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『認知症と診断されたあなたへ』医学書院

 すこしまえに よんだ本ですが、いい本です。とはいっても まだ半分しか よんでいませんが。


 この本を つくった背景を、おざわさんは つぎのように解説しています。


 この本は、共編者の黒川さんが教えておられる学生さんが、ゼミで「認知症に関する本には、啓蒙書もあり、専門家向け、ケアスタッフ向け、家族向けのものもあるのに、なぜご本人に向けた本がないのですか」と問われたことから計画されました。
 おざわさんは、「たしかに、誰よりも不安で、悩み苦しんでおられるに違いない方に向けた本が、これまではなかった」、「認知症と診断された方に、まず読んでいただくような本も必要なのでは、と考えました」としています(7ページ)。この本は「認知症をかかえるあなたの、日常生活に役立つガイドブックを目指している」ということです(8ページ)。


 たいせつだと おもわれる点を、いくつかご紹介しておきます。まず、認知症の種類です。


 代表的なものは、アルツハイマー病と脳血管性認知症です。アルツハイマー病は、徐々に脳の神経が脱落していく脳の病気(これを「変性疾患」といいます)ですが、原因はまだ分かっていません。変性疾患には、ほかにもレビー小体病、ピック病などがあります。
 一方、脳血管性認知症は脳の血管が詰まったり(梗塞(こうそく))、破れたりして(出血)、結果的には、その血管が酸素や栄養を送っていた脳に損傷が及び、認知症になる病気ですから、元々は血管の病気です。ですから、梗塞や出血が起きないようにするのが、今後、認知症を深めないためにするために必要なことです。
(19ページ)


 この本は、たくさんの質問に こたえるという形式をとっています。たとえば、「認知症は、めずらしい特別な病気なのでしょうか?」という質問に、つぎのように こたえています。


 そうではありません。ごくありふれた病気です。…中略…60歳代では1パーセント程度ですが、80歳代以降では4~5人に1人が認知症をかかえているのです。
 それでも、特別な病気という見方がはびこっているのは、今の世の中では、地位の高い人、できる人、お金持ち、社会の枠組みのなかで完璧に役割を果たす人……ばかりが評価され、さまざまな理由があって、そうはいかない人は疎まれるという風潮が行きわたっているからでしょう。このような社会では、生きることも、老いることもむずかしいと思います。
(20ページ)


 「頭を使わず、怠けていたせいで認知症になったのでしょうか?」という質問には、つぎのように こたえています。


 とんでもない。決して、そんなことはありません。
 認知症というのは病名ではなく、熱がある、咳が出る、痰がからむ、「しんどい」などと同じ、症状レベルの名称です。記憶障害(もの忘れですね)、見当識障害(けんとうしきしょうがい)(時間、場所、人についての認識がうまくいかない)、抽象的思考の障害(言葉や数などを使いこなすことがむずかしい)などの症状を集合して命名したものですから、症状群というのが正確なのですが。
(21ページ)


 ほかにも、「将来、どうなってしまうのか心配です。」という質問もあるのですが、その こたえのなかに、印象的なフレーズがありました。それは、「人は病い一般を生きるわけではありません」という ことばです(25ページ)。


 これまでの あゆみ、いまの生活や環境、いまの あなた。すべてのものを とりさったところに、あなたは いないのです。すべてを とりさったところに「認知症」という ひとつの症状があるのではないのです。それぞれ個別で、ひとそれぞれに、認知症を いきているのです。認知症という おおきなものを わかろうとしても、それは むずかしいことでしょう。けれども、認知症を かかえて いきる あなたのことなら、どうでしょう。



 たいせつな あなた。これまで たくさんの思い出を つくってきた あなた。けんかもした。だきあいもした。ありがとうをいった。たくさんの時間を ともにしてきた。そんな あなたのことなら、どうでしょうか。


 あのときの あなたとは、ちがっているかもしれません。けれども、あなたは あなたなのです。それを いえるのは、あなたが たいせつな ひとだからです。



 わたしたちに、なにが いえるのでしょうか。わたしたちは、どのような ことばを もちあわせているでしょうか。『認知症と診断されたあなたへ』、なにが いえるでしょうか。


 22ページには、「認知症をもたらす疾患の違いさえ明確にしない予防論がはやっていて、苦々しい限りです」とあります。


 いったい認知症を 予防するとは、医学的にではなく、社会的な意味で、どういうことなのでしょうか。


 老人になって、自分も ぼけるかもしれない。だから ぼけ予防に、これを がんばっとるんじゃー。そんなことを きいたとき、わたしは ほほえましく感じます。それもひとつの人生の花だからです。そうやって人生を たのしんでおられるからです。


 ですが、それを うえから、社会の側が要求するようになっては、おそろしいと おもうのです。いかがわしいと おもうのです。だってそれは『認知症と診断されたあなたへ』おくる ことばを、わたしたちが なにも もちあわせていないということに、ほかならないからです。


 ひとは ぼけます。ぼけるんです。いろんな理由があって、ひとは ぼけていきます。それは、どうにもこうにも、さけようのないことです。いや、さける方法があるかもしれないじゃないか!という ひとは、おちついて かんがえなおしてみてください。『認知症と診断されたあなたへ』の ことばを。あなたに なにが いえるのかを。わたしたちに、なにが できるのかを。


 ケアというのは、その ひとのことが「気になる」。だから「気を くばる」ということから はじまるものだと おもいます。だからケアというものは、時間を かけて はぐくむものであるはずです。


 それならば。あなたに「気になる」ひとが いるならば。それならケアは みんなのものです。わたしたちが社会で共有しあうべきものです。ケアを、時間を かけて そだてていきましょう。


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