吃音は「きつおん」、吃るは「どもる」と よみます。
リンク先の文章を、ぜひ よんでください。はなしは それからです。
参考になる本
- 伊藤伸二(いとう・しんじ)1977年『吃音者宣言―言友会運動十年』
- 伊藤伸二 1999年『新・吃音者宣言』
- 伊藤伸二『知っていますか?どもりと向きあう一問一答』
- 伊藤伸二(いとう・しんじ)編著 1999年『吃音と上手につきあうための吃音相談室』
- 水町俊郎(みずまち・としろう)/伊藤伸二 編 2005年『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』
- 藤樹拓也(ふじき・たつや)2002年『吃音! 吃音者のどこが悪い?』
このなかから、『新・吃音者宣言』を紹介しておく。伊藤さんは、「《どもり》を死語にしたくない」という。
(177-178ページ)。
どもりに悩む人が吃るのと、あわてたら誰でもつっかえますよとは本質的に違う。それを、誰でも吃りますよと表現されることがある。また、子どもにどもりを意識させたくないからと、「吃る」と言わずに「つっかえる」「つまる」としか言わない人もいる。
一般社会は違和感をもつものと向き合ったとき、どうするのだろうか。排除する、拒否するということもあるが、受け入れようともする。しかし、その多くは、そのままを受け入れるのではなく、自分が受け入れやすいようなものに融和させて受け止めようとするのではないか。
「つっかえる」「つまる」「あわてて言うと吃る」と表現すると、誰にでもある現象だと言うことができる。これは、多数者が少数者を引き上げようとしているとも考えられる。そこには優劣の関係が現れ、対等の関係は消えてしまう。
差別用語を使わないようにするということも、優った者の側の言うことだ。これは配慮であったり、善意から出ていたりすることだけに表立っては反論がしにくい。多数者の側に融和させようとする動きを、どもりを差別語として使わないでおこうという風潮の中に感じてしまうのだ。
どもりということばがなくなり、吃音としか使えなくなると、これまでの自分が否定されたような思いになる。単に「ことばのつまり」「つっかえ」ではないこの状態をどう表現すればいいのか。自分がこれまで悩み、もがいてきたことを簡単にことばの言い換えでは済ませたくないのだ
なんとも示唆的で、かんがえさせられる文章だ。わたしも、適切な表現を模索することがある。同時に、一般的には否定的に意味づけられ、あまり つかわれなくなった表現を連発することもある。たとえば、わたしにとって「フチ族」といった表現は、つかいたくない不適切な表現だ(「ぞく(族)と よびつづけるかぎり」をみてください)。だが、「朝鮮」という日本語は、それが適切な場面には、よく つかっている。
どもりは あまり つかう機会があまりない。つかう機会を、わたしが つくっていないということもある。ふがいない。
不適切な表現をいいかえるのは、たしかに「多数者が少数者を引き上げようとしているとも考えられる」だろう。けれども、多数派が あたりまえだと おもっていることを、ゆるがしてみるという効果も期待できるのではないだろうか。そのような意図による「いいかえ」も、一方ではあるのではないだろうか。
もちろん、わたしが むかし かいたように、「不適切に いいかえろ」という戦略もある。
あえて「不適切に いいかえてみる」のも、おもしろいでしょう。意味あることでしょう。
ことばは適切な表現をつかったほうが よいと、わたしは おもっています。けれども、「うつくしい ことば」によって「その性質」のありようが おおいかくされている、ということも、けっこう あるんではないでしょうか。それはまた、べつの問題として あるような気がします。
いいように ごまかされてないか?
そんなふうに感じたとき、不適切に いいかえてみろ。
ちなみに、わたしが文字表記の研究をしているのは、自分の声や「かつぜつ」がコンプレックスだったということも背景にあるのです。チャットに はまったのも、はなさなくて よかったからです。最近は気にしていません。
けど、そうそう。語学に はまったのは、あきらかに「かつぜつコンプレックス」が背景にありましたね。日本語の会話なら わらわれるけど、ほかの ことばだと「発音が いい」とか ほめられるんですから! そのへんは、ちゃんとした文章に そのうち まとめたい。
ちなみに、吃音についての研究論文は渡辺克典(わたなべ・かつのり)さんのものが すばらしいです。おすすめです。なお、『社会言語学』7号には渡辺さんによる「「吃音者宣言」の歴史的背景と位置づけ」が掲載されています。ぜひ ご注文のうえ、ごらんください。
ちなみに、伊藤伸二『どもる君へ いま伝えたいこと』という本が、もうすぐでるらしい。