シンセサイザーの第一人者、冨田勲氏が死去。

今年は偉大なるミュージシャン達の訃報が多いような気がするが、先日のキース・エマーソンに続き、ムーグ・シンセサイザーの可能性を世にしらしめた音楽界の巨匠、冨田勲氏が鬼籍に入った。それは、巨星墜つ、という言葉を使っても表現できないほどの喪失感であった。それにしても、キース・エマーソンのすぐ後に冨田勲とは、かなりキツイものがある。エキース・マーソンの時にも書いたが、あの頃、中学生だった自分にとっては、まさに彼等の音楽が血肉となっているのだが、冨田勲もまた例外ではないのだ。

2ndアルバム『展覧会の絵』の裏ジャケットより

当時はシンセサイザーというのは、まだ一般的ではなく、その音は耳にしていても(例えば、ビートルズの楽曲等)、具体的にシンセサイザーを説明できる人間はまだまだ少なかった。ビートルズの頃は、まだ鍵盤が存在しておらず、音階の入力はリボンコントローラーのボードを使って行われていた。その後、キース・エマーソンがカスタムで鍵盤を追加したものを使用した。冨田の使ったものも、いわゆる"タンス"といわれる巨大ユニットの集合体で、当然ながら現在の様なプリセット音源などは存在していないし(モジュール・システムによるプリセット)、音も和音が出せないモノフォニック仕様。従って、曲を作る際には必要となる音色をひとつずつ作っては、それを多重録音して行くという、気の遠くなるような作業が必要だった。また、当時このユニットは、温度によって、音程や音色が微妙にに変化してしまうため、電源は入れっぱなしで、室内温度も管理されていたという。
実は、最初に聴いたシンセ単独のアルバムは、冨田ではなく、ウォルター・カルロス(現・ウェンディー・カルロス=性転換のため改名)の世界的ヒット作『スイッチト・オン・バッハ』だった(冨田もこの作品に大いに心を揺さぶられて、シンセサイザーの世界に足を踏み入れたと言われている)。冨田のシンセ第一作『月の光』は印象派ドビュッシーの作品だが、おそらく、こういった曲に対する楽器(オーケストラの音色)の限界を本人は強く感じていたのだろう。そういった、クラシック音楽の枠組みの中では決して成し得る事の出来ない想像上の音色が、氏の頭の中で常に鳴っていたに違いない。
晩年、初音ミクをフューチャーした『イーハトーヴ交響曲』が公演され、これはNHKでも放送されたが、氏が初音ミクに対して、数十年もの間、シンセではどうしても出せなかった念願の人の声を遂に獲得した、みたいな発言をしていたのが印象的だった。かつて"パピプペ親父"といわれた冨田の疑似音声(パ行の辺りを使うと人間のそれっぽく聴こえる)が、ミクによってようやく自在に歌う事が出来る用になったのだから、その喜びもひとしおだったに違いない。

当時、聴き込みまくった4枚の復刻盤CD。シンセサイザーに未来の音を感じていた。

ご冥福をお祈りいたします。