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あべ・やすしといいます。

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2009ねん 06がつ 19にち

だれも孤立させない。同時に、集団のインチキで ごまかさない。

つづきです。


 最近、死刑についての本や 刑務所/拘置所[こうちしょ]についての本を じっくり よんでいます。あるいは、ミルグラムの心理実験についての本(「心理学の本、おすすめリスト」)。



 社会問題を かんがえていて、差別感情で あふれている ひとを みると、そのひとと 自分は ずいぶん ちがうように感じられます。

 あるいは、だれかを ケアするという福祉の しごとと、刑務官の しごとというのは、ずいぶん ちがうように感じます。


 けれども、そんなに ちがわないのではないかと、ふと感じたとき、冷静では いられなくなります。こころ おだやかで いられなくなります。


 きのう だったのか、もう わすれてしまいました。『私たちの幸せな時間』という韓国の映画を みました。死刑囚と、面会する ひとの映画です。


 日本で出版されている本でも そうですが、死刑囚と むきあう刑務官が 死刑執行に 直接 かかわるというのは、たえがたいことだと いわれています。当然のことでしょう。ひととして じっくり つきあってきた ひとを ころしてしまうのは、それが だれであろうと暴力なのです。そして、その暴力を「しごととして、やらされてしまう」のです。

 ひとりでは とてもできないから、みんなで するのです。そして、みんなですることで、なんとか やれてしまう。つまり、「たえがたいことを みんなでする」ことで、たえうることに かえてしまう。そんな しくみが、死刑制度の現場を ささえています(小坂井敏晶(こざかい・としあき)『責任という虚構』の議論を 参考にしています)。もちろん、「死刑制度の現場」は、この社会全体なのですが。



 分担し、協力する。それって、たいせつなことであるはずです。でも、むごいことを むごいことだと そのまま感じとる気もちを ごまかす装置として、役割分担が 動員されることがある。それは、おぼえておく必要がありそうです。



 役割分担していると、いつのまにか、だれの責任でもないような、そんな かんちがいを してしまうようになります。「だれも わるくない」、「しいていえば、みんなが わるい」。そんなふうにです。



 『私たちの幸せな時間』で、担当の刑務官は、どこまでも やさしく、死刑囚を ささえるようにしていました。そこに やさしさがあり、かかわり、ささえるという行為があるかぎり、福祉の しごとも、刑務官の しごとも、それほど ちがってはいないのです。むしろ、共通点のほうが おおいかもしれません。



 「つながりを きりおとす」。それが社会的排除ではないでしょうか。


 「であえなくする」。それが社会的排除であるはずです。



 社会的排除の現場に いると、いつのまにか、そこで安住するようになります。そして、おかしな感覚が常識になったりもするのです。対等であるべき関係が、不平等になったりもするのです(「あたえることには 意識的。うばいとることには 無自覚。」)。


 そういった おそろしさを わすれずに、初心に かえりながら、接点を つくっていくしか ありません。つなげていくしか ありません。


 だれも、孤立させてはいけない。そして同時に、集団に属すことの インチキで、自分を ごまかしてはいけないのです。ゆるがない理念を かかえて、けれども おそれながら、社会的排除を なくしていく必要があります。


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