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あべ・やすしといいます。

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2009ねん 03がつ 14にち

差別について。

 差別。「差別はいけません」。「なくそう差別」。


 うーーん。どうなんでしょうね。ちょっと、小山エミ(こやま・えみ、macska)さんの解説を みてみましょう。

まず、一番大事なこと。わたしは「差別」という言葉で社会の諸制度や、それを含んだ社会システムのことを指す用法を取り、一般に「差別」と呼ばれる個別の行為や発言などは「差別的」と呼んで区別している。つまり、特定の人々に対して「不利益・不平等な扱いをすること」という行為のレベルではなく、特定の人々が「不利益・不平等な扱い」を受けるような社会のありかたを「差別」と呼び、個々の不平等な扱いは「差別的」もしくは「差別行為」として区別している。それは、「差別」とは主に社会のありかたの問題であり、個々の行為や発言などのことではないと考えているから。

 いやあ、すばらしい。そのとおりですよね。ちょっと中間の議論を とばして、つぎの部分を みていただきます。

わたしが「差別」を問題とするとき、それは偏見や先入観一般を問題としているわけではない。というより、偏見や先入観が動機となっているかどうかはこの際関係ない。社会的属性をもとに、社会構造と共鳴し循環するようなかたちで不平等な扱いをすることが「差別的」になるわけ。同じように蔑視したり不平等に扱っても、ある場合はちょっと気分を害するぐらいで済むのに、別の場合は社会生活すら困難になってしまうような、そういう社会構造のありかたこそが問題なのね。


さらに言うと、そうした社会構造上の問題がある限り、「差別行為」をしなければそれで済むという話でもない。本当に必要なのは、社会構造上の不均衡を強化するような「差別行為」を避けることではなく、本来自由であるべき「理不尽な扱い」がかくも多大なインパクトを持ってしまうような社会構造そのものを是正すること。差別行為をやめるということは、差別行為と社会制度の循環を断ち切るという点では意味のあることだと思うけれども、既に存在している社会制度そのものを変えていかなければ不十分だとしか言えない(とは言っても急には変えられないから、それまでの緊急避難的な対策としてアファーマティヴアクションみたいな考え方も出てくる)。

 小山さんは、「どこまでいっても個人の内面(もしくはその反映)の問題としてみなされがちな「差別」という問題を、社会構造の問題として扱う考え方をもっと多くの人に共有して欲しい」としています。


 これは、わたしも何度も くりかえし指摘してきたことでもあります。

 多数派が 身を おいている社会の構造というものは、自分たちだけは あたりまえのごとく配慮し、そして、「一部」(少数派)を つくりあげ、障害化し、そのうえで「特別な配慮」と称して ほどこすというものです。


 そして、うれしそうに 指摘するわけです。「それは逆差別だ」と。「ほとんどしない」、「めったに ない」、そして自分たちだけ「あたりまえのごとく配慮」してきたこと、そんなことを すべて すっかり わすれたうえで、名前の ない 多数派が、名前を もつ 少数派に、「特別な配慮」や「逆差別」を ねたんでみせるのです。ほんとうに、よくできた 手口です。


 多数派が いくら 少数派に 共感を よせたとしても、自分の おかれた社会の構造というものに自覚的にならなければ、なにも はじまらないのでは ないでしょうか。そして、多数派が 社会の ありかたを かえていくことなしに、少数派に「共感する」ことなど、できないことでは ないでしょうか。

―偏見なんてない?


 けどね。偏見なんてなくてもね。あたしたちは、「構造的差別」から のがれることは できないの。現実を かえていかないかぎりは、社会の構造が あなたの位置を きめてしまうの。それが現実というもの。


 しっかり うけとめて、つたえるべき ことばを、つたえるべき相手に ぶつけていきましょう。

 「障害者との接しかた」などというものはありません。ちがいが ある。だから とまどう。それだけのことです。問題は、ある種の「ちがい」を とおざけるように社会が設計されているということです。つまり、隔離による社会的排除です。構造的差別という視点を もたずにいたら、差別を 「意識の問題」に おしとどめてしまいます。

 さて。差別と いいますと、「○○は××だ」という「偏見に もとづく発言」が問題にされます。けれども、たいせつなのは、現実にある制度上の差別(構造的な差別)を 解消していくことです。もちろん、偏見は なくしていくべきです。けれども、意識や心の問題を 問うことで差別を解決できると おもってしまうならば、不平等な関係性が まったく みえなくなってしまいます。


 さて。それでは、つぎに やねごんさん(id:lever_building)の議論をみてみましょう。すばらしい記事なので、じっくり時間をかけて ごらんください。



 ここでは、やねごんさんの議論を おかりして、差別とはなんだろうということを、といなおしてみようと おもいます。この記事で やねごんさんは つぎのように かいています。

 それにしても どうして こういう さべつ主義者の みなさんは、さべつという 行為の せきにんを じぶんで ひきうけようとしないんだろう? 「わたしは排除したい」と いわずに、排除するのが 「人としておかしなことではない」なんて いいかたを する。


 jtwさんにしても そうですね。「日本国民大半の意識だと思うんだ」なんて マジョリティ集団に よりかからないと、さべつ ひとつ まんぞくに できないんですか?


 この、「マジョリティ集団に よりかからないと、さべつ ひとつ まんぞくに できないんですか?」というのは、かっこいいし、すてきなフレーズだと おもいます。けれども、どこか ひっかかるところがあります。


 もう おわかりかもしれません。つまり、ひとは「マジョリティ集団に よりかか」ることなしに だれかを 差別することはできるのだろうかということです。関係を 対等にしないかぎりは、平等を 実現しないかぎりは「朝鮮人が日本人を差別する」ことはできないということです。


 その意味で、つぎのような発言は くだらないのです。

id:munyuu これはひどい, ブサヨク で、何で朝鮮人は日本人をはじめとする外国人を差別しつづけるわけ? ブサヨク日本人が現実を全く見ていないことがよく判る。

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 人間の総体のなかから、なんらかの観点から ひとつの属性をつくる。カテゴリーを つくり、だれかを「やつら」と みなす。ここで、「われわれ」という集団意識が うまれます。そしてまた、「やつら」と みなされた側でも、ゆっくりと「われわれ」意識が めばえます(「われわれ」意識が めばえない場合もあります)。


 ここで、自分たちから「やつら」を 排除した側が 差別者です。国民国家における「外国人」差別も、このような図式によるものです。そしてそれは、やねごんさんが ていねいに説明されていることです。もう一度、やねごんさんの議論をみてましょう。

 かれらが 「国益」なるものを みいだすのは、ぎゃくに 「他国との 対立・敵対関係」を 強調することによってです。たとえば、「日本と 北朝鮮は 対立している」という ファンタジーを かれらは むじゃきにも しんじていたりします。あとで のべるように、国家どうしは たがいに その 存立の こんきょを あたえあうことで 共犯関係にあるのであって、「対立」ないし「敵対」しているように みえるのは、みかけ上のことに すぎません。


 重要なのは、「日本が ほかの ある くにと 敵対している」という ファンタジーを しんじてしまった ひとには、「こくみん」というのが あたかも 共通の「国益」を もつ ひとびとからなる 集団であるかのように みえてしまう、ということです。この順序を ぎゃくに りかいしては なりません。《「国益」を 共有する 「こくみん」の 集団が まず あって、それが 「国益」を 共有しない よその 「こくみん」と 敵対する》という 順序では ありません。そうではなくて、《まず、国家どうしの みかけ上の 敵対関係が 想定され、のちに 「かれらと 敵対する われわれ」という かたちで 「国益」を 共有する 「こくみん」が 想像される》のです。その いみで、「国益」という 観念は、戦争状態 もしくは それを ゆめみる いしきの 産物に ほかなりません。


 じつに、おっしゃるとおりだと おもいます。



 さて。さいごにひとつ。こころぐるしい はなしを。


 わかりやすい敵が めのまえにいるとき、どうにもこうにも、自分の正当性は あきらかであるように感じられます。ですが。


 たとえば、わたしは知的障害者の施設で しごとをしてます(「あたえることには 意識的。うばいとることには 無自覚。」)。わたしの職場はグループホームも いくつも運営しているのですが、わたしの部署は入所施設です。社会の都合で、制限された空間を いきているひとがいます。そこで しごとを している わたしは、毎日の業務で なにを どうしようとも、正義などではありえないのです。これは社会全体の問題ですから、社会をつくりなおさないかぎりは、胸をはれる日など、おとずれはしないのです。それまで わたしは、差別者でありつづけるのです。


 でもだからといって、わたしが自己批判をつづけて絶望して、無気力になって、死んでしまえば正義になれるでしょうか。そんなはずもないのです。


 ですから、たいせつなのは、「わたしは どの方向を むくのか」ということです。たとえば、国籍差別を なくさないかぎり、わたしは差別者です。そして、それは いやなのです。だから、差別をなくすことをめざすのです。


 そしてそれは、意識や かんがえかたを かえるということに とどまるはずがありません。差別を 再生産しつづけている構造を こわす必要があるのです。


 あらゆる差別行為は 差別の構造に よりかかったセカンドレイプです。


 何重にも つみあげられてきた差別に さらに差別をかさねるふるまいです。そして、それは恥の うわぬりでもあります。


 罪ほろぼしは、差別の構造を ほろぼす以外にありえないでしょう。そうではありませんか?

munyuumunyuu 2009/03/15 12:54 >その意味で、つぎのような発言は くだらないのです。

なるほど、つまり、あなたは私を差別しているということですね。

>差別を 再生産しつづけている構造を こわす必要があるのです。
自分と対立する人間を差別するようでは無理でしょうね。

hituzinosanpohituzinosanpo 2009/03/15 12:58 この記事を きちんと よめば、「つまり、あなたは私を差別しているということですね」ということにはならないのですが。

matebumatebu 2009/03/16 01:33 >munyuuさん
人の意見をくだらないというのは差別ではありません。「この論文は何も中身がない、くだらない」といっても、その著者を差別してはいません。さらには、私はXXさんが嫌いだ、といっても、それだけでは差別ではない、と思います。

「朝鮮人が外国人や日本人に差別をしている」というのは、「朝鮮や韓国に滞在している外国人が、社会的に差別されている」という意味でしょうか?もしもそういう状況での差別なら、朝鮮における外国人はマイノリティですから、差別になりますね。

会う朝鮮人がみな日本や日本人のことを悪く言う、とか事実と異なることを言う、ということならそれは差別ではありません。もちろん、「だから私は朝鮮人が嫌いです。」というのも、それだけで差別ではありません。どちらも、誤解も含めて解決すべき問題ということです。

trshugutrshugu 2009/03/16 13:18 「差別」と「差別的」の定義は「集団」か「個人」の違いということでしょうか?
で、マジョリティがマイノリティに対して行う不利益な行為が「差別」ということでしょうか。

kuruerukurueru 2009/03/16 14:32 勉強させてください。

僭越ながら要約させていただきますと、
1.群が母集団から「排除」される現象。これが「差別」。
2.上記関係(=構造)においては、いかなる行為も「差別行為」である。
3.解消方法は、母集団を破壊することのみ。他はおためごかし。
こうなりますでしょうか。

1.に関して、群を形成するには「属性」の有無が鍵ですが、属性は無数ですので形成される群も無数ですね。つまり母集団は無数の「差別」構造を含む、と。
「排除」について括弧書きとしたのは、合理的な「排除」も含むだろうと言うこと。お金を払う意志のないグループを排除するレストランは差別的と言うことでしょうか?会社敷地への関係者以外立ち入り禁止も?授産施設であるパン工場へのパン焼き工としての就職を望む健常者を断るのも差別行為でしょうか。
2.においては、「無自覚に奪う」行為も「意識的に与える」行為も、差別的行為である(優しくしてもダメ、突き放してもダメ)と。自らの存在自体が罪という原罪に似ていますね。差別という原罪は、神でなく誰に救いを求め、許しを請うたらよいのでしょうか。
3.において、とりあえずリセットしたとして、人間は弱いですから、属性を頼りに群を必ず作ります。群の形成は差別の温床ですから、つまるところ差別は無くならないのではないでしょうか。ということは「ほろぼす」とは言葉通り、人類そのものを?(笑うところですよ)

ところで、差別の温床たる群の拠り所となる属性とは本当に悪者なのでしょうか。引用に出てきました国籍も属性ですね。障害者手帳を持つことも属性です。その属性によって不利益なこともあるでしょうが、属性をリセットすると恩恵や配慮も受けられなくなります。男女差別問題において、法律や運用から男女の区別を撤廃すれば、「男だから/女だから」は無くなりますが、困る女性も少なからずいるでしょう。法律や運用の不備や間違いなら直していけばいいのですが、母集団をリセットとなると他の各群を含む大多数に不利益が生じないでしょうか。

また、集団にはある程度の割合で攻撃的な属性の人がいますが、攻撃の手段として群の属性を使うこともあります。いわゆるマイノリティは格好の的です。逆に攻撃されたマイノリティの中の攻撃的属性を持つ人も反撃をします。攻撃的=行動的ですので、目立ってしまいます。引用中の在日朝鮮人にしても、大多数の方は真面目な方々なのでしょう。でも脱法疑惑などで強制捜査の際、「民族差別だ!」と叫ぶ方々の映像は攻撃手の目に焼き付きついています。攻撃の糸口を与えないためにも、こうした反応を慎まなくても良いのでしょうか。

今回、人類という母集団に対し差別と言う時、それに含まれる私もどうやら差別主義者として糾弾されているようですね。「母集団側であるあなたも差別者だ」と言われた私は、あなたから「差別の構造を滅ぼす以外無い」、と解決方法の模索を拒否されています。差別主義者というレッテルは精神衛生上よろしくないので返上したいのですが、糾弾される不利益を甘受する以外できないと言うことでしょうか。
どうか、次善の策を授けてください。理想郷、つまりすべての少数者が満足する世界はないのです。結局は努力と妥協の産物として、最大公約数的に、幸福を多く不幸を少なくしていく方針がベターだと思っているのですが。

trshugutrshugu 2009/03/16 15:25 >「母集団側であるあなたも差別者だ」と言われた私は、あなたから「差別の構造を滅ぼす以外無い」、と解決方法の模索を拒否されています。


そうなんですよね。こうなってしまうのは語弊があってそのまま受け取っているからのような気がしてなりません。

hituzinosanpohituzinosanpo 2009/03/22 16:44 おへんじ おくれました。

id:matebuさん、「「朝鮮人が外国人や日本人に差別をしている」というのは、「朝鮮や韓国に滞在している外国人が、社会的に差別されている」という意味でしょうか?もしもそういう状況での差別なら、朝鮮における外国人はマイノリティですから、差別になりますね。」

そうですね。おっしゃるとおりだと おもいます。

id:trshuguさん、
「「差別」と「差別的」の定義は「集団」か「個人」の違いということでしょうか?
で、マジョリティがマイノリティに対して行う不利益な行為が「差別」ということでしょうか。」

引用文の「差別」と「差別的」の区別は、つまり、不平等な社会構造を「差別」、あるカテゴリーに属するひとに不利になる待遇をしたり、おとしめる発言をするという「差別行為」を「差別的」としています。わたし自身は、「差別」と「差別的」という表現による区分は、ことさら重要だとは おもいませんが、ともかく、個別の差別行為を 問題化するだけに とどまらずに、きちんと構造の問題を 指摘していきたいと おもっています。

id:kurueruさん、
「僭越ながら要約させていただきますと、
1.群が母集団から「排除」される現象。これが「差別」。
2.上記関係(=構造)においては、いかなる行為も「差別行為」である。
3.解消方法は、母集団を破壊することのみ。他はおためごかし。
こうなりますでしょうか。」

3の「解消方法」は、同意しません。そういうことではないです。この世界が、さまざまな視点から いくつかの集団に わけられることは問題ではないはずです。問題は、不平等な関係のありかたにあります。わたしが問題にしている「排除」というのは、ただたんに あるカテゴリーに おしこめられるということに とどまりません。権利が制限されているわけです。

「母集団は無数の「差別」構造を含む」というのは、そのとおりです。

「属性とは本当に悪者なのでしょうか」という点については、最近よく かんがえるところです。その点については、「なんのための構築主義か(少数派のアイデンティティについて)。」の『欲望問題』からの引用箇所を よんでください。
http://d.hatena.ne.jp/hituzinosanpo/20090313/1236950059

障害者手帳による恩恵というのは、
「多数派が 身を おいている社会の構造というものは、自分たちだけは あたりまえのごとく配慮し、そして、「一部」(少数派)を つくりあげ、障害化し、そのうえで「特別な配慮」と称して ほどこすというものです。」
ということだと おもっています。社会的排除を 批判し、障害者というカテゴリーを 批判するとしても、「だから障害者割引は いらない」とは いえないと おもっています。もし、正論というものが あるとすれば、それは「障害者割引が ほんとうの意味で必要のない社会にしていく」ことだと おもいます。

「母集団をリセット」ということではないのです。不平等な関係を ただしていくことです。石川准(いしかわ・じゅん)さんは「配慮の平等」と表現しています。

「「配慮の平等」という視点」
http://d.hatena.ne.jp/hituzinosanpo/20080719/1216400819

「「母集団側であるあなたも差別者だ」と言われた私は、あなたから「差別の構造を滅ぼす以外無い」、と解決方法の模索を拒否されています。」

わたしはこの記事で「解決方法の模索を拒否」したのでしょうか? そうではないと おもいますが。とにもかくにも、この社会を よりよくしていくしかないということでしょう。

「理想郷、つまりすべての少数者が満足する世界はない」、けれども、それがまさに「理想」であるからこそ、めざすのです。実現不可能であるなら、めざす必要はなくなるのでしょうか? 最善に ちかづこうとすることから、社会の改善は はじまるのだと おもっています。こたえになったでしょうか。

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カテゴリー [ 社会 , 料理 , 映画 , ことば , コミュニケーション ]

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