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あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

ことばの平等を めざして。

 問題を 解決するのは、「なにか」が 幻想であると指摘することでは ない。なんであれ、それが 幻想だと指摘し、固定観念を ひっくりかえすことは、ほんのスタートラインに すぎないのであって、たいせつなのは そのあとの議論である。


 「日本語」の 名のもとに、なにが おこなわれているのかという、社会の現実に 問題があるのだ。たくさんの ことばたちを たばねて、「ひとつの言語」に まとめあげてしまうもの。それが 言語を 支配するということだ。言語支配とは、たくさんの ことばたちを 一定の ワクに おさめようとすることだ(規範を 支配する)。そして、たくさんの ことばたちの 平等を みとめず、「ひとつの ことば」に 特権を あたえ、コミュニケーションを 支配することである(言語権を 独占する)。


問題は、多数派に属する言語使用者と少数派に属する言語使用者のあいだの不平等が当然視され、つねに少数派だけあゆみよりを強いる構造、さらに、その不平等を温存するような言語使用のありかたや構造であり、それが無自覚に再生産されているという点である。
(209ページ)


 ことばは、おもいどおりには ならない。ひとの いうことが わからず、さみしい おもいを する。ことばは、ひとと ひとを つなぐものでありながら、同時に、ひとを わかつものである。生活に ひかりを てらすものでありながら、生活に障害を もたらすものでも ある。


 それは ことばの本質というよりは、わたしたちが 直面している関係の ありかたが、不平等な状態にあることによるものだ。社会の多数派が、少数派に 不平等を おしつけているのだ。
 ことばは、かけがないのない わたしのものでありながら、ひとと わかちあうものでも ある。オトを わかちあい、意味を わかちあうことが なければ、わたしたちは つうじあえない。


 ことばに 平等を!


 ことばに 平等を もとめるなら、つうじあう ひとたちの あいだでは、つうじあう 「わたしの ことば」を つかうこと。そして、つうじあわない ひととは、だれの ことばでもない ことばを つかうこと。


 だれの ことばでもない ことばとは なにか。


 民族の ことばでも なければ、権力の ことばでもない ことば。それが エスペラントだ。


 いまのところ、エスペラントは…中略…異言語の第一言語話者間のコミュニケーションを脱差別化することができる唯一の手段、すなわち「平等化機能」をもつ唯一の言語である。したがって、エスペラントは「国際的」コミュニケーションにおいて言語差別的状況が発生することを抑制する手段となるのみならず、エスペラントが平等化機能をもつことをしってエスペラントを使用する行為じたいが、必然的に反差別・平等主義の実践となるのである。
(127ページ)


 ここまでは、音声言語についての議論だった。つぎに とりあげる必要があるのは、手話言語を めぐる問題だろう。そして、言語を コミュニケーションの手段として もたない ひとたちを とりまく社会環境の問題を あげることが できる。その点については、つぎの文章を よんでください。

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