大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

「私はオーストリアという、極端に言えば、もう歴史から脱落してしまった、巨大な怪物のような過去をもつ小さな国の出身なのです」

インゲボルク・バッハマン全詩集
中村朝子訳、インゲボルク・バッハマン『インゲボルク・バッハマン全詩集』。訳者のあとがき、解説がありがたい。バッハマンへのインタヴューがいくつか引かれており「グリルパルツァーやホーフマンスタール、リルケ、ローベルト・ムージルといった詩人は、ドイツ人ではありえなかったのです。オーストリア人は非常に多くの文化とかかわり、ドイツとは別の世界感情を展開してきたのです。彼らの洗練された快活さはそこから説明できるのです。けれどまた、彼らの悲しみや多くの不気味な傾向も──それはある時は理性的に、ある時は狂気のように見え、その原因は悲劇的な経験にあるのです」といった明晰なところを知ることができる。
バッハマンの詩はけっして観念的でなく、つよい。〈ただ一時間、自由であること!/自由で、彼方に!/天球の夜の歌のように。/そして高く 昼のうえを飛んで/いたい わたしは/そして忘却を探したい─ ─ ─/暗い水のうえを渡っていきたい〉(「灰色の日々の後に」)
〈昼が昼に続く。/わたしの目はそれをいつも見ている、/あの金色の太陽を。/いつかそれはとどまるだろう、/ひとつの影が雲のように沸き立つところで。/ほろ苦いのだ 逸することは。〉(「夏に」)
涙の匂いがする。安心できない日日。


〈窓ガラスは割れる。顔を血あらけにしながら/夕べは押し入る、わたしの恐怖と格闘しようと。〉(「酩酊した夕べ」)

陸地から 煙が立ち上る。
漁師の小さな小屋を見失うな、
太陽は沈むのだから、
お前が十マイル進む前に。

暗い水が、千の目をもち、
白い飛沫の睫毛を上げる、
お前をじっと見つめるために、大きく そして長く、
三十日もの間。

たとえ船が激しく縦揺れして
不確かな足取りをしても、
落ち着いて甲板に立て。

テーブルについて 彼らは今
燻製の魚を食べている、
それから男たちは跪いて
そして網を繕うだろう、
けれども夜には 眠りがくるだろう、
一時間か二時間、
そして彼らの両手は柔らかくなるだろう、
塩や油から解放されて、
彼らがちぎる
夢のパンのように 柔らかく。

夜の最後の波が 岸に打ち寄せる、
二番目はもうお前に届く。
けれどももしお前が きっと向こうに目をやれば、
お前にはまだ あの木が見える、
それは反抗的に腕をかかげる
─その一本を風はもう叩き落とした
─そしてお前は考える、あとどのくらい、
あとどのくらい
あの捩じれた木は 悪天候に耐えるだろうと。
陸のものはもう何も見えない。
お前の片方の手で 砂州に爪を立ててしがみつくか
それとも一房の巻き毛で 岩礁におまえ自身を縛り付ければよかったのに。

貝たちを吹き鳴らしながら、海の怪物たちがすべる
波の背の上に、彼らは騎乗し そして
青いサーベルで 昼を打って 粉々にする、一つの赤い跡が
水のなかに残る、そこにお前を眠りが横たえる、
お前に残った時刻の上に、
そしてお前の意識は消えていく。

あそこで 太陽に何かが起こった、
お前は呼ばれる、そしてお前は嬉しい、
必要とされることが。いちばん良いのは
船の上の仕事だ。
はるか遠くへ航海する船たちの、
太綱を結ぶこと、水を汲むこと、
壁の水漏れを防ぐこと そして積荷の番をすること。
いちばん良いのは、疲れること そして夕べに
横たわることだ。いちばん良いのは、朝に、
最初の光とともに、明るくなること、
動かしがたい天に対して立つこと、
進めない水を気にかけないこと
そして 船を波のうえに持ち上げることだ、
繰り返し戻ってくる太陽の岸に向かって。


       「出航」