大漁、異漁。

十代をすぎても心を隠す私のような人間は、大人の形に見えるだけの羽化できないサナギのようなものなのかもしれない。    遠野りりこ『マンゴスチンの恋人』

15-9-19-土

鰻の串をたべる。

[]60歳になってちゃぶ台を引っくりかえす。善人ではいられない。 10:57

日本霊異記/今昔物語/宇治拾遺物語/発心集 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集08)

文學界2015年3月号 (文学界 2015年 03月号) 伊藤比呂美の詩の朗読会に行ってきた。

その会を、詳しく説明すると、天童大人によるプロデュース「Projet La Voix des Poètes詩人の聲)」というもので、特徴は、マイクを用いないこと。

さまざまな詩人を招いて月に5回、10回と精力的なペースで行なわれている。

きょうは伊藤比呂美。朗読したのは『文學界』で連載している「切腹考」、それから現代日本語に翻訳した「日本霊異記」と「発心集」。西荻窪ギャラリー数寄和にて。


切腹考」は、連載何回目のぶんだったろう。伊藤比呂美のエッセイを読んできた者には馴染みぶかい前夫との話。ここでは、おんながおとこに傷つけられている。それだと不正確か。おんなはおとこについていこうと必死だ。そのことに、おとこが気づいていない。

泣けて泣けて仕方ない。若い、にんげんの、恋とか、共同生活というものはそうした不平等をはらむだろう。

痛みを忘れて生きているので悔いはないが、傷つけた不平等をおもいだす。


ぜんぶ詩だという。定型の、詩のような詩を伊藤比呂美は書かないし、それで詩は書けなくなったとなるわけだけど、エッセイも、小説も、ちょっと呟くようなことも、もうぜんぶ詩だという。それは力づよい。若いころの生活もそう。ひとは形式に圧し潰される。潰されるまで居ることもない。自由。あるいは自信。


日本霊異記」の作者は景戒。景戒をかわいいと伊藤比呂美は言う。太宰治中原中也のように大昔のひとに夢中になれるなんて。


若いころの伊藤比呂美の詩には「おびただしい」という表現が頻出する。若い眼にはなにもかもが「おびただしい」。たくさん生まれる。たくさんしぬ。子どもが。こどもがたくさんしぬ。それが物語だ。