大漁、異漁。

今どき風にいえば、鈴子はアイデンティティーを求めていたわけである。それを得るためには、人気などという不確かなものに未練がなくて当然だった。      富岡多恵子『逆髪』

12-2-4-土

[][]〈醜い顔でも、流行に乗るのと乗らないのがあるの。セアラは文句なしにだめな顔だわ〉 12:13

ヘルタースケルター (Feelコミックス) いくたびか美しく燃え〈上〉 (新潮文庫) 映画『イズント・シー・グレート』では「スーザンでなく、スザン!」と訂正されていたジャクリーン・スザン。日本ではスーザンとして紹介された。

いくたびか美しく燃え〈上〉 (新潮文庫)』。献辞に、

理解してくれるであろう

わが父ロバート・スーザンと


理解ある

アーヴィングに

とある。

『イズント・シー・グレート』でみたネイサン・レインによるアーヴィング、ベット・ミドラーによるジャクリーン・スザンの愛情という予備知識があるから、〈理解あるアーヴィング〉、それだけで泣ける。


小説のもつ“本音”もおもしろい。今日日《女子》とか《美魔女》といった脚色記号があるけれどもそれは〈お金で買える美しさ、お化粧と美容食から生れた美しさ〉なのだとかの女たちは痛いほど判っているはずだし、判っているかぎりにおいて現世は時間的にも空間的にも永遠に地獄であるだろう。

ジャッキー・オナシスやベイブ・ペイリーとちがって、生れつきの美しさじゃないわ


「オメェたちはブスだ」では「ない」。「わたしたちは皆不細工にちがいない」、これが文学やゴシップにおける知性であり共感であり、町田康笙野頼子がなぜ熱い読者を獲得するかということでもある。

それは知的な連帯ではない。ウィル・フェレルのように、「おれたち、みにくい!」と言いきる勁さだ。

アクタガワショウの選考委員の一人を「閣下」と毒舌してみせた、衰退したプロレスのように若若しいオジサンの小説を読んだが、屈折の不足をみた。連帯への無自覚な甘えがあった。

町田康の『くっすん大黒』、

やはり、なにもしないのが一番だと、反省し、この三年というもの、毎日、酒を飲んでぶらぶらしていたのである。

ところが三、四日前、たまには顔でも洗ってみるか、と、洗面所の鏡を見ると、そうしてたくさんに召し上がったお酒のせいで、かつて、紅顔の美少年、地獄の玉三郎などと称揚された自分の顔が、酒ぶくれ水ぶくれに膨れ上がり、瞼が垂れ下がり、頬と顎のあたりには袋様の脂肪がつき、膨れた顔の中心に目鼻がごちゃごちゃ固まって、なんとも浅ましい珍妙な面つきとなり果てているのである。

生きることとは働くことであり、しかも、生きることとは日日醜くなっていくことであるという認識をもつ飲酒癖のある美少女たちが町田康に多大な共感を寄せたこと、記憶に新しい。ゼニカネさえあればなんでも他人に強いることができると信じている青春関係性障害かつ性差尊卑系のひとびとにはわからないかもしれないが。


ひとは、〈生れつきの美しさ〉とともに生まれてきたはずなのだ。その喪失はゼニカネで回復できないたぐいのものだ。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/hiyakkoikiton/20120204/1328411595