に平和が実現するでしょう。わたしたち一人ひとりの心を、神様が愛で満たしてくださるように祈りましょう。

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カトリック司祭(神父)の片柳弘史@宇部教会です。コメントはtwitter、FBからお受けします(^O^)