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あべ・やすしといいます。

プロフィールこれまでの記事

2008ねん 06がつ 25にち

漢字が 排除するもの

ある記事を 紹介します。


「日本語から漢字を引算できるか?」(彎曲していく日常)


うえの記事は、日本語から 漢字を とりのぞこうとするのは、排他的なナショナリズムだという内容です。

こうした主張は、子安宣邦(こやす・のぶくに)『漢字論-不可避の他者』岩波書店に かいてあるはなしです。


わたしは日本語表記の問題について 8年まえから かんがえています。わたしの議論は つぎのとおりです。


漢字は、文字表記として ふくざつすぎるために、さまざまな文字弱者を 排除し、抑圧している。

もちろん、漢字を なくせば 文字弱者が いなくなるわけでは もちろんない。だが、おおきく改善することが たくさんある。

わたしが「漢字という障害」という論文で指摘した漢字弱者は、非識字者や識字学習者、盲人、弱視者、ろう者、中途失聴者、読字障害を もつひと、知的障害者、日本語学習者です。

そうしたひとたちが文字情報にアクセスする権利を うばっているのが、いまある日本語表記に ほかなりません。漢字が障害となる どあいは、それぞれ ことなっています。けれども、なんらかの かたちで、漢字は障害として はたらいているのです。


それでは、漢字を なくせば いいのか。

はたして、漢字を なくすことは できるのか。


議論は、そこで おおきな みぞが できてしまいます。「できる!」というひとは、実践的に漢字の問題に とりくみます。

「できない!」というひとは、なにも しません。ここにあるのは、イチかゼロかの発想です。

よくあるのは、「漢字を なくせば 同音異義語の問題が発生してしまう」というものです。

ここにも、イチかゼロかの発想が かいまみえます。それなら、わかりにくいものには かっこに漢字を そえれば いいじゃないですか。あるいは、ことばを いいかえていけば いいじゃないですか。


「日本語から漢字を引算できるか」という問題の こたえを だすのは、日本語を よみかきしている ひとであって、だれかが こたえてくれるものでは ありません。

もし、多数派が「できない」という こたえを だすのであれば、どうしたら いいのでしょうか。

こたえは かんたんです。イチかゼロかの発想を すてることです。


「漢字が うみだす情報障害を、とりのぞくことは できるだろうか」という問題に とりくむことです。表記の改善と「通訳」の提供(文字情報サービス)を 実施することです。

漢字表記の日本語を ひらがなだけの文章や ふりがなつきの文章に変換することは、ある程度ではあれ、できることです。そして、その精度を さげてしまっているのは、ひとつには人名や地名などの固有名詞の漢字であり、また、漢字の よみかたが たくさんあることです。


とくに訓よみは、日本語漢字を ふくざつにしています。


だから、つぎの ふたつが課題になります。

  • 固有名詞の漢字には、かなを そえること。
  • 訓よみ漢字を なるべく つかわないこと。

そして、文字弱者が 出版された本などの「電子データにアクセスできるようにすること」も必要になります。そうすれば、自分にとって よみやすい表記に変換できるからです。

いかがでしょうか。


さいごに、盲人の福井哲也(ふくい・てつや)さんの文章を 紹介したいと おもいます。

不毛不毛 2008/06/26 09:41 言葉が変化するように、当然文字も変化していきます、昭和初期以前の文章をそのまま読めないように、現在の日本語の変化してるのだから、その流れのままで良いと思うし、わざわざ、日本の文化を捨てるというのは傲慢と言うしかない。
隣の国に良い例があるではないか、漢字を捨てたおかげで、文学不毛の国が。文化を捨てる危険性を全く考えてない時点で、筆者の世間の狭さが伺えます。

led1968led1968 2008/06/26 12:32 「ことばを いいかえていけば いい」「訓よみ漢字を なるべく つかわない」
こういった行動は、単語の抹殺と呼ぶこともでき、言い換えが普及して使われなくなった言葉の数だけ日本語表現の選択の幅が狭まるのではないでしょうか。上の方も書いているように言葉は変化するものですが、それは多くの場合新語・新用法の出現とそれにとってかわられた言葉の消滅によるもので、意図的な言葉の削減が行われた例はほぼないと言っていいのでは。言葉を削減しつつもそれに代わる新たな表現を用意し補完しないのでは、日本語のもつ表現力の弱体化を危惧せずにはいられません。

nanasinanasi 2008/06/26 17:05 昔ある雑誌に日本語全部ローマ字表記にすりゃいいじゃんっていう提案が載っていたのを思い出しました。
漢字・かな・カナをローマ字・かな・カナに変えて文化人(笑)の為に漢字を残すのはどうでしょうか。

gabillgabill 2008/06/26 19:28 コンピュータが今以上にもっともっと普及すれば、
手書きで文章を書けない世代が表れそうな気がします。

「手書き文化」と「漢字文化」のどちらが重要か、悩むところ。

hituzinosanpohituzinosanpo 2008/06/27 00:50 木村護郎クリストフ(きむら・ごろう くりすとふ)さんの『言語にとって「人為性」とはなにか』三元社という すばらしい本があります。ご参考までに。
http://www.sangensha.co.jp/allbooks/index/153.htm

「漢字を捨てたおかげで、文学不毛の国」と おっしゃるところに、わたしは2年間 すんでいました。でも「文学不毛」だなんて感じませんでした。なにをもって、文学不毛と いえるのでしょうか。

わたしは「イチかゼロか」の議論ではダメだと おもうのです。

「文化」よりも権利を保障することが大事ではないでしょうか。そして、わたしは「文化を捨てる」ことで権利を保障しようと主張しているように みえるのでしょうか。

わたしは この記事でまず、「漢字廃止論にたいする反論」に反論しました。そして、「漢字をやめるかどうか」を議論したとして、「もし、多数派が「できない」という こたえを だすのであれば、どうしたら いいのでしょうか。」と疑問をなげかけました。

そして、イチかゼロかの発想を すてる必要があると指摘しました。そして、みっつの提案を提示しました。

それは、
1. 固有名詞の漢字には、かなを そえること。
2. 訓よみ漢字を なるべく つかわないこと。
3. 文字弱者が 出版された本などの「電子データにアクセスできるようにすること」。
です。

もちろん、訓よみ漢字の是非については賛否両論あって当然だと おもいます。鈴木孝夫(すずき・たかお)が訓よみを絶賛していたのを ご存じの かたも いらっしゃるでしょう。ただ、野村雅昭(のむら・まさあき)さんが『漢字の未来 新版』三元社で訓よみの問題を ていねいに指摘していることは、あまり しられていないかもしれません。

「ふりがなをふればいい」というコメントを たくさん いただきました。それも、ひとつの模索です。実践されて よいことです。

山本 有三(やまもと・ゆうぞう)「ふりがな廃止論」が ものすごい影響力をもち、じっさいに「ふりがな廃止」が実現したことも、ご存じの かたが いらっしゃるでしょう。もしかすると、土屋礼子(つちや・れいこ)さんの「ふりがな論の視座-近代日本における文字とリテラシイ」という論文をよまれたかたも、いらっしゃるでしょう。
http://www.seidosha.co.jp/index.php?%B1%D5%BE%F5%B2%BD%A4%B9%A4%EB%C6%FC%CB%DC%B8%EC

山本は、漢字を制限することを前提に、ふりがなをやめようと主張しました。

問題は、山本の意図とは うらはらに、ふりがな廃止は結果として日本語表記の かべを たかめることになってしまったことです。それは、敗戦後の「当用漢字」が制限する目的で制定されたにも かかわらず、「国民」が社会生活をおくるのに最低限 身につけるべき漢字のかず(1850字)として機能してしまったことと、よく にています。にているというか、根っこは おなじところにあります。表記改革にたいする反動です。

ふりがな廃止や漢字制限の理念が なしくずしにされることで、いまある日本語表記は「絶対的なもの」として当然視されるようになったのです。この「流れ」は「意図的に」設定されたものです。これの『漢字の未来 新版』や、安田敏朗(やすだ・としあき)さんの『国語審議会』講談社現代新書、マーシャル・アンガーさんの『コンピュータ社会と漢字』や『占領下日本の表記改革-忘れられたローマ字による教育実験』が参考になります。

ましこ・ひでのりさんの『イデオロギーとしての「日本」-「国語」「日本史」の知識社会学』も わすれてはなりません。
http://www.sangensha.co.jp/allbooks/index/122.htm

むかしから「日本人」の識字率は たかかった? もし、そのように主張される かたが いらっしゃるとすれば、リチャード・ルビンジャーの『日本人のリテラシー-1600-1900年』を おすすめします。あわせて、『社会言語学』6号をご紹介しておきます。
http://www.geocities.jp/syakaigengogaku/syakaigengogaku2006.html

最近も、白石良夫(しらいし・よしお)さんによる『かなづかい入門-歴史的仮名遣VS現代仮名遣』平凡社新書という本が でています。表記をめぐる せめぎあいは、社会の縮図であるとも いえるでしょう。

不毛不毛 2008/06/27 11:24 何故識字率を持ち出すのか分からないが、音読み訓読み混濁こそが日本語の本質であり、表現を豊かにするのであって、点字や手話のように一定の法則で表現するのはかまわないが、特に言葉は流動的なものだから、それをみんなに、表現方法まで押しつけるのは傲慢だといっているのだが。
使いたい人が使いたい言葉を使えばいいのであって、戦争時の敵国語禁止みたいなやり方は賛成できぬと言ってるんだがねえ。

irigiumirigium 2008/06/27 20:52 誰も押しつけてなんかないんだけどなあ。単に提案しているだけなのにね。

led1968led1968 2008/06/27 23:32  突き詰めて言えば言葉というものは、ある意味なるようになるというか、誰かがどこかで提案した変化を人々が受け入れた時、自然に変遷が起こるものなのではないでしょうか。時代の流れに要求されたり、誰かが新しい表現を提案してそれがいつの間にか言葉に受け入れられ定着したり。概ね言葉の変化というのはそういったものでしょう。言語の活力と外部からの刺激に対する柔軟さの相関関係について言及した学者もいたはずです。それに人為的な規定を加えてしまっては、言語の硬直化を招き、活力を失う結果になるのではないでしょうか。そして何より、今ある表現を意図的に削減するようなことをして、日本語の力は保てるのでしょうか。繰り返しになりますが、自然な変遷の場合は新表現に取って変られたり使われなくなって役目を終えた言葉の退場によるのに対し、この方法では現役の、今まさに使われている言葉に退場を命じることに他ならないのでは。似たような言葉で言いかえるにも、微妙なニュアンスの違いがありそこに限界があります。それこそが日本語の、いや言語の特性なのではないでしょうか。失われた言葉によって表現できなくなった違いを無視したくはありません。だから、僕はこのような提案に賛同しかねます。
 余談ですが、音読み全開漢語調の言葉についても、あまり乱発されると堅くて分かりにくい、とっつきにくいという意見を聞いたことがあります。表記を平易にした結果中身が難解になってしまった、では本末転倒というか、差し引き0といったところなのではないでしょうか。

hituzinosanpohituzinosanpo 2008/06/28 11:44 「訓よみ漢字を なるべく つかわない」=「和語を かなで かく」ということです。やはり、言語学的に厳密な表現をとるべきでした。すみません。

「和語を つかわない」ってことではない。「かく」や「ひろい」という和語を「書く」や「広い」と かくのか、ひらがなで かくのかということです。

同音意義語の いいかえは、ことばどおり、「ことばを いいかえる」ということですね。これは、あんまり意識的には されていないですよね。けど、無意識的に、わかりやすく表現しているということは だれしも あります。ラジオなどでは、同音異義語の問題に けっこう意識的だという はなしです。つまり、注意をはらっている。

基本的に「訓よみ」というのは、日本語の論理で構成されている言語体系を漢語(いわゆる中国語)の論理で表記することになります。

日本語の「とる」は「とる」であって、それを たくさんの漢字で かきわける必要などありません(取る、撮る、採る、捕る)。漢語の論理を もちこんで日本語を表記することが日本語の漢字を複雑にしています。

「とる」を取る、撮る、採る、捕る…と かきわけることを、「日本語を豊かにしている」という ひとが すくなからず存在することは わかっています。そういう ひとは、和語を漢字で かきわけたら いいでしょう。

けれども、とくに そういった意識はなく、ただ、「そういうものだと おもっていた」ということで和語を漢字で かきわけているひとには、一度、検討してみていただきたいです。

和語をかなで かくのも いいんじゃないかと。

高島俊男(たかしま・としお)さんの『漢字と日本人』文春新書は漢字をたかく評価する本ですが、和語を漢字で表記する「訓よみ」の問題は、かなり くわしく論じてあります。それは、「漢語と日本語とのそれぞれの単語がどれもこれもうまく一対一で対応しているわけがない」(82ページ)。だから、不具合が生じているということです。訓よみの問題は、また記事にしましょう。ちなみに、和語をかなで表記する日本語学者は、野村雅昭(のむら・まさあき)さんに かぎらず、かねこ・ひさかずさん、宮島達夫(みやじま・たつお)さん、シュテファン・カイザーさんなど、たくさん います。

led1968さん、「誰かがどこかで提案した変化を人々が受け入れた時、自然に変遷が起こるものなのではないでしょうか。」

というのとですね、「それに人為的な規定を加えてしまっては、言語の硬直化を招き、活力を失う結果になるのではないでしょうか。そして何より、今ある表現を意図的に削減するようなことをして、日本語の力は保てるのでしょうか。」

という はなし。

わたしの模索による提案は、「誰かがどこかで提案した」ものではないのでしょうか? わたしの提案は、特別な主張だったでしょうか?

「精神分裂病」が実態にそぐわない表現であるからという理由で、「いいかえ」られました。いまでは「統合失調症」という表現が一般的になっています。これは、「人為的な」「言葉の削除」であり、「日本語の力」をよわめてしまう危険な行為だったのでしょうか。「実態に ことばをあわせる」という、むしろ言語の活力をたかめる行為だと、わたしは おもいます。

いいかえを提案しても、それが うけいれられなければ、その提案は、実現しません。

よく わからないのですが、わたしは月給を手どりで16万円もらっているかどうかの人物です。わたしが なにを主張しようとも、それは「おしつけ」には なりえません。

たとえ「おしつけるような主張」であると感じられたとしても、わたしが権力者でないかぎり、「おしつけるような主張」は、「ただの主張」「提案」に ほかなりません。

もちろん、うったえかけているのですから、たくさんの ひとに同意してほしいと おもっています。その意味で、「おしつけがましい」と いわれるなら、そのとおりです。

けれども、字のよめる多数派の日本語人は、いま現に日本語の文字弱者に「漢字かなまじり文をおしつけている」ことに、もうすこし注意をはらう必要があると おもいます。

led1968led1968 2008/06/28 15:03  すみません、言葉足らずだったようです。混乱を生じさせてしまってすみませんでした。
 僕がここでいった「言葉に変遷を促す提案」というのは次の二点が条件です。
・「こういう表記は避けよう」的な消極的内容でなく、「こういう新しい表現形態はどうだろう」という、あくまで新表現の提案
・法律のように規範のようなものを提案するのではなく、作った表現そのものを出し、推移を見守る
 重ねて申し上げますが、僕は人為的な表現の削減ともとれる行為には断固反対です。使用者がまだ必要としている言葉に退場を命じるのはいかがなものか、と。ここでなされた提案は新たな表現の提案ではなく、単なる削減の提案でしかない。「やめよう、避けよう」ばかりで、代替表現の提案がないのでは。代替案なしの言葉の消滅は「不要だ」とみなされて自然に居場所を失う以外望ましくないと僕は考えます。まだ言葉としての「力」を持った表現の退場には、ふさわしい代役が必要なのではないでしょうか。それが僕のいった「提案」です。そういった意味であなたの提案は言葉の変遷を促す提案として不十分だと感じられます。これが僕の立場です。

hituzinosanpohituzinosanpo 2008/06/28 15:37 この記事は、漢字廃止論にたいする反論への反論を かいたものです。漢字不可欠論にたいする反論といっても いいです。

「漢字は不可欠だ。だって、同音異義語の問題があるじゃないか」という議論をよく みかけます。それなら、そういうときだけ漢字をカッコに そえるとか、表現自体を いいかえるという選択肢があるということです。

固有名詞の漢字には、よみかたをそえるという提案は、新表現の提案であり、表現の削除などでは ないですよね?

「和語を かなで かく」という「新しい表現形態」は、梅棹忠夫(うめさお・ただお)さんなど、たくさんの ひとたちが提案してきました。そして、それに賛同した たくさんのひとたちが存在します。

「代替表現の提案がない」と おっしゃるのには、同意できません。

くりかえしますが、表現をいいかえることには、それぞれ賛否両論が あります。表現をいいかえようという主張は いろいろと ありますが、そのとき、「こういった表現は どうだろうか」という提案が いつも ともなっています。「代替案なしの言葉の消滅」など、だれも主張していないのです。

わたしはまず、漢字不可欠論にたいして原理的な部分で反論したのです。そして、それでは漢字廃止論で よいのかというと、それではイチかゼロかの発想しか うみださないのではないかと論じました。

そして、「それでも できること」として、提案をしたわけです。

とても生産的な提案をしているのに、わたしが いかにも「ひき算」ばかり しようとしているように みなされるのには納得できません。

「訓よみ漢字を なるべく つかわない」というのは、「単語の抹殺」などでは ありません。和語の単語を、どのように表記するかの問題です。

言語学で いうところの「言語と表記の混同」をされているように感じました。日本語の点字は、かなだけで表記されます。そのとき、音よみとか、訓よみとか、外来語という区別は ないのです。そのすべてを かなで表記しているわけです。それが日本語の点字です。

「漢字なしでは日本語は成立しない」というひとも います。ですが そうした意見は、点字で表記された日本語も、おなじく日本語であるということを わすれています。

いいかえを「単語の抹殺」と いわれるのには同意します。けれども、和語を かなで かくだけのことを「単語の抹殺」と いわれるのは言語学的に まちがっています。

もっとも、和語を かなで かくことは、これまでの表記方法を否定するものだと いわれるかもしれません。それは、そのとおりです。和語を漢字で かくのが「使用者がまだ必要としている」表記なのだと いわれるなら、そういった意見もあるという点で同意できます。

ですが、「使用者がまだ必要としている」からといって、そこに問題が ないわけでは ありません。

led1968led1968 2008/06/28 17:20  固有名詞の振り仮名という方法は、建設的だと思います。それはもっと先に書いておくべきでした。今ある表現の持つ力を残しつつ、よりわかりやすく、敷居を低くできる方法かと。印刷物にする際の技術・コスト的問題はあるかもしれませんが、そういった野暮な話はここで優先されるべきことではないでしょうし。
 しかし、和語のかな表記に関しては、単語は抹殺されていないにせよ、表現は抹殺されるのではないでしょうか。ここで挙げられた実例「取る、撮る、採る、捕る」。これらの異なるニュアンスの表現は、どこへ行くのですか?「そういうものだと おもっていた」というのも、漢字のもつ意味の違いを感覚でとらえていると言えないでしょうか。そして、消極的・受動的にせよ異なる表現があることの意味を一応のところ理解しているということでは。
 また、仮にこれらの言葉が仮名で表記されたものを目にしたとして、僕は困惑せずにはいられないでしょう。パッと見ただけではどの意味にとっていいかわからないでしょうし、「文脈で」と言われたところでそれでも複数の意味にとれる場合があることはことは想定できます。
 「漢字なしでは日本語は成立しない」とは言いませんし、点字が日本語ではないとも言いません。従来の文字表記とかなり異なる形態であるがために、漢字表現は困難であった。だから、形態に合う形を、ということで漢字を使用していないことは自然なことだ。そうとらえています。できないことはできないのだし、それで日本語として読めなくなるわけではない。そして、点字が必要とされている以上、このような形態での点字の存在は納得のいくものです。
 問題がないとは言いません。そして、hituzinosanpoさんの案の対案を出せない時点で偉そうに否定的見解を述べるのは筋が違うというか、順序がおかしいかもしれません。その点で僕の力はそれまでというか、自分の不勉強・力不足を感じます。しかし、訓読み漢字という表記はその表記方法であるが故に持ち得る意味ももっており、それをかな表記することで失われるものは小さくないと言えるのではないでしょうか。

hituzinosanpohituzinosanpo 2008/06/28 17:51 「「取る、撮る、採る、捕る」。これらの異なるニュアンス」というのは、漢語(いわゆる中国語)からみて「異なるニュアンス」なのです。日本語としては、全部「とる」です。それを、漢語の論理で かきわけているだけなのです。

日本語の論理に もとづいていないからこそ、逆に「さげる」にも「さがる」にも、「下」という字をつかうことになる(下げる、下がる)。

「おこなった」と「いった」は、どちらも「行った」と表記される。「いだく」も「だく」も「抱く」。こういった「日本語にとって重要なニュアンス」を ないがしろにしているのが、和語を漢字で表記する方法です。

たとえば、問題は点字にも「漢点字」、「六点漢字」というものが つくられたことです。これは、ゆびで よむという点字の特性からいって、よみにくいものです。よみにくいというのは、六点漢字をつくった本人が いってますからね。学習するのも 相当に困難。それでもなお、「これを盲学校で おしえるべきだ」という晴眼者(せいがんしゃ。みえるひと)が いることを、どのように うけとめるべきでしょうか。

ほかの かたの「おしつけるな」という反論は、わかるんです。でも、ちょっと まってほしい。圧倒的に多数を しめる側は、しらずしらずの うちに、いろんなことを だれかに おしつけてしまっているのです。「おしつけるな」と いわれる かたは、その点を わかってください。

わたしは、このコメントで「がわ」という和語を漢字で表記しました。わたしは、「絶対に和語は漢字で表記するべきじゃない」とか、そんなことを いうつもりは ありません。

「いった」と「おこなった」を おなじく「行った」と表記するのは、日本語を大切にする行為なのでしょうか。

led1968led1968 2008/06/28 19:29  まず、漢字を用いないという点字の表記方法に関しては、僕は異論を持っていません。目で読むか、手で読むか。受け取る方法が根本的に違う以上、それぞれの方法に合った形態を模索・採用するのは当然のことであり、その点このやり取りの方法には不都合と見える「六点漢字」の使用を主張する意見には確かに賛同しかねます。
 しかし、目で読む言語に関してはどうでしょうか。たとえば「行う」。これに関しては、「行なう」という表記方法も既に存在しており、漢字の使用はそのままに区別は可能です。そして「抱く(だく・いだく)」ですが、「いだく」には他に2種の漢字が、常用でないながらあてられています。確かに常用ではないですが、これも立派な日本語表現として定着している現状をみると、たとえば前述の「ふりがな」の使用という方法で代用可能かと。
 漢語的要素は中華文化圏から多大な影響を受け続けてきた日本という国の言葉の重要な構成要素である以上、僕はできる限りそれを残すべきだと思います。「漢語の論理」ももはや日本語から切り離せないくらい浸透していて、むしろ日本語が「吸収した」というべきなのではないでしょうか。また、表意文字である漢字の理解(特に幼少期の学習)に、対応する和語のイメージが貢献しているとも考えられるのでは。
 対症療法的で細かいかもしれませんが、こういった方法でかなりのレベルまで対応でき、かつ漢字のもつニュアンスと日本語的ニュアンスの両立も可能なのでは。そして、それこそが日本語なのではないでしょうか。また、細かいといっても、実行するにも結局最初は自覚を持った各人が言葉を連ねる時に「気を配る」ことで行なわれることは同じでしょうし、一度受け入れられた表現の形は習慣の名のもとに定着し用いられることになるでしょう。
 少数派の黙殺を是認するわけでもありませんし、「ここの不便はどうにかならないだろうか」という議論を否定などしません。ただ、「漢語の論理」は今や日本語と密接な関係にあり、和語の漢字表記が表現の幅を広げている点も無視できない以上、この理論は若干急進的すぎるのではないか、と。そういう考えで、長々とコメントさせていただきました。

hituzinosanpohituzinosanpo 2008/06/28 21:30 「行った」という過去形の はなしです。

漢語の論理をのこすのは、漢字語(字音語、音よみ漢字のこと)だけで いいと おもっていたし、それは ほかのひとにも同意されるだろうと おもっていたので、すこし意外な気もちです。

ですが、和語を かなで かくことについては、すでにコメントに かいたように「賛否両論あって当然だと おもいます」。

いくつかの提案すべてに賛同していただけなくても、すこしでも共感していただけたなら、うれしく おもいます。だって、「イチかゼロか」では ないのですから。

一部をみて全体を否定しようとするのではなく、これについては同意できる、この点には同意できないというled1968さんのコメントは、とても うれしく感じました。

ただ、「急進的すぎるのではないか」という ご指摘には、この議論は何十年もまえから つづいているということを おつたえしたいです。

鈴木康之(すずき・やすゆき)さんが編著者の『国語国字問題の理論』という本を いま、ひらいてみました。1977年の本です。

同字異訓の問題として、つぎのような例があげられています。

汚す(けがす・よごす)、汚れる(けがれる・よごれる)、下す(くだす・おろす)、懐く(いだく・なつく)、貴ぶ(たっとぶ・とうとぶ)、支える(ささえる・つかえる)、治る(おさまる・なおる)、食う(くう・くらう)、生す(いかす・はやす)、盛る(もる・さかる)、尊ぶ(たっとぶ・とうとぶ)、怒る(いかる・おこる)、透かす(すかす・とおす)、得る(える・うる)、入る(いる・はいる)、被る(こうむる・かぶる)、揺る(ゆる・ゆする・ゆさぶる・ゆすぶる)、冷やす(ひやす・さます)…以下省略…(38-39ページ)。

以上の例も、ふりがなで解決できると おっしゃるかもしれません。それでも、とりあえず かまいません。ここでは、こういった議論が何十年もまえから あるということだけ、ご理解ください。

ちなみに、朝鮮語では「訓よみ」に あたるものは ありません。ですが、石油というのを「イシのセキ」「アブラのユ」と会話で表現することが あります。朝鮮語では「石」と かいて「トル(固有語)」と よむことは なく、漢字語として「ソク」と よみます。

で、石という漢字について会話で はなすときは、「トル ソク チャ(イシのセキの字)」と いいます。自分の なまえの漢字を説明するときなどに、このように いいます。これが日常会話で 説明できるのは、こどものころ学習したからです。

日本語の漢字の理解を たすけるのであっても、「いしの せき」といった方法で学習すれば、すむことだと おもいます。

野嵜健秀野嵜健秀 2008/06/30 03:52 漢字單體なら讀みが確定しない事はあるけれども、熟語になつてゐれば讀みは確定するし、文脈から判斷すれば大體讀み方は決められる。ならば、例へば電子テキストはソフトウェアの改良で讀上げは可能になる筈。
もちろんそれで全部解決する訣でもないだらうけれども、言語の改造で何とかするより、言語はそのまゝそつとしておいて、問題があれば技術で何とかする、と云ふ風にした方が良いと思ふ。

言語の改造についてはいろいろなやり方が提案される筈で、さうなると間違ひなく言語は混亂する。それでは困るので、言語それ自體を弄らないで混亂を最小限に留めるべきだ。

もちろん、國字改革が實施されてしまつて、今の日本語は既に破壞されてしまつてをり、今さら何うにもならない訣だけれども。


あと、和語とか漢語とかで文字を書き分けるのは無理。
「錢」は、訓みが「ぜに」だけれども、これ、實は音讀みが出自だとか云ふ話。
それに、音讀み・訓讀みと云ふ事だつて知識で、さういつた知識が無ければ書き分けが出來ないと云ふのは、人によつては「無茶な要求」になりうる。
「漢字を使はないから簡單」な筈のローマ字表記やカナ文字表記、いづれも分かち書きが必須だけれども、分かち書きをするには文法の知識が必要になる。
知識がない人にとつて無茶な要求でしかない事を、自分基準で「簡單」と言つてのけてしまつてゐる事はないだらうか。案外「文法知識を要求する」事に無頓着な「良く知つてゐる人」が多い氣がする。

野嵜健秀野嵜健秀 2008/06/30 04:07 それから、日本語の場合、「用言の語幹と體言」と「用言の活用語尾と助詞・助動詞」とで、明確に語の性質が異ります。前者は概念を示して、漢字で書く事があります。けれども、後者は文法的な機能を持ち、漢字で書きません。
その爲、日本語では大體、漢字とかなとが交互に出現し、結果として、分かち書きをする必要がありません。

「和語はかなで書く」と云ふ「決り」を作つた場合、「用言の語幹と體言」がかなとなる場合が生じ、「用言の語幹と體言」と「用言の活用語尾と助詞・助動詞」とで漢字とかなを遣ひ分ける、と云ふ從來の原則が破壞されます。


漢字制限を主張する人――かな書きの擴大を主張する人が無頓着だと思はれるのは、從來、助詞や助動詞、或は用言の活用語尾が、特にかなで書かれてゐた、と云ふ事を無視して、それ以外の概念自體を示す語についてもかな書きにしてしまへ、と安易に主張してしまふ事です。
「或種の原理に基いてかなで書くべき語があつた」と云ふ事を無視して、他の原理を導入してかな書きの語を増やさうとする、それは、既存のかな書きの語の存在を埋没させる事に繋がります。

結構てにをはは重要な語だと思ふのですが、野村氏、白石氏とも、さつぱり意識してゐません。だからてにをは以外の語を、安易にかな書きしてしまはうと言ふ訣です。
高島氏もその邊、何うも安易な考へをしてゐるやうに思ひます。

hituzinosanpohituzinosanpo 2008/06/30 05:08 結局のところ、日本語表記の方法と いいますか、ありかたは複数でありつづけるでしょう。かなづかいでさえ複数なのですし。点字は表音式だし、漢字かなまじり文は、現代かなづかいと旧かなづかいが共存していますよね。

ちなみに、すでに電子テキストは機械で よみとることが できるわけです。基本的には。制度の問題をおくとすれば。で、原理的に技術で解決できないのが人名などの固有名詞だということです。こればっかりは、どこかで指定しないと いけない。固有名詞のよみを登録しておいて、「よみかたを表示する」というボタンをおさないと表示されないという技術は可能でしょうけれども、わざわざ そんなことをしなくても、最初から漢字と よみかたをあわせて表記すれば いいと おもうんですね。

その意味で、http://snob.s1.xrea.com/l/ このブログは すばらしいと おもうわけです。

「和語とか漢語とかで文字を書き分けるのは無理」というのは、こまかいところでは そうです。うめ(梅)や うま(馬)が字音語(音よみ)だと いわれても、そうなの?って なりますよね。だから、なるべくで いいと おもっています。

わかちがきだって、それを規則で、まもるべきルールになってしまえば、敷居が たかくなります。もちろん。

けど、わかちがきは、句読点と同様に、よみやすくするための「補助的なもの」として とらえられるなら、イチかゼロかで発想するとか、絶対的なルールだと とらえることには ならないでしょう。

わかちがきされたほうが よみやすいというひとは、すでに いるんですね。だから、そうしたひとには「べたがき」の漢字まじり文を機械で わかちがきされた文章に変換できるように すればいい。いまの問題は、そうしたニーズが認識されていないことです。

技術は、なかなか すごいもので、漢字のすくない文章を、漢字をたくさんつかう文章に変換することも可能でしょう。もちろん、誤変換がないように、確実なものだけに とどめておかないと、逆に誤変換ばかりで よみづらくなるかもしれませんけどね。まあ、たまたまアクセントが おなじ漢字で表記されれば、誤変換でも すんなり よめるわけですけども。


ともかく、わたしは いろいろと模索していくつもりです。そして、提案もします。それは、これまで つづいてきた議論をやめないためです。そして、議論なのですから、賛否両論あるはずです。

ある種の原理というものは、時代によって変化していくものだと おもいます。一部のひとだけが よみかきするのか。そうではないのか。よみかき能力を前提にするのか、そうではないのか。

わたしは、文字をよめないひとも文字情報にアクセスできるようにするのを目標にそえています。

それは文字情報サービスによって実現できることです。だれだって糖尿病などで失明する可能性をもっています。で、そうなったとしても、文字情報に接したいというニーズは当然のこります。また、その権利があります。わたしは、「均質な文字社会という神話」という論文で「識字率から読書権へ」ということをかきました。

それには、よみかき能力を「もつべきもの」「もっているはずのもの」として想定してはならない、ということが念頭にあります。「従来の原則」に こだわってしまうと、理念としても、識字率をあげればいいということに なってしまいそうな気がします。もちろん、これと それとは別のはなしです。

野嵜(のざき)さんが、これ(表記の問題)と それ(読書権の保障問題)とは別のはなしとして、文字がよめなくても文字情報にアクセスする権利の必要性をみとめてくださるなら、ものすごく こころづよく感じます。

iwamaniwaman 2008/06/30 11:06 > hituzinosanpo 2008/06/28 17:51
> 「「取る、撮る、採る、捕る」。これらの異なるニュアンス」というのは、漢語(いわゆる中国語)からみて「異なるニュアンス」なのです。日本語としては、全部「とる」です。それを、漢語の論理で かきわけているだけなのです。

これらは既に「中国語」ではなく「日本語」である、といふのが元の記事の主張です。「漢字廃止論にたいする反論への反論」とか言はれてゐますが、これでは「反論」ではなくて、「反論」にかこつけて自分の意見を主張してゐるだけです。

hituzinosanpohituzinosanpo 2008/06/30 12:48 iwamanさん、そのとおりです(笑)。かきながら苦笑してました。なんだかなあと。

「反論にかこつけて自分の意見を主張している」というのも、そのとおりです(笑)。今回、教訓になったのは訓よみを批判するのは、なかなか むずかしいということでした。

いろいろ、かんがえてみます。

heitotsuheitotsu 2008/07/01 14:58 訓読みを使はないやうにしようと云ふ意見なのかな。かな。
漢字の訓読みには、其の漢字の字義を知る手掛りを得ると云ふ効果もあります。詰り、和語の意味と漢字の意味とを連関させる役割をも字訓は担つてゐる事になります。ですが、此方の主張では、和語はかな書き、字音語は漢字表記可らしいので、漢字の字訓を手掛りにした字義の類推が不可能となります。
又、一口に字音語と言つても、漢字の字音には漢音や呉音の外、唐宋音や慣用音や北京語を輸入した字音もあるやうな状況です。少くとも日本では、字訓を使用しないとしても、漢字の読み方が一定になる事はあり得ません。
御自身の信念を持つて字訓不使用文を実践なされるのは兎や角言ひませんが、日本語表記の実績を無視して第三者に此のやうな事を推奨するのは如何なものかと。

hituzinosanpohituzinosanpo 2008/07/01 22:17 「漢字の訓読みには、其の漢字の字義を知る手掛りを得ると云ふ効果もあります」というのは、鈴木孝夫(すずき・たかお)さんだとか、森岡健二(もりおか・けんじ)さんだとか、まさに いろんなひとが主張してきたことです。漢字と名のつく本を あつめまくっている わたしとしては、そういう意見があることは まえから承知しています。

「漢字の字訓を手掛りにした字義の類推」が機能しない漢字がたくさんあるというのは、すでに野村雅昭(のむら・まさあき)さんや山田尚勇(やまだ・ひさお)さんが指摘されています。

日本語を よみかきするさいに、たしかに訓よみの知識をもとに、意味を類推することは あります。で、問題なのは そういう漢字というのは、どれほどまでに一般的な漢字なのでしょうか。つまり、類推しないと わからないというのは、すでに むずかしすぎる漢語表現なのではないでしょうか。

こどもの はなしを いうならば、こどもは、まず日本語を「はなしことば」として身につけています。そして、その知識を土台にして、日本語の よみかきを学習するわけです。日本手話を第一言語とする ろう者を のぞけば。

はなしことばの知識に もとづいて、ことばに漢字を あてはめていくわけですよね。そして、それまで しらなかった ことばも、文字を学習するさいに、いっしょに学習するようになります。そのあたりから、よみかきの学習の障壁が、ぐんと たかくなるわけですね。つまり、そこから どんどん学力に差が でるようになる。はなしことばで つかう表現だけを文字にするわけではないので、かきことばというのは、そもそも むずかしいものです。

文字のよみかきは むずかしいものだということは、すでに わたしも「識字運動をかんがえる」「識字と人権」「均質な文字社会という神話-識字率から読書権へ」という論文で指摘しています。

本末転倒な はなしですが、「よみが わかれば意味が わかる」のに、よみかたが わからないせいで、それが なんという字なのか わからないという問題が でてきます。

もし、和語を漢字で表記することで、わかりやすくなるばかりというなら、すばらしい表記方法だと おもいます。ですが、そうではないのが現実なのです。

おくりがなの問題、ありふれた日常語であるのに よめない場合が生じてしまうという問題、ある単語を表記するのに、いくとおりにも表記できてしまうという「表記のゆれ」の問題。

これは、結局のところ日本語をよみかきするハードルを たかめてしまっているように おもいます。

鈴木孝夫(すずき・たかお)さんが いうような、「漢字のわかりやすさ」というのは、ある程度 ハードルを のりこえることが できたひとにだけ いえることなのです。

そもそも漢字文化というのは権威的なもので、わかりやすくとか、日常的に つかう表現を重視するとか、そういった理念に もとづく世界では ありません。たとえば「兎や角」を、すんなり「とやかく」と よめるひとが、どれほど いるでしょうか。

字音語にしたって、よみかたが たくさんあるというのは、そのとおりです。

だから、なにも しないのか。あるいは、「だから、やるんだよ」なのかということです。わたしは「だから、やるんだよ」と主張するわけです。

heitotsuheitotsu 2008/07/03 19:51 色々と書いて頂きましたが、論点がぼやけてしまふので、絞つて返事します。
「まえから承知しています」と訓読みの効能に附いて御納得されてお出でで安心しました。又「機能しない漢字がたくさんある」と云ふ認識は程度の問題で、私が主張する字訓を使はない文章では100%全く機能が発揮できないと云ふ主張を否定する迄には至りません。残念ですが。
後は様々な自論を並べ立てて、「日本語をよみかきするハードルを たかめてしまっているように おもいます」と結論附けてお出でですが、其れは私への反論にはなつてゐません。では、此のブログで言ふやうに、字訓を全く使用しない文章を書くやうにすればハードルが低くなるかと言へば、字訓からの意味の類推と云ふ手段が全く使へなくなる分ハードルは高くなると私は主張して置きます。
又、字音語の件も納得されてお出でなのは把握しました。
「わたしは「だから、やるんだよ」と主張するわけです」との事ですが、何か勘違ひしてゐませんか。漢字の字訓を使はないんですよね。だつたら「だから、やらないんだよ」と主張するのが筋でせう。嘘は言ひつこ無しですよ。

hituzinosanpohituzinosanpo 2008/07/04 12:20 「訓読みの効能に附いて御納得されてお出でで安心しました」って、「そういう主張があること」を承知してるってだけですよ。

和語を漢字でかくことの問題は、いろいろ指摘されていて、今度それを記事に まとめたいと おもいます。

何度も かきますが、和語を漢字で かくか、かなで かくかという問題は、いろんな意見があることは わかっています。議論が わかれることも わかります。議論は議論として、あっていいし、いろんなことが主張されれば いい。その議論をふまえて、それぞれが選択すれば いいことです。

だから、わたしは このコメント欄で、へいとつさんに納得していただこうとか、おもわないのですよ。だって、それこそ本1冊で論じるような内容でしょう? 和語を漢字でかくことの有効性とされるものと問題点を多角的に検証するのは、かんたんな議論ではないと おもいます。

和語は かなで かくんだといえば、「だから、やるんだよ」だし、「漢字の字訓を使わない」なら、「だから、やらないんだよ」になります。その程度のことで「勘違い」や「嘘」だなんだってのは、やめましょうよ。表記の改善をやるんだってことです。

ちなみに「だから、やるんだよ」は映画評論家の町山智浩(まちやま・ともひろ)さんの「でも、やるんだよ」をマネしたものです。
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060304
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060304

ともかくを「兎や角」と表記することで、なにが わかりやすくなるのか、わたしには わからない。「字訓からの意味の類推」という効能があるから、和語を漢字で かくんだと主張するならば、「兎や角」のような表記は さけるほうが いいように おもいます。うさぎ? つの? かど?が、「とやかく」という ことばを理解するのに効能があるとは いえません。

不毛不毛 2008/07/04 14:40 しばらく眺めてるだけでしたが、羊の散歩さんの「表記の改善をやるんだってことです」の主張は理解しましたが、賛成はできません。
新しい言葉が生まれないじゃないですか、漢字で書いて初めて理解できる言葉の方が多いんですから、訓読みの漢字表記禁止なんてしたら、羊の散歩さんが2年暮らしておられた国の言葉のように文脈からでしか単語の意味が分からなくなりますからね。
「兎角」を”とかく”と読むんだと知ったときは正直感動しましたし、一つ賢くなったような気がしたものです。
”ら抜き言葉”が問題になって久しいですが、最近では容認する方向になってきてますね、私自身は”ら抜き言葉”を否定しません、それで十分意味が通じるのですから。
言葉は流動的であるべきと考えております。

hituzinosanpohituzinosanpo 2008/07/04 16:28 禁止とか いってませんしー(笑)。

「文脈からでしか単語の意味が分からなくなります」? 不毛さんはハングル表記の朝鮮語の文章を よんで、そういうふうに感じますか? わたしは韓国の本をよむとき、特別そんなふうに感じることは ありません。

漢字表記の日本語を読んでいるときにしたって、何人が「なんにん」なのか「なにじん」なのか、文脈をみなければ わかりませんよね。

しかも、語用論の立場からすれば、単語の意味をきめるのは文脈だということは、はっきりしています。意味をきめるのは、話し手と聞き手、書き手と読み手の相互作用です。
http://books.livedoor.com/item4327401188.html

とかく、ともかく、とにかくは「漢字で書いて初めて理解できる言葉」ですか? そうではないですよね。そして、そうではないのに「「兎角」を”とかく”と読むんだと知ったとき」に「感動」したり、「賢くなったような気が」するのは、たんに漢字に魅力を感じているだけのことで、理解しやすさとは関係がないでしょう。

この記事のような ちょっとした提案をよんだだけで「訓読みの漢字表記禁止なんてしたら…」と想像力が ふくらませるのは飛躍しすぎだと おもいます。わたしは大統領ですか?

「議論は議論として あっていい」と、わたしは くりかえしています。そして、不毛さんも「主張は理解しましたが、賛成はできません」と おっしゃっている。それなら、それで いいはずで、わたしが「禁止」することや、流動的ではなく固定的であるべきだと主張しているかのように印象を ねじまげられると、こまってしまいます。

こまりますけど、「そういうことをいうな」と いいたいのではありません(笑)。そういう議論も あっていいと おもうからです。悪意は感じられないですし。でも、反論も してもいいはずです(笑)。「禁止」なんて主張していないと。

6月27日のコメントで「使いたい人が使いたい言葉を使えばいい」と おっしゃいました。

それって、すごく だいじだと おもっています。わたしは和語を かなで かくことに魅力を感じる(余地のある)ひとにむけて提案しています。 同意できない ひとには、わたしは無力です。当然のことでしょう。

何度も くりかえしますが、漢字まじりの日本語をよみかきできる多数派は、さまざまな少数派に漢字を「おしつけている」のです。その現実を ふまえてこそ、「使いたい人が使いたい言葉を使えばいい」と主張できるのでは ないでしょうか。

不毛不毛 2008/07/04 16:55 言葉足らずでしたな。「訓読みの漢字表記禁止なんてしたら…」はかりにそうなったらのはなし、さらに「文脈からでしか単語の意味が分からなくなります」は同音異義語のことを言ったつもり、確かに同じ漢字で読みが違うときは文脈からしか判断できません、口頭だとなんの違和感もないですよ。
僕は日本語が好きだし、いろんな造語を楽しめるから、あえて取り決めつることはないと思ってるだけよ。
さまざまな少数派って何かな。押しつけってどういうことかな。

hituzinosanpohituzinosanpo 2008/07/04 19:13 「かりにそうなったら」というのは わかりますけども、そうなる可能性を 感じていらっしゃるわけですか? それなら いいのですが、もし「そうなるはずはない」と確信していらっしゃるのに、そういうことを おっしゃるのであれば、わたしの主張を否定するための ダシに つかっているだけのように感じてしまうということです。

さまざまな少数派の一例は、記事の最後で紹介した「ワープロと視覚障害者」や、徳田克巳(とくだ・かつみ)『弱視児の漢字読み書き能力-その心理学的研究』や「弱視者の漢字指導実践例」
http://tenji-sien.net/kanji/jakusisidou.htm

野元弘幸(のもと・ひろゆき)「多文化社会における教養の再構築-外国人住民の非識字問題を中心に」『教育学研究』66(4)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110001176008/

などを ごらんください。一番いいのは、わたしの「漢字という障害」ましこ編『ことば/権力/差別』三元社を よんでいただくことです(笑)。

日本社会では「漢字かなまじり文」を よみかきできることが当然視されているがゆえに、漢字が苦手であろうとも、一般的な日本語表記に適応するよう「おしつけられている」ということです。

不毛不毛 2008/07/06 15:06 結局のところ最大公約数的な表現方法にしろと言うことですな、わかりました。しかしながら、音読みも訓読みも日本語であって、中国語でもなければ韓国語でもないんですよ、訓読みにこだわってらっしゃる用ですが、同じ日本語として音読みにも同じことがいえますな。
文字弱者だけが障害者ではなく、文字の読めない人にとっては訓読みの方が耳に入ったときにわかりやすいんですよ。「多文化社会における教養の再構築-外国人住民の非識字問題」なんてのは私にとってはどうでもいいことで、日本語は日本の文化がし、そこで生活するのに最低限勉強するのが当たり前だと思う。日本人も英会話で苦労するのと同じことであって、日本人がいちいちアメリカやイギリスに対して、発音が難しいからかんたんにしろといっているのと同じ様なこと、そんなようなことを言う日本人はいないと思うが。
傲慢なご提案ありがとうございました。

hituzinosanpohituzinosanpo 2008/07/06 15:55 「文字の読めない人にとっては訓読みの方が耳に入ったときにわかりやすいんですよ」というのは、どういう意味ですか?

和語を かなで表記するというのは、「和語(訓読語)を つかわない」という意味では ありませんよね。だから、「訓読みの方が耳に入ったときにわかりやすいんですよ」というのは、そのとおりだとしか反応できません。

訓よみというのは、和語を 漢字で表記したものを いいます。和語は、漢字で表記しようと、かなで表記しようと、音は おなじです。だから、不毛さんのご意見は、誤解に もとづいていると おもいます。

何度も訂正したとおり、「訓よみ漢字は なるべく つかわない」というのは、音よみの単語ばかりを使用するという意味ではありません。たんに、和語は漢字ではなく、かなで表記するという意味です。

わたしの提案が「傲慢」であるという意見は うけいれることが できます。「みんなに、表現方法まで押しつける」主張ではないことが ご理解いただけたようで、うれしく おもいます。

ちなみに、わたしが とくに こだわりたいのは、固有名詞の漢字の問題です。固有名詞の漢字には、よみかたを そえようというのが いちばん主張していきたいことです。

もちろん、和語を漢字で表記する訓よみの問題も、これからも指摘していくつもりですが、まず第一には、固有名詞の漢字の問題に とりくんでいきたいと おもっています。

hisabohhisaboh 2008/07/08 13:30 古典を普通に読めなくなってしまった文化断絶をどう思いますか?古来からの文書を新聞や近代小説を読むように普通に読みこなすことができたら、どう世界が違っていたか興味があります。

hituzinosanpohituzinosanpo 2008/07/08 13:43 必要があれば翻訳すれば よいと おもっています。結局のところ、個々人が古典や近代小説を「そのままで」原文のまま よめなくてはならないというのでは、よみかきを自己責任にしてしまいます。

文化は、その時代の空気のなかで いきづいています。その時代を はなれれば断絶してしまうのは、しかたのないことです。文脈を共有していないのですから。

たとえば、「カストリ雑誌」と きいて、ぱっと わかるひとが、いま どれだけいるでしょうか。これなどは、べつに「表記のありかた」とは関係のないはなしです。

tettou77-1tettou77-1 2009/11/28 23:32 エントリに感銘を受けたのでコメントします。

僕は今浸っているこの漢字かな交じり文にあまり疑問を感じたことが無かったのですが、これをたたき台に色々と考えてみようと思いました。
今のところ、漢字が読めなくても情報を得られるようにした方がいいという意見には賛成です。
でも漢字をなくすとかよりも、日本語も英語も標準の言葉にしてしまって自然淘汰で日本語が消えていく、という展開になればいいなと思います。
そうなると僕は英語が苦手なので情報弱者になってしまうかもしれませんがw

それと、反対派の意見を眺めて思ったことを一言。
漢字は大切だと言ったり頑固に重要性を語る人の中には、単に今まで会得するために要した苦労を否定されたくないだけ、という人が居る気がします。
絶対にこうだ!と思い込む前に、まず自分自身を根っこから(メタな視点で)疑ってみて欲しいですね。その上で言っている意見は重みがあります。
まぁ、あまり難しく考えると言える意見も言えなってしまうかもしれませんが。

hituzinosanpohituzinosanpo 2009/11/29 13:01 id:tettou77-1さん、ありがとうございます。「自然淘汰で日本語が消えていく」というのには同意しませんが、ともかく「これをたたき台に色々と考えてみようと思いました」とのこと、うれしいです。

そうですね。まず おもいこみを うたがってみるという作業が だいじだと おもいます。あたらしく記事を かきましたので、ごらんください。

「日本語表記と共存について(結論だけでなく、プロセスも たいせつ)。」
http://d.hatena.ne.jp/hituzinosanpo/20091129/1259466387

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カテゴリー [ 社会 , 料理 , 映画 , ことば , コミュニケーション ]

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