大漁、異漁。

十代をすぎても心を隠す私のような人間は、大人の形に見えるだけの羽化できないサナギのようなものなのかもしれない。    遠野りりこ『マンゴスチンの恋人』

11-12-16-金 不道徳な飛躍なければ作文

[]‘Any Where out of the World’ 19:39

悲鳴をあげる身体 (PHP新書) 1998年の新書、鷲田清一悲鳴をあげる身体 (PHP新書)』。鷲田の文章は正確さを指向するもフィクションとしての訓練が足りないので、いつでも読みづらい。〈揺るぎなき人生とはじつは深い眠りのことでありうる〉、もっとばっさり言いきってもいいのでは?

分析も造語も中途半端な鷲田清一だが、他人の著作については硬軟とりまぜよく読んでいて、その引用に触れるのは愉しい。近作『「ぐずぐず」の理由 (角川選書)』でも車谷長吉「むっつり」などに触れているらしいし、誘惑的な書きかたではある。添い寝屋なんてアイデアはいいなァと読んだマンガがあったけど、その奇妙なアルバイトは吉本ばなな『白河夜船』から採ったのかなとか。

『悲鳴をあげる身体』からいくつか孫引きしておく。

普通に生きていくのは簡単ではない。親も教師も国も奴隷みたいな退屈な生き方は教えてくれるが、普通の生き方というのがどういうものかは教えてくれないからだ。

     村上龍イン ザ・ミソスープ (幻冬舎文庫)

大切だと思ったことが、寝て起きてテレビを見てラジオを聞いて雑誌をめくって誰かと話しているうちに本当に簡単に消えてしまう。去年の夏、『アンネの日記』のドキュメンタリーNHKの衛星放送で見て、恐くて、でも感動して、泣いた。次の日の午前中、「バイト」のため『JJ』を見ていたら、心が既にツルンとしているのに自分で気付いた。『アンネの日記』のドキュメンタリーを見終わって、ベッドに入るまでは、いつかオランダに行ってみようとか、だから女の子の生理のことを昔の人はアンネっていうのか、とか、自由に外を歩けるって本当は大変なことなんだ、とかいろいろ考えて心がグシャグシャだった。それが翌日には完全に平穏になって、シャンプーできれいに洗い流したみたいに、心がツルンとして、「あの時は何かがおかしかったんだ」と自分の中で「何かが、済んだ」ような感じになっているのが、不思議で、イヤだった。

     村上龍ラブ&ポップ―トパーズ〈2〉 (幻冬舎文庫)

われわれは、自分が食うものを軽蔑し、軽蔑するものしか食うことができない。すなわち死んだものとか、動物であれ植物であれ生物学的同化に適した生命のないものだけを食う。このように、われわれは、われわれが食うもの、食う行為、そして最後にはわれわれ自身の肉体にたいする軽蔑という視野のなかで、人食を軽蔑すべきものと考える。

     ジャン・ボードリヤール象徴交換と死 (ちくま学芸文庫)

生ける闇は死の明るみにおいて消え去ってしまうのである。

     ミシェル・フーコー臨床医学の誕生 (始まりの本)

たとえば、村上龍の、あるいは小説のすごいところは、『ラブ&ポップ』の語り手が、「感動」を忘れぬうちに引き寄せておかなくてはならないと、『アンネの日記』までだして考え、援助交際してブランド品を買おうと決める反道徳的なところであり、にんげんにはそういういやな飛躍がある。鷲田は唐木順三の『現代史への試み』を引きつつ“スクール・バスによって「道草」という遊戯がうしなわれた”と嘆いてみせるが、スクール・バスが〈目的地への最短距離〉とはかぎらない。大人が乗物を利用することと、子供のそれはちがうだろうし、スクール・バスの車内が〈共通の広場〉、〈秘密の花園〉、〈遊びの場所〉、〈上級生の下級生への制裁の場所〉へと展開することを発想できないていどに唐木も鷲田も愚物なのかもしれず、現代の想像力なき孤独な身体を指して鷲田は〈不在のプロセス感受性〉というけれど、不在や空虚や零度についての〈想像力と論理的思考〉を欠いているのは鷲田のほうではないかとおもったりする。〈最短距離〉にも闇や飛躍はある。


家族で食事をしないから想像力が育たないのだ、と再現不可能な過去の事例とともに道徳を振りかざすのでなく、孤食を強いられる時代の少年に想像力をあたえるものがあるとしたらそれはなにか、という方向で〈想像力と論理的思考〉を駆使しなければ、過去も未来もフィクションも構築できない。