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hiroyukikojimaの日記

2008-12-02

数学の道が閉ざされるとき

23:04

 遅ればせながら映画『容疑者ケインズ』、もとい、映画『容疑者xの献身』を観てきた。

 なぜ観に行ったか、というと、ぼくがCDまで買ってしまいそうな勢いの柴咲コウのファンだからでは決してなく、福山演じるガリレオ先生の講義のように教室を女子大生でいっぱいにするにはどうしたらいいかを学びたいから、ってえのでも全くない。実は、小学生の息子が、「どうしても観たい」、といったので連れていくことにしたのだ。息子は、テレビでの『ガリレオ』を観て、このシリーズのファンになったようだ。表向きには、理科マニアであることが理由なのだが、その実、柴咲お姉さまにやられてしまっているのかどうかは定かではない。(ママには内緒にしといてあげよう)。まあ、理科雑誌「RikaTan」(ムペンバ効果と経済 - hiroyukikojimaの日記参照)を与えて以来、繰り返し熟読しているので、まんざらウソでもないだろう。本当に、この雑誌は息子には面白いらしい。理科好きの小学生の親御さんには、是非とも推薦したい 。

RikaTan (理科の探検) 2008年 12月号 [雑誌]

RikaTan (理科の探検) 2008年 12月号 [雑誌]

実際、息子は友だちには「理科王子」とか呼ばれているとのことで、ウケてしまった。父親としては、これまで口を酸っぱくして、「将来、役者と物理学者になることだけは、パパは許しませんからね」といってきたつもりだが、それが逆効果になってしまったかもしれない。

 観に行った理由はもう一つあり、それは、先日、雑誌対談した数学者黒川信重先生が(素数のひみつ - hiroyukikojimaの日記参照)、この映画で数式の監修をした、とおっしゃっていたから、それを拝見したくも思っていたからだ。

 映画は予想外に良かった。

 何がよかったか、というと、犯人である数学者・石神を演じる堤真一さんの演技があまりにすばらしかったのだ。(念のために断っておくが、この物語では、最初から犯人がわかっている)。この人物は、かつては数学の天才といわれながら、家庭の事情で数学者への道を閉ざされ、高校で数学を教えながら世捨て人のように生きているような人だ。ぼくは、天才でなかったが、数学の道が閉ざされた、という意味ではこの境遇を味わったことがあり、そのせいか、映画を観ている間、胸が痛く、ずっと涙ぐんでいたのだ。

 黒川先生が監修した部分は、たぶん、リーマン予想に関する部分だろう。こんなシーンだ。福山演じる物理学者・湯川が堤演じる旧友の数学者・石神を訪ねる。そして、同僚の論文を石神に与える。それは、「リーマン予想の反証」を与えた論文だった。この論文が正しいかどうかをチェックすることを石神に依頼するのである。石神は、一心不乱に6時間もかけて、この論文をチェックする。このときの堤真一の演技は、迫真である。そして、その反証の誤りを遂に発見する。「素数の分布に関するところに間違いがある」と。このような作業を頼む湯川の意図は説明されないが、明らかに、石神が昔のように頭脳明晰であるかどうかを試したのだろう。それは、犯人が驚異的に頭脳の優れた人間であることを確信しているから、それが石神であるかどうかを湯川自身がチェックした、という暗示なのである。

 リーマン予想というのは、ゼータ関数に関する予想だが、(ゼータ関数については、素数のひみつ - hiroyukikojimaの日記参照)フェルマー予想とポアンカレ予想が解決した今、最も解決の期待される予想である。黒川先生の推測では、少なくともあと数年で解決してしまう、ということはなさそう、とのことであった。この予想に関するプロの論文を、6時間でチェックしてしまう石神という男の力量は、すさまじいものなのである。(ちなみに、黒川信重の名前は、ちゃんとエンドロールでクレジットされており、所属が(数学者/宇宙ゼータ研究所)となっていたのが爆笑だった。)

 この映画を観て、いたたまれなかったのは、石神の数学へのひたすらの愛と、道が閉ざされたことへの絶望が、とてもとてもとてもよくわかるからである。数学を志した多くの人は、かなり早期に、つまり少年期に、数学に目覚めている場合が多い。そして、ほとんどの場合、数学以外の将来を考えたことがない。数学がなくなれば、人生のすべてが失われてしまう。数学のない人生は、全くの無意味なものだと思いこんでいる。ぼくが数学に目覚めたのは、中学1年のときだが、それから10年にわたって、数学者以外の将来を考えたことがなかった。数学から遠い人生など、何の意味もない人生だと思っていた。数学だけが、価値あるたった一つのものだった。だから、数学の道が閉ざされたときのぼくの失意は、石神のそれと同じである、と思えた。

 ぼくは、三度目に院試に落ちたその日に、数学の道にけじめをつけようと思った。その日も、実は、塾で講義をした。数学科の知り合いで塾の同僚だった人に、「よくこんな日に講義ができますね」、と慰めとも皮肉ともつかないことばをかけられたが、講義を休むという選択も思いつかないほど、ぼくは落胆していたのだ。あの日の脱力感は、今でも忘れられない。どんなに熱を出したって、あの日の力の抜け方にまさるものはないだろう。講義をしながら、黒板に数式を並べながら、子供たちを眺め、「これからどんな可能性をも実現しうる」子供たちの未来をうらやみ、まるでそこが異次元バーチャルな空間かのような気分になっていた。そして、ぼくはそこでなぜだか、「数学者になれなくとも、数学のそばにいよう」という決意をした。一般企業に就職するような選択はせず、不安定な身分ではあっても、塾で数学を教えながら、数学のそばにいよう、そう決意したことを覚えている。あの教室にいた子供たちの生命力が、ぼくに最後のささやかな力をくれたのかもしれない、と思える。それから今にいたるぼくの話は、『文系のための数学教室』講談社現代新書のあとがきで読んで欲しい。

文系のための数学教室 (講談社現代新書)

文系のための数学教室 (講談社現代新書)

 数学者・石神のキャラクターは、ひょっとすると、数学者佐藤幹夫さんから想を得ているのかな、とか思った。佐藤幹夫は、東大数学科の出身だが、家庭の事情で一度は高校教員になっている。しかし、数学の道を諦めきれず、夏休みに、下宿の四畳半で、上半身裸のまま汗を手ぬぐいで拭きつつ、すさまじい計算を実行し、後に佐藤超関数と呼ばれるスゴイ概念の発端をつかむ。それを指導教官に持って行くと、学会で発表するように助言され、それをきっかけに数学者への道が再び拓かれる、という希有な人生を歩んだ人である。数論の分野でも、ゼータ関数に関する「佐藤・テイト予想」というのを提出し、黒川先生によれば、つい最近、それがテイラーというイギリスの天才によって解決された、とのことだ。(テイラーは、ワイルズに協力して、フェルマー予想を解決した人でもある)。

 そんなこんなで、犯人である数学者・石神を眺めながら、ぼくはずっと落涙していた。とはいっても犯人は犯人である。しかも、犯行に関しては、狡知に長けている。彼の仕掛けたトリックはあまりに驚異的なものであり、そんな石神を息子にみせてしまっては、「役者と物理学者は許さない。できれば数学者になってパパの無念をはらして欲しい」という切なる願いは、とても言い出しにくくなってしまった。東野さん、すっごいトリックだけど、このようなトリックだけは勘弁して欲しかったです・・・。

 映画的な試みだと思うが、湯川と石神が冬山を登山するシーンは象徴的だったと思う。数学の道も物理の道も、まさに、このような雪山の登頂と同じだ。極寒のなか、死をも辞さず、一心不乱に昇り続ける。それは、ひたすら、頂上で見える風景のためだけにだ。そして、その風景は、普通の人には価値あるものには思えない類のものである。でも、それがなければ、人生が無意味になってしまう。数学の道とは、そういうものなのだ。

 涙で目を腫らしながらもぼくは、帰りにアイドルパンクバンドのParamoreのライブDVDを買いにいった。渋谷で二件回ったが売り切れ。ぶっちぎれたぼくは、息子の帰宅をつれあいに任せて、その足で新宿に向かった。新宿で二件を回って、やっとゲット!。写真集付きのが入手できなかったので、あとでもうワンセット買うことになるだろう。アイドル道を諦めたことは一度もない。アイドルのいない世界なんて、数学が閉ざされた世界以上に無意味だからだ。