hituziのブログじゃがー

あべ・やすし。最近は ツイッターばー かきょーる。

「当事者」を 尊重しつつ、依存しない。

 当事者の意見を 尊重する。当事者の声を きく。だいじなことですよね。その当事者が 社会的に排除されてきた 現実があるなら、きちんと はなしを きくことから はじめないといけない。


 いろいろな社会問題が あるなかで、これは ゆるせないと感じ、その問題の解決に とりくむことがあります。そのとき、「わたし」の主体で、「わたしは こんなことは ゆるせない」という問題意識から出発する必要があると おもいます。


 逆に、差別に反対したり、日本社会の問題に とりくんだり、なぜ そういう社会運動を「わたし」はするのか。それを、いわゆる「当事者」が「いやがっているから」というリクツでやっていると、当事者とされる ひとが「いやがってくれないと こまる」ってことになってしまう。


 そうなると、自分の主体よりも「当事者」の主体に依存してしまうことになる。「わたしが いやなんだ」というリクツで うごかないかぎり、「運動」の「原動力」を ひとまかせにしてしまう。差別に反対するのは、わたしのリクツであり、わたしの責任です。


 「わたし、わたし」と かいていますが、ひとりよがりになっても いい、とは おもわない。対話を くりかえして試行錯誤しながら、自分の主張、自分の理念を つくっていかないといけない。


 主体や原動力だけではない。「なにが ただしいのか」ということも、当事者に依存するべきではないと おもっている。


 たとえば、だれかにインタビューをして、文章に まとめるとする。そのとき、はなしの内容を 自分自身で調査して、うらづける作業をする必要がある。それは、文章に まとめるのが 自分であるから、だけではなくて、自分も能動的にならないといけない。
 当事者といっても、そのひとの経験は そのひとのものです。当事者のなかにも、ちがいがある。だから、たくさんの ひとに はなしを きかないといけない。


 「当事者のマイノリティ」と、どのように関係を むすんでいくべきか。尊重はしても、依存するべきではない。反差別運動は、自分の主体で うごくべき。ただしさを 当事者に まるなげしてはいけない。「当事者」を神聖化しても いけない。


 主体的に うごいていくなかで、自分の当事者性に気づくことになるし、自分の当事者性を 確立することになるはずだ。

「マジョリティに安住している人はわかんないと思う」とコメントいただいたが、それなら「マジョリティに安住している人がわかる」のは、どのようなアプローチなのだろう。わたしは わからない。


ただ、重要なのは「マジョリティに安住しないこと」だと おもう。それが できないひと、したくないひとには、わたしが なにをいっても、共感してもらえないだろう。わたしも、かたるべき ことばを まだ みつけていないのだから。相手のほうも、うけいれる準備が できていないのだから。


「ふつう」に あぐらをかかない - hituziのブログ 無料体験コースに かいたように、「だれもが ある点においては少数派に属するところがある」のだから、「自分のマイノリティっぷりに意識をはらい、社会の抑圧性に気づくことができれば、それは、社会のありかたをふりかえり、批判的意識を発展させるのに つながるのではないかと おもう」。


だから まず必要なのは、「「ふつう」の外に足をふみいれている自分のすがたをみつけること」だろう。そして、そうすることで「既存のワクをこわし、社会をかきみだ」していくことではないだろうか。


 ぐるぐるー。まぜまぜー。


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