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Critique of games - メモと寸評


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出版物への執筆/掲載など


『PLANETS vol.7』第二次惑星開発委員会/宇野常寛編,2010 所収
「ゲームと物語のスイッチ」ほか


『早稲田文学増刊U30』早稲田文学会,2010 所収
「認知的作品論」


『Review House 03』レビューハウス編集室,2009 所収
「批評」としてのゲーム実況動画―「反復性」の破壊と「一回性」の発生 / 黒瀬陽平(司会)×石岡良治×井上明人×濱野智史


(Chris Bateman,Richard Boon,松原健二(監訳),岡真由美『「ヒットする」のゲームデザイン ―ユーザーモデルによるマーケット主導型デザイン』オライリー,2009 所収 
「ゲーム市場の生態系とネットワーク構造の変化をどう捉えるか」

ユリイカ2009年4月号 特集=RPGの冒険
『ユリイカ2009年4月号 特集=RPGの冒険』青土社,2009
「リテラシーという解釈システム」


『未来心理 vol.13 』モバイル社会研究所,2008
「遊びとゲームを巡る試論-たとえば、にらめっこはコンピュータ・ゲームになるだろうか」
[ ! ]リンク先PDFファイルです。


ユリイカ2008年9月号 特集=太宰治/坂口安吾 無頼派たちの“戦後”
小島秀夫インタビュー(聞き手=井上明人)「ゲームという戦場から見た世界――『MGS4』という挑戦」


ユリイカ 特集=任天堂/Nintendo
「宮本茂をめぐって―コンピュータ・ゲームにおける作者の成立―」

その他の仕事リスト

2005.04.05(Tue)

[]つなげました

ネットにつなげるようになりました。

応答

ということで、遅れましたがZOEさんのコメント(3月23日)と、Tatsukiさんのコメント(3月24日)に応答を書きます。

[]ZOEさんのコメントについて(1) 

>「名作ゲームとは面白いゲームではなく良いゲームのことだ」

 この指摘から言いたいことを類推するに

  1. 「面白さ」が「良さ」の全てではない、ということ。「面白さ」は「良さ」の部分集合に過ぎない
  2. 「面白さ」という一般的な基準とは別途に、ゲームというメディア独自の「良さ」を見出せるのではないか。

 という二つの方向性を想像しました。前者は、わかりやすぎて面白くないので、後者のセンで勝手に妄想して応答してみます。(笑)

 後者の指摘だった場合、何が面白いのか、というと「ゲームメディア独自の良さ」なるものを抽出しようというある種のゲーム原理主義みたいな方向性ですね。「面白さ」というようなゲームを測る際のとても一般的な基準をシャットアウトしてしまって「ゲームメディアそれ自体」の自立的な「良さ」を想起するとすればどのようなことになるのか。

 強引に想像してみると、ゲーム=フォルマリズム*1のようなものを想定しているのかな、と。*2こういったゲーム原理主義って今までにもあるにはありましたが、「面白さ」を取り込むのではなく、排除してしまおうという方向までつきすすむとなるととても珍しいものになります。

 

 さて、どんどんとZOEさんの議論からはずれていき、勝手に話を展開させてしまいますが、「優良なゲーム」をめぐる議論はこのような「ゲームというメディア独自の価値」とそれ以外の「良さ」の基準――例えば「面白さ」でもいいし「社会的な道徳性」といった点でもいいですが――それらとの対にして考えたとき、これは古典的な議論へとつながるかもな、と思いました。*3

 じっさい詩や絵画の価値を、それが現実の世界認識に対して持つ真理性や、現実行動の規範を提示する道徳性に求める考えかたは、ふるくからある。すでにプラトンは、詩や絵画といった模倣の術は、もともと真実在であるイデアの写しでしかないわれわれ人間の経験世界を、もういちど影像として写しとることで、真理をゆがめいつわる仮象として、これを断罪した。これに対してアリストテレスは、人間には模倣をよろこぶ本能がそなわってえおり、しかもこのよろこびは、模倣をつうじて、それが模倣している現実のものがそもそもなんであるかを推論するという、人間に固有の知と認識のよろこびに由来するとして、模倣の術の価値を、現実認識の真理性にもとめる。ヘシオドスは、「われら、ほんとうらしい多くのいつわりをあまた語るを得、はまたまねがわくば、真実を語るを得」というムーサイの言葉をつたえているし、また詩のもつ認識機能の教育的効果については、ホラティウスが、すぐれた詩人は「快楽と有用をいっしょにして、読者を楽しませ、同時に教えをあたえる」と述べている

 このような考えかたは、近代において、芸術がそれまで社会に対してはたしてきた宗教的・共同体的、イデオロギー的効用から独立に、それに固有の価値を主張しはじめたとき、いっそう純粋なかたちで強調されることになる。というのも、すでに見たように、「美しい芸術」というあたらしい概念が、まずは美的な快楽をその共通項として成立したにせよ、それだけでは、これまでの社会的効用に取ってかわる自己主張としては不十分だからである。フランス古典主義による「有用の快楽」説も、このような文脈における自己弁明であった。それがドイツ・ロマン派および観念論による精神の美学のなかで体系化されて、芸術は人間精神による真理把握の特権的な一領域となる。

 現代のわれわれもまた、いぜんとしてこの伝統にたっている。

(西村清和『現代アートの哲学』P74)

 さて、ここで、もう一度振り返って東京都の認定基準を見てみましょう。

>(1)社会の良識と倫理観念のかん養に役立つもの

>(2)正しい知識と教養を深めるもの

>(3)人間的愛情を豊かに育てるもの

>(4)美に対する感覚を洗練し、豊かに育てるもの

>(5)健全な娯楽作品として優れたもの

>(6)思考力、批判力又は観察力を養うもの

>(7)前各号のほか健全な心身の成長に役立ち、福祉の向上に資するもの

 すると、この基準はいかにも西村清和の言うところの「近代」の「伝統」にたっているような気がしてきます。

 (4)や(5)あたりは「美」あるいは「娯楽」といった独自性の範疇ですが、(1)(2)(3)(6)(7)あたりは社会的・道徳的価値であったものが芸術の中にゴリッと融合してしまってる感じですね。

(だからなんだ、という話ではありますが)

[]ZOEさんのコメントについて(2)

>「統計的な評価は現実的には期待できない。たくさん売れたタイトルが有利になる可能性が高い」

 これについては、おそらく統計的評価について少し誤解があるのではないかと思います。

 例えば、統計的にゲームの評価を行っているPlaystation mk2を見ていただければわかりますが

 2004年発売のPS2のRPGについて見てみると、確かに売れ行きの高かった『ドラゴンクエストVIII』はランク「A」で平均点も74点となっており高い評価を得ていますが、それよりも注目は『真・女神転生III-ノクターン マニアクス』の「S」ランク、平均点81点となっているところですね。

 多言を要さないと思いますが、単純な得票数で集計するような形の「統計」だけではありません。個々人の評価の「平均点」というものを導入するだけで、「売れたタイトルが有利になる」という可能性は避けられます。

 ただ、ZOEさんの言うような「売れたタイトル/売れないタイトル」がネット調査系の統計手法として問題があるとすれば、マイナーなゲームやニッチな市場に向けたゲームとメジャータイトルを比較した場合に評価者の同一性が保持できないということかと思います。

 シューティングマニア向けの5万本も売れれば十分のタイトルと、ドラクエのような300万、400万といった規模で子供からお年寄りまでやるタイトルでは評価者の傾向が全く違ってきますからね…

 一応、これもCinemaScape/映画批評空間なんかだと、映画ごとに「ゴダール好きの人の評価は平均9点」「チャップリン好きの人の評価は7点」「ジャッキー・チェン好きの人の評価は4点」などと言った形で、評価者の傾向まで可視化できるようにされてます。(ゲームではここまでデータマイニングをやってるところはまだないようですが…)

[]Tatuskiさんのコメントについて

 「ゲームをめぐる議論が影響論で埋め尽くされていくのは嫌だなぁ」「影響関係を中心とした議論からは、ビデオゲーム経験自体がいったいどういったものなのか、といった問いがなされてこない」というのは全く同意見です。

 ただ、「前提を作るための本来ありうる幾多の議論が日の目を浴びなくなってしまう」というのは、なんともいいかねます。どちらかといえば、その後でTatsukiさん自身がおっしゃるように「そもそもそうした状況が現れるのはまさしくゲームに関する人文・社会科学分野の立ち遅れが大本にある、とも思う。すでに立脚しているものを叩くより、やるべきことは他にある」という認識のほうですかね。自分も

*1:フォルマリズム:「1910 年代半ばから 20 年代末にかけてロシアの若手研究者や言語学者を中心に展開された文学運動。…(略)… 〈文学ではなくて,文学性,つまりある作品をして文学作品たらしめているもの〉こそ文学研究の対象とすべきであると主張した。…(略)…彼らは,それまでの文学研究が文化史や社会史,あるいは心理学や哲学に依拠していることを批判するとともに,文学作品を自立した言語世界としてとらえ,言語表現の方法と構造の面から文学作品を解明しようとした。すなわち,〈何が〉書かれているかではなく, 〈いかに〉書かれているかがまず問題とされた。シクロフスキーの言を借りれば,芸術の目的は事物を異化・非日常化することにあり,知覚を困難にし長びかせるのが芸術の手法である。すなわち〈手法こそが唯一の主人公〉であった。」(平凡社、世界大百科事典より引用)

*2:あ、でも「科学的・理論的にゲームの評価を誤解無く行うことは不可能だと思っている」とおっしゃっているので、そういうことはないのか。

*3:普通は、「面白さ」をシャットアウトしてまで「ゲームそれ自体の良さ」を主張するという方向性は稀有なのでこんなところにつながったりしないのですが

tomoyotomoyo 2005/04/07 19:55 はじめまして。特定ジャンルではCinemaScape−映画批評空間−そのままの
http://erogamescape.ddo.jp/~ap2/ero/toukei_kaiseki/
というページもあります。ネットでその種のゲームについてコメントする層が評価するのでどうしても評価が偏りがち、というか知らない人には入り込めない特殊な情報の集積になってしまっていますが。
私個人は東浩紀氏やその周辺の人たちの議論に感化されて、近しいものを取り扱っているジャンル、「ライトノベル」やアニメーション、映画、漫画などとの対比や互いの影響のされ方から見えてくるズレに興味が向いています。それらは『ゲームというメディア独自の「良さ」』に近いかもしれないな、と勝手に想像し書き込む次第です。

hiyokoyahiyokoya 2005/04/07 21:59 tomoyoさんはじめまして。ErogameScapeは興味がさほど重ならないためあまり利用したことは無いのですが、たしかにゲームレビューサイトで一番統計処理をがんばっているサイトですね。私もユーザー登録まではしたんですが、結局エロゲスケープの書き手/読み手たちの文脈と比べると自分はかなり外れた位置にいるような気がして何も書けずにおります(笑)

>近しいものを取り扱っているジャンルとのズレ
自分の実感としてはわからないだけに、とても興味深いです。よろしければもう少し具体的にお伺いしたいです。

tomoyotomoyo 2005/04/09 03:46 >ズレ…例えばビジュアルノベルなどの「読むだけ」のゲームとも言えないようなゲームがメディアミックスでアニメ化され漫画化される際に生じる変化、などでしょうか。順当に考えれば一本道のシナリオでそのまま別メディアに転換できそうな話が、実際には違和感を感じるほど変化してしまうのは何故だろう、といった。分岐シナリオの構成の意味など。あるいは、FFの映画がゲーム内のムービーであって映画ではない、とされるときに、ゲーム内ムービーは前後の繋がりや意識の置き方が映画と異なっていて、そのために映画的な演出や作画を真似ながらも別のものになってしまっているのではないか、と考えながら見たりします。映画でカットを割っていくのは当り前でも、ゲームのムービーでは頻繁なカット割は(動画を作るスタッフにもよるけれど)あまり好まれない、といった印象を受けます。直近ではエロゲーの「AIR」という作品があって、映画版とTVアニメ版の差が極端なのですが、そこにも映画的な画面作りとゲームを意識した画面作りとの差が見える気がします。具体的にはTV版だとAVGのキャラクターバストカットの構図を意識したようなカットが多用されているように感じますし、実際、TV版スタッフのインタビューではゲーム世界の完全再現を目指すような発言が見受けられます。そして、個人的には映画版の画面のほうがノーマルで、TV版のほうがやや特殊に感じられます。

hiyokoyahiyokoya 2005/04/09 12:14 tomoyoさん、ありがとうございます。
TV版AIRは友人に最初の一話を見せられたので見ましたが、あれはびっくりする映像作りですね。現状だと単にAIRのTV版がひどく奇妙なものに見えるという現象でしかないようなところもありますが、今後あの類の映像作りが継続的に受け入れられる土壌が形成されるとなると面白いですね。

それと気になったのが、tomoyoさんが「ライトノベル、エロゲー」界隈の特殊性というよりも、「ゲーム一般」とその周辺メディアというレベルで考えていらっしゃるようなところです。(#別にそれが悪い、という意味ではありません。)
「ファウスト」「新現実」のときの東さんたちの議論を読んでいても思ったのですが、コンシューマーのゲーマーからすれば90年代中盤以降のノベルゲームの存在はまあまず特殊なものとして映るのですけれども、コンシューマーゲーマーの側から「おまえらは特殊だ」という眼差し(※過去には「ゲェム右翼」というサイトが代表的なものとしてありました)はあっても、ビジュアルノベルのゲーマーの側から逆に「我々はコンシューマーの連中とは違うんだ」というような立ち位置を見出そうとしている方が少ないのはなんでなんだろうな、と。(#私の印象論に過ぎないといわれてしまえばそれまでですが。)

tomoyotomoyo 2005/04/10 00:35 >90年代中盤以降のノベルゲームの存在はまあまず特殊なもの
ビジュアルノベルゲーマーを代表することは出来ませんので想像するだけですが、おそらくは「他のジャンルのゲームもやっている」からではないでしょうか。それに、ゲーム性の有無という言い方で指摘されるそれらの違いは、追究するほど不明瞭になっていくものですし。シューティングの攻略を自力で開発していく人と雑誌記事に頼って攻略していく人、RPGをゲームとみなさない人、そもそも一人用コンピューターゲームはゲームではないと言い切る人、それぞれのゲーム観は統一不可能なほど分散しているはずです。
私個人で言いますと「ビジュアルノベルは最早ゲームではない、新しい物語メディアだ」という大雑把な考え方で書かれたノベル物のシナリオを10も20もプレイした結論として、そのように明確にゲームとしての性格を排除することは不可能であり、どこかで破綻が生じてしまう、と考えるようになりました。といいますか、小説や映画といった各種メディアもまたゲームのひとつのバリエーションとして捉えたほうが判りやすいのではないかと言うこともあります。極端な物言いではありますが。

hiyokoyahiyokoya 2005/04/10 02:16 おはやいお返事ありがとうございます。

ゲーム観の分裂についてはその通りだと思いますが、

>小説や映画といった各種メディアもまたゲームのひとつのバリエーションとして捉えたほうが判りやすいのでは

このゲーム観は自分がいままで聞いた「ゲーム」観の中でも一番扱ってる範囲が広くて、とても面白いですね。基準を想像するに、「学習」とか「入出力」とかそういうあたりが「ゲーム」の基準なのでしょうか。

tomoyotomoyo 2005/04/12 00:06 遅くなりました。私のゲーム観ですが、以下は電波と思って適当に流してください。
私が思うゲームの基準は、まず閉じた系というイメージ。そしてその中に「私」がいる。意思、意志、自意識、のようなもの。この「個人」の感覚はゲームの感覚と一体で切り離せないと思っています。コスティキャンがゲームとは意思決定であると言うのなら、私は意思決定とはゲームであると言います。
ただ、閉じた系を実際に維持するのは中の私だけでは不可能ですので、実際には私がいるその場を閉じた系として認めて維持する外の私もいる。その両方の私がバランスをとって成立している状態がゲームなのではないかと。
ですから、ゲームを遊ぶ際に、ゲームのルールを理解しシステムを見抜きそれに対応していく過程というのがゲームを遊ぶ楽しみ、ゲーム性としばしば言われるのですけれど、それは「系の外にいる私」を感じ取る手段ではないかと思います。外にいる私が見出した閉じた系の中で、私は動く。動いていくことでしか中の私は認識できない。けれども中の私が動くことで、あるいは他の諸要素で、系は揺らぎ分解しようとする、そこで再び外の私が系を再認識する、その繰り返し、もしくは同時進行。
大体、そのような見え方です。ですから、「本の読み方」「映画の見方」が揺るぎないものとしてフォーマット化されているとき、外の私はいないのですからゲームではない。
ではコンシューマーゲームのようにパッケージ化されたゲームはどうなのかといったとき、閉じた系の概念が形を得て一人歩きしていくイメージを私は持っています。RPGで提示されるファンタジー世界、かつて、超過去のアトランティス大陸、超未来の人類入植惑星などの説明で現実と連続していることが提示されてきた過去の小説のヒロイック・ファンタジーと異なり、現実とは全く重ならない切り離された世界として認識される、おそらくは過去の誰もそのようなことは考えなかったであろう(このへんは修辞)別世界という概念が、一般的な「ゲーム性」から次第に離れて多くの人に共有されていった、それと寄り添って成立しているのがRPGやノベルゲームであるという考えです。もちろん、閉じた系(別世界)の内側に自分がいるという感覚を得なければゲームとして機能しないので、ゲーム的な機構(コマンドを選ぶ)を必要とする。
そのようにして見れば、選択肢のないノベルゲームとして話題になった「ひぐらしのなく頃に」もまたコンシューマーゲームの正当な延長上にあると言えます。推理小説の形式はゲーム的な機構のひとつですが、ゲームであることを保証するシステムそのものではありません。舞台となる山村の閉鎖性や公式ページの掲示板や「世界観を共有」する周囲の人々(この世界観なる言葉が特殊で、かつ大事なのだと思います)などにより閉じた系を見出し、その中にいることで「ゲーム」が見出される。
長くなりましたが、以上です。

hiyokoyahiyokoya 2005/04/12 15:56 たいへん興味深いゲーム観です。確かに極度に抽象的なメタファーが多いので理解はしにくいですが、特に「電波」とは思いませんのでお気になさらずに。
 あえてtomoyoさんの議論を既存の概念で捉えようとするならば、西村清和の遊び論あたりが近いでしょうか。
 「閉じた系」という概念が理解しずらいですが、私の言葉で言い換えると、
(1)ゲームのルールによって支配された特殊な場所がまず存在していて
(2)「そのようなルールによって行動させられる世界認識を内面化(主体化)した私」というようなものが認知している世界像 がtomoyoさんの言うところの「閉じた系」
(3)そして
 (A)未だ内面化/認知されていない、その外側の可能性
 (B)および、認知の外側にある私と、それを内面化―認知してとりこんでいく私、の両者を同時に統合的に観察するメタな私
 という二つをまとめて「外の私」と呼び、
(4)(2)の概念の中心を成すものを一般的なゲームに関わらず「別世界」という基準によって拡張する。そこでは「一個の世界認識の成立が図られると同時に、それはまた分解され、そして再構築がなされる過程」

 これをゲームと呼ぶ、ということでしょうか。(#私のコメントもわかりにくいですが…)

tomoyotomoyo 2005/04/12 22:50 ありがとうございます。
(1)(2)については近いと思います。ただ「ゲームのルール」は、現実には細部で微調整しながらでなければ成立しないものですから、ルールによって支配された、という言い方が微妙に馴染まない。そこを特殊な場所にしようという意識が随時フォローしてようやく成立する。ですから(1)と(2)は同時的であるはずです。
(3)の(B)のようなメタな私は、中の私と外の私のそれぞれにあって、さらにそれを統合するメタな私というのは宗教的であったり近代的であったりする哲学の領域の「私」になってしまうと思います。その場所が「中」か「外」かを判定するのは事後的、事前的な判断ですし。
(4)は大体、その通りかと思います。ただ、やはり一般的なゲームというのも言葉として使い辛くて、将棋を指すのは一般的にはゲームですけれど、これも指し手の実力差で「ゲームではなくなる」こともありますし、あるいは将棋盤や囲碁の盤面を宇宙だ世界だ人生だと喩える言い方もありますし、そのあたり、どうしても私からすると線引きができず、抽象的な言い方になってしまいます。
…だんだん抽象の度合いが酷くなってきたので少し別の話題を。「戦争における「人殺し」の心理学」という書籍はご存知でしょうか。実戦における兵士の低い発砲率や殺人を避けたがる実際と、それを改善するための訓練や心理ケアについて述べているのですけど、全体にかいまみえる文章の煮え切らなさはさておき、終章でゲームやTVメディアについても述べています。大雑把に言えば最近の若者は殺人ゲームなどで「訓練」され「引き金が軽く」なるといった趣旨です。ゲーム規制の側からの理論書の端になるかと思いますが、参考文献一覧に見当たらなかったので挙げておきます。

hiyokoyahiyokoya 2005/04/13 17:40  わかりやすい解説ありがとうございます。だいたい了解できたような気がします。あとは、そのような概念を採用したときにどのようなことが明らかになるのか、あるいはその概念を採用する上での利点がどのようなことなのか、という部分でノベルゲーム的なものを説明する以外ではどういう議論が展開できそうなのか、そこの部分がちょっと想像つきにくいところでしょうか。
 『戦争における人殺しの心理学』はhttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480088598/250-1826844-1734653 ですね。面白そうです。学芸文庫ぐらいならちょうど読みやすそうですし、読んでみます。ご紹介ありがとうございました。

tomoyotomoyo 2005/04/15 23:05 >その概念を採用する上での利点
正直、わかりません。ノベルゲームでは、テキストを「中の私に向けてのテキスト」「外の私に向けてのテキスト」「両者に向けてのテキスト(境界のテキスト、いわゆる物語)」の3つに分けるという考え方で分類することで、どれも同じと思われている「シナリオ」からゲーム的な要素を捉えられ、さらにはシナリオライターの思想的な流れも見出せるのではと考えています。
ノベルゲーム以外ですが、例えばテキストを記号のバリエーションのひとつとして捉えるならば、同じ考え方でグラフィックや音などの表現や、キャラクターやゲーム内貨幣などの種々のゲーム内で使用される記号の分類もできる、かもしれません。技術の要請から来たBEEP音やドット絵(外の私への記号)が物語(境界の記号)として受け入れられて、世界観(中の私への記号)に組み込まれる、という言い方をすれば、割と当り前の話をしているのではないでしょうか。
ものすごく飛躍しますけれども、ポリゴンという三次元描画の技術もまた記号の一種であるには違いないわけです。それが「空間」という記号として見出され物語化されると、三次元空間という「世界観」が共有されるようになり、そうした世界観を前提とした創作や消費が行われるでしょう。ここで上の「AIR」の話に繋がります。

hiyokoyahiyokoya 2005/04/18 23:20 >割と当り前の話
たしかに、普通に理解しやすい話ですね。
ただ、そこまで一般化してしまうと、逆にtomoyoさんのゲーム観の持ち味が損なわれてしまっている気もします。
ともあれ、コメントが長くなりすぎてきましたので(笑)よろしければここらへんで。