大漁、異漁。耀

タイトルは タトゥーのようなもの

〈肌で触れ合ったことで 曖昧だった自分の輪郭が少しはっきりしたような気がする〉

はいらなくても、いいじゃないか【コミックス版】 (B.PilzCOMICS)

「あの映画

少し前の時代に作られてたら違うラストになっていたとなっていたと思うんですよ

その狭間に

自分はいるんだなあと思ってじーんとしましたね」

ゆざきさかおみ『はいらなくても、いいじゃないか』。初出は2020年。

カミングアウトしていないクローゼットのトーマと、自覚的で社会派のヒロ。ゲイ映画のレイトショーでたまたま出会い、意気投合する。そういう目的ではなくて、映画の内容もわからず席を取ったトーマの天然、偶然性が佳い。

トーマは〈クローゼットでコミュニティにも馴染めなかった このままずっとコンプレックスを抱えて生きていくんだと思っていた〉。

 

性愛をセンシティブなこととしてじつに教育的、教養主義的なのに(ゆえに?)擦れ違いが起こってしまう。ギクシャクしたタイミングでトーマにもヒロにも《誘惑者》らしきものが現れる。かれらはどこまでよろめいてしまうのか、というスリルもしっかりあった。

ヒロの独白、〈「腕がはいるんだから余裕っしょ」 僕は甘かったのか…自分の可能性を過信しすぎていたのか…?〉が可笑しい。

 

どんな物語も随筆的な感慨が読みどころなのかもしれない。

矛盾ではない。強さと弱さを併せ持つ人間たちの正直なぶつかりあい。

1995年、椿組プロデュースで上演されたとき、この作品は10年前に亡くなった友人Tちゃんに捧ぐ、という副題が付いていた。Tとは椿組の座長外波山文明さんの親友たこ八郎さんのことである。ボクシングの元日本フライ級王者であり、引退後コメディアンとして活躍し、誰からも好かれたあのたこちゃんである。

 

    水谷龍二

オフィスリバープロデュース『お目出たい人』観る。90分。作・演出、水谷龍二

渋くて魅力的なキャスティングだからすぐ手配した。渋川清彦、李丹、崔哲浩、那須凛、川手淳平、渡辺哲。どこへ連れて行かれるのやら。

 

初めましての人物たちがあつめられての密室劇。話題の中心となるのは舞台下手にあるお棺だ。場所はどこかの劇団の稽古場でいかにも不憫な故人だけれど、若年性の悲劇というふうではない。単純な喜劇でもない。話が進むに従って泣き笑いの回顧となる。

さいしょに現れたのはドキュメンタリー番組のテレビのディレクター・篠原(渋川清彦)。

篠原同様、だれかに呼ばれてやってくるひとたち。寿司職人の野口(川手淳平)に、「ヤクザ」「エロ」を柱とする週刊誌編集者・小松(那須凛)、禁酒会の八坂(渡辺哲)、一見おとなしい金子(崔哲浩)。

みな故人とはすこし疎遠になっていた。それでも呼ばれなかったひとたちに比べてずっと近いところにいた。

かれらをあつめたのは雀荘を経営するカタコトの日本語の中島(李丹)。テキパキと出来事を整理し、性格も個性的で登場人物としても俳優としても場を支配した。中島にはどうかんがえても裏がある。

中島の怪しさとは別に、故人は夜の公園でしんだのだった。ホームレスのような格好をしていて、喧嘩に巻きこまれたらしいのだが……。

 

いくつかの話題を並走させつつまとめあげる水谷龍二の脚本が佳い。さいごにおとずれる出棺の場面、上手袖まで運ばずに舞台中央ストップモーションというのが痺れた。美しく、そして前向きだった。

〈江戸書物屋仲間へもお叱りが来た。黄表紙作者はとかく突飛なことばかり思いつき、世の慣行を乱しがちである〉  井上ひさし「質草」

第105回『カリーズ寄席』。出演は春風亭昇羊、春風亭昇咲、柳家花いち。

演目は昇羊「二階ぞめき」、昇咲「区それぞれ」、仲入あって花いち「狸の紹介」、昇羊「質草」。

 

春風亭昇羊は二枚目で良くも悪くも芝居っ気の堅さがある。それが綺麗に効いた「二階ぞめき」と井上ひさし原作の「質草」だった。

「質草」は翻案も良く出来ていた。

 

すでにコミュニティの形成されたちいさな喫茶店。平日ということもあり伺いにくくはあるけれど、他所でも聴いてみたい三様の魅力に触れた。

百年目

落語協会百年興行」三月十日、昼の部。

  春風亭一蔵 「置泥」

  三増紋之助 曲独楽

  古今亭文菊 「つる」

  鈴々舎馬風 漫談「楽屋外伝」

  ロケット団 漫才「四字熟語」

  林家彦いち 「遥かなるたぬきうどん

  入船亭扇太 「ぞろぞろ」

  五街道雲助 「勘定板」

  林家二楽  紙切り

  林家正蔵  「四段目」

    仲入り

  口上 林家正蔵

  立花家橘之助 浮世節

  桃月庵白酒 「百年目」(前半)

  入船亭扇遊 「百年目」(後半)

 

 

一席目から真打で、演目も明るく、賑やか。豪勢な布陣の半ばに入れられた二ツ目・入船亭扇太も「ぞろぞろ」のファンタジーを好演した。

芸協で聴くのと異なり、ベテランは良い意味で太々しい。文菊の場の支配力。大病をしても淀みのない馬風。ギリギリを攻めるロケット団

人間国宝五街道雲助がここで尾籠な「勘定板」を演るのも好い。まさか、彦いちの「遥かなるたぬきうどん」を作った三遊亭円丈の「肥辰一代記」(おわい屋の話)を連想してというのでもないだろうけど、きたないものが見えそうで見えない、なかなか凄い噺だった。

立花家橘之助も小唄をラフに演って楽しい。

「百年目」。桃月庵白酒と入船亭扇遊のちがいを愉しむ。

星降る夜の自由

新国立劇場演劇研修所 第17期生修了公演「流れゆく時の中に ─テネシー・ウィリアムズ一幕劇─」観る。

初期作品の三本立て。戯曲コンテンストで百ドルを得た一幕劇集『アメリカン・ブルース』から「坊やのお馬」と「踏みにじられたペチュニア事件」。それと「ロング・グッドバイ」。

多分に自伝的な作風だから、おなじモチーフが繰りかえしあらわれる。代表作である『ガラスの動物園』『欲望という名の電車』『地獄のオルフェウス』といった長編とも通底し、ここでも神経症のけはいのある女性と、理想家でおろかな男性がめぐりあう。

どちらも救いをもとめている。互いに助けようとする。だが、うまくいかない。

十代、二十代で読めば《敗北》という《苦い》現実だけれども、単に《現実》として受けとめていいのかもしれない。そしてその《現実》がテネシー・ウィリアムズらしいロマンティックな希望で形成されてもいる。若さにあふれた一幕劇ではそれを顕著にかんじられた。

楽観的な愛らしさ。おそらく悲劇でないだろう。前途ある俳優たちとその物語を観た。

演出、宮田慶子。ギターの演奏は伏見蛍。

 

 

「坊やのお馬」……ムーニー(田崎奏太)、ジェーン(根岸美利)。

 

「踏みにじられたペチュニア事件」……ドロシイ・シンプル(小林未来)、警官(須藤瑞己(第15期生))、若い男(樋口圭佑)、ダル夫人(二木咲子(第1期生))。

 

ロング・グッドバイ」……ジョー(立川義幸)、マイラ(飯田桃子)、母(二木咲子(第1期生))、シルヴァ(佐々木優樹)、ビル(須藤瑞己(第15期生))、運送屋四人(田崎奏太、樋口圭佑、篁勇哉(第18期生)、横田昴己(第18期生))。

 

 

「坊やのお馬」は、工場での労働を辞めて森で木を伐る仕事に戻りたいムーニーの話。生活は困窮している。それでもじぶんが父にしてもらったように、ムーニーは息子のためにと木馬を買った。息子はまだ赤ん坊だというのに。

妻のジェーンと衝突する。ムーニーが暴力に訴える。ジェーンは家を飛び出してしまう。と、絶望的な幕切れのようだけれど、ゲイのテネシー・ウィリアムズにとってムーニーは魅力ある男性でもあったろう。おそらく男女の諍いは主題でない。ジェーンが家を飛び出るほどの喧嘩は前にも後にもあったと読んでもいいはず。

では何が劇的なのだろう。《一回性》はどこにあったのだろうとかんがえると、ムーニーの決意だったとおもう。

なにかを捨てて、よみがえる。よみがえれば再会することもあるだろう。

 

「踏みにじられたペチュニア事件」もまた、いまの環境を捨てる物語であるものの、おとぎ話の色が濃い。そのぶん幸福と困難のコントラストがはっきりして、小間物の店を切り盛りしてきたドロシイ・シンプルが野生の荒れ地へと向かうラストが少年漫画のようで強烈だった。

店先のペチュニアを踏み荒らした男と対話するうちにドロシイの価値観はまったく反対のものになってしまう。男は魅惑的なトリックスターだ。

 

父も、母も、妹もいなくなってしまった家。「ロング・グッドバイ」。

小説を書いている若いジョーもいよいよこの家を出ることになる。ここに入り浸るイタリア系の青年。やってくる運送屋の男たち。家族との回想場面を挿みながら、明るくも粗野な男の匂いが上書きしていく。

〈夏休みよ さようなら 僕の少年よ さようなら〉

三上博史 歌劇 私さえも、私自身がつくり出した一片の物語の主人公にすぎない』観る。

開場してすぐ、トイレと物販に行列ができる。そこへ現れ、徘徊する演劇実験室◉万有引力の俳優たち……。

おおきい劇場だから、ロビーがある。舞台とは異なる光のもと、かの女たちの美粧に並ばれるのは久しぶりで、かつてのなにかがよみがえる。

演奏は横山英規(音楽監督・Bass)、エミ・エレオノーラ(Piano)、近田潔人(Guitar)、ASA-CHAN(Drums)。内蔵震わす大音響が眼球を舞台へと引き寄せた。

三上博史はながくてしろいウィッグに、顔を覆うくろい前髪(これもウィッグ)。人間の裏表、男女の性を併せもつ妖しい逞しさで降臨。三上の魔術的手ぶりによって、照明を吊るしたバトンがするすると上がっていく。このキャストでもありスタッフでもあるという舞台設備との戯れは寺山演劇が孕む《解体》や《滅亡》の予告=種子だろう。

舞台美術は、正面から見た船の断面図のようで堅牢。巨鯨の骨格にもみえる。そこに居る三上博史もまた、堂々たる三上博史で、寺山修司の演目としては2003年『青ひげ公の城』ぶりといっていいだろうけど、そのときも、いまも舞台で主人になれる。演劇実験室◉万有引力の俳優たちをアンサンブルとして従えて、ふてぶてしくも美しい。

寺山の世界に登場するのが「探偵」と「女優」ならば、三上は「女優」を選ぶのだ。

劇場プログラムの巻頭対談で髙田恵篤は語っている。「三上の異様さがいろいろ出た舞台になる。三上と俺は芝居はやったことはないけれど、こんなにパワーがあったのかとびっくりしている」

対談の相手であるJ・A・シーザーは三上について「カット割りの短い映像演技より、演技するというよりは磨き上げるように少々時間をかけた方が魅力を発揮できるんじゃないか」と洞察する。「昔は自分のいろいろなこだわりを垣間見せていたが、それを押さえ込む力を持ったというか、丸くなったのではなく、人間的に大きくなったというよりは人間三上博史に近づいたということでしょう。いい俳優だ」

三上博史のインタビューページでは寺山修司との出遭いの一撃が印象的。「友達に誘われて高校1年生のときにオーディションに行きました。順番を待っていたら、後ろから肩を叩かれ、振り返ったら寺山さんだった。『君の番号はいくつ?』と聞かれたんです。そうして出演は決まりました」と。

三上博史三上博史として、変身する必要もなかったのだ。

 

三上博史 歌劇』。序盤はまさにライブであり、寺山修司記念館におけるそれやPARCO劇場『青ひげ公の城』を超えてくる。三上博史のつよさを思い知る。そこから演劇パートへと持ちこむ。万有引力の俳優たちはアンサンブルに徹しながらも楽しそうだった。主役だけが人生ではない。それを肯定的に捉えることが「遊戯」というものかもしれない。

カーテンコールはなかった。拍手に応えたりはしない。物語が綺麗に解体されて屠られたあと、腑抜けた顔で俳優がでてくる必要もないわけだ。

 

嬉しかったのは、劇場プログラムが俳優たちのプロフィールをきちんとまとめてくれたこと。それによると万有引力高橋優太は『青ひげ公の城』の稽古場で入団試験を受けて「いきなり脚立を持たされ、その日のうちに、頭も眉毛も剃毛され、別人に…。そして、同作品で見事舞台デビューを飾り…。(中略)再び三上さんと同じ舞台に立てるだなんて、思いもよらず、一気に入団当時の希望に満ち溢れた気持ちが沸き上がっております」。そういう、めいめいのドラマが舞台の血肉となる。

伊野尾理枝1987年入団、木下瑞穂1995年入団といった辺りをきっちり確認できたのも収穫。

物語をじゃんじゃんと浴びて雪が止む

「新春邦楽舞台初め『琵琶楽名流大会』」訪れる。

土日はひとのすくない茅場町。ホールのある東京証券会館に華やかな着物姿があつまってくる。

正午開演、終わりは十八時。各人の持ち時間は十五分程度で、十五時に一〇分の休憩あり。もちろん全て観る必要はなく、ホワイエで軽食をつまんだりも。

錦心流、筑前、鶴田流、薩摩、錦、平曲ずらりと……。

 

一人で演奏し、語る。歌と演奏の比重はひとによってさまざま。声にも細工のあるひと、ただただ大音声のひとなど、巧拙がみえてくるのもおもしろい。見台の譜面を左にめくるひと、右にめくるひと。見台を置かぬひと。

 

印象にのこったのは熊田かほり(鶴田流)「大蛇退治」。石橋旭姫(筑前)「舞扇鶴ヶ岡」。水藤桜子(錦)「時雨曽我」。

源頼光がでてくる東本旭令(筑前)「土蜘蛛」、森中志水(錦心流)「羅生門」。そしてトリの平曲・須田誠舟「那須与一」。