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Critique of games - メモと寸評


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『PLANETS vol.7』第二次惑星開発委員会/宇野常寛編,2010 所収
「ゲームと物語のスイッチ」ほか


『早稲田文学増刊U30』早稲田文学会,2010 所収
「認知的作品論」


『Review House 03』レビューハウス編集室,2009 所収
「批評」としてのゲーム実況動画―「反復性」の破壊と「一回性」の発生 / 黒瀬陽平(司会)×石岡良治×井上明人×濱野智史


(Chris Bateman,Richard Boon,松原健二(監訳),岡真由美『「ヒットする」のゲームデザイン ―ユーザーモデルによるマーケット主導型デザイン』オライリー,2009 所収 
「ゲーム市場の生態系とネットワーク構造の変化をどう捉えるか」

ユリイカ2009年4月号 特集=RPGの冒険
『ユリイカ2009年4月号 特集=RPGの冒険』青土社,2009
「リテラシーという解釈システム」


『未来心理 vol.13 』モバイル社会研究所,2008
「遊びとゲームを巡る試論-たとえば、にらめっこはコンピュータ・ゲームになるだろうか」
[ ! ]リンク先PDFファイルです。


ユリイカ2008年9月号 特集=太宰治/坂口安吾 無頼派たちの“戦後”
小島秀夫インタビュー(聞き手=井上明人)「ゲームという戦場から見た世界――『MGS4』という挑戦」


ユリイカ 特集=任天堂/Nintendo
「宮本茂をめぐって―コンピュータ・ゲームにおける作者の成立―」

その他の仕事リスト

2005.07.17(Sun)

[]「死の表現」をめぐって

 昨日に引き続き、大手ニュースサイトに死の表現が「ネタ」カテゴリーで取り上げられ*1、あわせていろいろなところから言及いただいているようなので、ご紹介を兼ねてちょうどいい機会なのでダラダラと書きます。

 長文ですが、あまり推敲とかしてないので読みにくかったらすみません。

ドラクエ「あなたはしにました」

 漂流皇室のミレマさんの、ドラクエの露骨さに驚いたとかというのをはじめ、「あなたはしにました」のインパクトはすごかった!というようなコメントをいただいたのが半分近かったです。印象深かった一言コメントは(D.B.E三二型)さんからDQ2「おお ×××!しんでしまうとはなさけない…。」によせられたコメント↓

「情けない」程度で片付けられる幸せと矛盾。

的確な指摘です(笑)

FF「せんとうふのう」

 あとは、FFの「せんとうふのう」に関するご意見がいくつか見られました。特にまとまった形で言及していただいたのがid:Iron-9さん

http://d.hatena.ne.jp/Iron-9/20050716#decease

ゲームにおける死に関しては、ひとつよく覚えているものがある。何年か前、『ファミ通WaveDVD 2003年10月号』でやってた『ファイナルファンタジー10-2』特集で、読者から募集したやり込みビデオを出演者である松本まりかさんが編集者のあらじ谷塚さんと一緒に審査するというコーナーだったんだけど。その中の、レベル1のユウナだけでゲームを進めるというやり込みで、最初の戦闘でパーティーのユウナ以外のキャラクタを戦闘不能にするというのがあった。そのビデオを見終わって、松本さんが「リュックもパインも死亡させちゃうところが、ちょっと極悪ですよねー」と言うや、あらじさんが「死亡と言うか、戦闘不能状態……」と言い直していて。それだけのことなんだけども、見てて衝撃的だった。「死亡って、言っちゃいけないんだ」と。普段RPGやらんからあのジャンルでの言葉の使い方というものを知らなかったのだけども、ああそうなのか、と。あの作品では死は隠蔽されているのか、と。

 それは確かに衝撃的で面白い話ですね。

 ファミ通の編集者とかに対して…というか業界全体レベルでそういった暗黙の制約ってどの程度の保たれているのでしょうね。実際に、そこらへんの表現について厳しく言って回っている特定のメーカーとかが存在するという話は聞いたことがありませんが、そこらはんは誰が取り締まっているわけでもなく、なんとなくの「おやくそく」として、いつのまにかそういう自主規制(?)のようなものが成立してるんでしょうか。わかりませんが。

「隠蔽」の評価をめぐって #01 理論編?

同じくIron-9さんより

 例えば『グランド・セフト・オート3』なんかは、残酷なゲームの代表みたいに言われていて、なるほど、車を盗んだり、通行人を殺したり出来る。でもさ、殺せはするけど、その行動に対してはちゃんとペナルティがあるんだよね。あのゲームの世界では現実同様に警察というものが存在して、犯罪を犯しているところを見つかるとしっかり犯罪者として追われ、悪事を重ねるごと上がる指名手配反としてのランクに比例して警察の追及の手も厳しくなっていく。それに対して、日本国内では人気のジャンルとして楽しまれているRPGはどうなのか。敵を撃って、斬って、殴って、叩いて、焼いて、感電させて、凍らせて。で、経験値やお金やアイテムなんかの、戦闘の報酬を得て終わり。

 死を巧妙に隠蔽することで低年齢のユーザーでも気にせず遊べるようになるのは分かるのだが、でも、「隠蔽してはい終わり」でいいのか? 製作者が「これは死んでいるわけではありませんよ」と言えば、それでいいのか? プレイヤーの操作によってキャラクタが取っている行動は同じで、暴力には変わりないのに、その行為に対する現実的な結果を隠蔽することが、直接的に描くよりも良いことなのか?

 90年後半の低年齢向けユーザーに配慮したコンシューマー市場の「死」の表現について、「隠蔽」でしかないとして評価してしまうのならばIron-9さんのこういった議論は非常に妥当なものだと思います。

 ただ、問題はここで議論になっている「行動」の中身がどのようなものなのか、という点にも焦点があてられてよいのではないでしょうか。たとえば、該当記事のコメントでも少し書きましたが、ゲーム中の命の表現について低年齢向けユーザーを抱え込みながらも一番露骨にものすごい表現をやってしまっているのは、旧エニックスの『ドラゴンクエスト』シリーズの「××はしんでしまった」であるとか、任天堂の『スーパーマリオワールド』にある命の交換をしてしまうシステムだというのがあります。「命を一番粗末に扱っているゲーム」というだけならば神奈川県によって有害図書指定をうけた『GTAIII』よりも『スーパーマリオワールド』のほうが100倍ものすごいことをやっているわけですね。たとえば、『GTAIII』では人を殺せば一応は警察に追われるわけですが、『スーパーマリオワールド』では実の兄弟から命を奪っても、一切罪に問われることはない(笑)

 ただ、ここで起こっていることは何なのかと考えると、本当に任天堂やエニックスが人命というものを軽く考えているのだ!とか、そういった問題ではなさそうです。ここで、任天堂やエニックスがこういったラディカルな命の表現をしてしまう、というのは命に関わる表現の顕在/潜在だとか、命を軽く扱う/扱わないといったこととは別の観点からなされているものだろうと思うのです。

 それは、おそらく*2(1)ビデオゲームを小説・映画・漫画などと連なる「表現」のメディアだとして捉えるのか、(2)それとも「勝ち負け」などを競う「試合」のようなものとして捉えるのか、といったことではないでしょうか

 前者では一般的にいえば、「死」をいかに厳粛なものとして表現するかに重点がおかれ*3、後者において「死」は単なる「試合の勝ち負け」を表現するための便宜的な言葉にすぎないという側面があります。つまり、そのような「ゲーム」観のもとでは、「死」という表記は、対戦相手の「GAMEOVER」「LOSE」といった言葉によっていくらでも置き換え可能なものとして捉えることができます。

 そのような「試合」という観点をベースにすえた場合、ゲームの中における「命」はあくまで「試合」のシステムにおける一つの道具、資源でしかなくなります。そして、「試合」としてゲームを捉えるという観点は、決して現実的な日常世界*4における倫理的基盤を崩壊させようとするものであるよりは、勝ち負けの世界の論理を日常の世界からスッパリと分離してしまうことによって日常の倫理的基盤を強力に下支えするようなものですらあるはずです。任天堂やエニックスが堂々と命を粗末に扱ってしまう感覚は「ゲーム=試合」として捉えるような伝統的なゲーム感*5を下敷きにしている限りにおいては、まったく問題なく道徳的なものであるといえます。*6

「隠蔽」の評価をめぐって #02 FFを題材としたケーススタディ?

(以下、FFシリーズについてのネタバレ含みます)

 さて、ここまでは『スーパーマリオブラザーズ』と『ドラゴンクエスト』に対する話だったので、もう一度『FFX-2』に対して投げかけられたid:Iron-9さんの疑問を、少し広めに再定義して考え直してみたいと思います。

 「90年代後半における低年齢層を含むコンシュマーソフトの間――今回はSFC以降のFFシリーズ*7――で、死の表現に対してやわらかな自主規制をかけていったことは結局ただの隠蔽にすぎないのではないか。」と。

 これに対して、さきほど述べたような観点から実質的に*8NPCやPCが死んでるのか、死んでないのかといったことを切り口として、基盤となっている「ゲーム」観は、<表現としてのゲーム>であるのか、それとも<試合としてのゲーム>であるのか、をみていくことにします。

 とは言ってもあまりに詳細な議論をしていても日が暮れてしまうので、結論から言ってしまうと、「表現」か「試合」かという点についてFFシリーズはとても微妙な立ち位置をとっています。

 周知のように、FFシリーズは、伊藤裕之氏あたりを中心に、「面白さ」の強度をどんどん上昇させようとゲーム内独自論理としてしかありえないような複雑なバトルシステムの実装が行われていったシリーズです*9。この点では、ゲーム内世界=現実の模倣、表現とかっていうよりは、ゲーム=試合というような観点を下敷きにしているといえそうです。また、FF5ギルガメッシュや、FF6のオルトロスのように、戦闘に勝ったとしてもシナリオ上で彼らが「死んだ」ということにはならないようなキャラククターも出てきますし、逆に対ボス戦でプレイヤーキャラクターが殺されても圧倒的に強すぎるような敵ボス戦については負けたとしてもシナリオが進行し、死んだことにならないというようなこともしばしば出てくることになりました。これは、90年代に日本のRPGをある程度やっていたプレイヤーならごく当然のように知っている「おやくそく」です。

 しかし、逆にFFシリーズにおける「死」の取り扱い方が、試合の論理よりも表現における論理を重視してきたというような点も見受けられます。開発スタッフとして一部では強烈に恨まれると同時に熱狂的な憧れの対象ともなっている野村哲也氏の発言を引用します。*10

野村:本当のところをいうと、『FFVII』のテーマは「命」だったんです。坂口さんから「命をテーマに描く以上、生と死を描かなくちゃいけない。とくに死を描かなくちゃいけない」という指示があった。キャラクターの死で、プレイヤーに痛みを感じさせたかったんですね。そうするとヒロインのエアリスの死を描くのが、一番痛くて、重いわけです。ならば、その死をちゃんと描くためにも、エアリスの死を表現することになりました。

 このような発言*11にも明らかにみられるように、FFシリーズは明らかに「試合」としてのゲームのロジックだけではなく、「表現」としてのゲームのロジックによっても作られている作品です*12。二度と生き返ることのないプレイヤーキャラクターの「死」が実際に表現されたり*13。そして、シナリオの中で敵が生き返ったり死んだりを繰り返すわけですが、ここで着目したいのは登場人物や敵がいかなるときに死に、いかなるときに生き返るか、ということです。ラスボスと戦っても、本当の最終決戦になるまでラスボスを倒すことはできないし、味方が死ぬ場合もプレイヤーの行った戦闘の結果として味方の死が決定されるということがないというのは先ほど書いたとおりです。そのような形で「戦闘」と「死」のほぼ完全な分離という仕様の設計*14は、戦闘を純粋な「試合」として成立させているのと同時に、「死」の問題を完全にシナリオ側の優位によって――「優位」というの、たとえば、エアリスの死はプレイヤーが戦闘でどうあがこうが変えられないし、ラスボスが死ぬ時期を決定するのもプレイヤーによっては変えられないという形で――決定するようなものになりました。

 このような状況下においては、「殺害行為の実際」は個々人のプレイヤーレベルで、そのリアリティを問うていくしかないのではないか、と思えます。もはや、実際に敵を殺害するか/しないか、というような決定権はプレイヤーには委ねられていない。その中では当然のように、敵を「殺害」するという意識をほぼ完全になくして、「戦闘における勝ち負け」と「シナリオにおける死/殺害」といった二つの事柄をまったく別の次元の問題として処理しているプレイヤーたちの姿―――たぶんそのような感覚こそが90年代以降の日本のRPGプレイヤーたちの実感なのではないでしょうか*15。少なくとも私はそういった感覚の中でしかFFをプレイできていません。ファミ通の某編集者のように「死んだ」をわざわざ「戦闘不能」と呼びかえるほどの神経質さを持たずに、「死んだ」という言葉を「負けた」という程度の意味において気兼ねなく口に出してプレイしている――それが1980年生まれのゲームプレイヤーであるわたしにとっての『FF』の戦闘における「死」のリアリティですし、それはまったく特殊なものでないはずだ、ということを特に力を込めるまでもなくフツーに信じています。

 ただ、私のような感覚が一方にあるとしても、それが全てではないこともまた事実です。id:Iron-9さんの議論は、ゲームの戦闘における「死」が試合としての「負け」ではなく表現としての「死」の延長線上にあるのならば、それをムリヤリ隠蔽するような仕方は、「汚いものにはフタをしろ」というだけの極めておろかな対処にすぎないのではないか、という批判でした。それは、もちろん戦闘における「死」のリアリティが「敵を本当に殺害するということのリアリティ」*16とは完全には切り離しえない限りにおいて有効な批判となりえます。ですが、『FF』をはじめとする90年代の主要なRPGにおけるリアリティは、「汚いものにはフタをしろ」というよりも、それが本当に汚いものなのかどうなのか、行為の汚さのレベルを意味不明な形に落とし込むことで、そこにフタがされているのかどうかもよくわからない状態にしてしまったのではないかと思います。

 そして、このような戦闘とシナリオと「死」の結びつきを意味不明な形に落とし込むという『FF』のやりかた*17をどう評価するか、というと曖昧な対処法でしかないという限りにおいて(ものすごくダメっていうわけじゃないですが)これを全肯定するべきだとも思いません。これは単なる「隠蔽」以上の、スクウェア*18が、苦心の末に編み出した苦々しい方法だったのだろうと思います。だがこのような形で「死」と「戦闘」の関係を曖昧な形で提示している限り、『FF』という作品のとった決断を評価するには最終的にはプレイヤー一人一人の中でいかなる形で作品の受容がなされたのか、ということを丁寧に明らかにしていくしかないのでしょう。

以下、一応の説明図

追記:この記事によせられたコメントなど

id:samonaさんより

レミングス(試合)→ピクミン(表現)という「進化」があっても、逆がないのは何故だろうとふと思った。

なんとなくはおっしゃりたいことはわかるのですが、なんとなくわからないので詳しく解説キボンヌ。

*1:「ネタ」なんですね。やっぱり…ええ。ネタとして扱っていただければ本望!でも、「X51.ORG : 馬のペニスにアナルを突き破られて死亡 米」http://x51.org/x/05/07/1605.php としょっちゅう並列されいているのはビビりました。いや、まあ、単にいま流行りのニュースということなのでしょうが。ええ、うちのサイトはそのカテゴリーなのだということで。

*2:「おそらく」でしかないわけですが。

*3:と言い切ってしまうのにも実はけっこうためらいはあったりします。たとえば、映画であろうが、教養の証として権威付けされているような古典の小説であろうとも、英雄譚などにおいては、英雄が人を敵をバッサバッサと切っていくという行動原理がごく当然視されるたりするものなので、もっと厳密に言えば、その作品ごとの中でいかなる行動原理が当然の前提として置かれているのか、というようなところが「死」の表現にとっての大きなガイドラインとして存在しているような気がします。「死」の表現はそのように前提とされたガイドラインの<内―外>の境界線上で常に行われていて―――例えば、驚くほど敵を殺すことに対して無頓着であるような英雄譚であっても、「敵の死」というガイドラインを潜り抜ける「身内の死」とくに「身内の非戦闘員の死」とかだけは別の問題として扱おうとする志向性が見られたりするといったことがあるので、小説だから、ゲームだから、というようりも、その作品が「死」に対するいかなるガイドラインをはじめに設定しているのか、という問題のほうが実は重要かもしれません。ただ、今回はその話まで含めて話をすると議論に収拾がつかなくなりそうなので、若干の単純化をお許しあれ。

*4:⇔非日常、祝祭空間としてのゲーム、遊びの世界、というような意味で使っています。実際には、ゲーマーにとってのゲームはまぎれもなく日常的な行為であるわけですけれども…まあ、そこのところの言葉遣いはなんとなくで了解していただければ。

*5:もちろん、「もっと」伝統的に言えば、敗北は死に結びついていたじゃないか、ということもあります。古代からスポーツの発祥史をさかのぼっていけば、そこに血なまぐさい状況がからんでいたという経緯はあります(たとえば松井良明『近代スポーツの誕生』を参照)。が、となると、問題はテレビゲームだけではなく、野球やサッカーも問題にしなければならなくなり……そういうことはここで目指されている議論ではないでしょうから、省きます。

*6:だいぶ前に、GTAIIIが私にはあんまり面白くない、と書きましたがGTAIIIが私にとってあまり面白くないというのも、GTAIIIが下敷きとしているような「犯罪者」としての行動原理をプレイヤーである私自身の感覚に組み込むことができないからかもしれません。「犯罪者」の物語は映画・漫画・小説等でそれなりの数を見て楽しんでもいますが、自らが犯罪者として行動するという行動原理はやっぱり感覚としてついてゆけず、ただ単に「殺す」ためのロジックの欠如した――つまり「敵」でもなんでもない一般市民に対して殺人を行っていくという行為にはどうしても違和感を否めませんでした。

*7FFTとか、FFCC、FF11はまた微妙に違ってくるので今回は除外して考えます。厳密にはFF4,5,6,7,8,9,10,10-2の8作品。売り上げ合計にすると軽く1000万本越え。

*8:この「実質的」という言い方もカナーリ微妙ではありますが。まあ、物語上で死んだことになってるのか、どうか、程度の意味で捉えてください。

*9:アビリティシステムとか、マテリアとか、ジャンクションとか、魔石とかATBとか…

*10:『ゲームマエストロ vol4』P126-127 インタビュアーは志田英邦

*11:ちなみに、その直後にこう続きます「●志田:ロールプレイングゲームにおいては、全滅すると普通はゲームオーバーです。だから、またやり直す。つまり、プレイヤーにとって死はやり直しがきくものなんですよ。にもかかわらず、『FFVII』のストーリーの中には絶対やり直しがきかない死がある。そこにプレイヤーは反発していたんじゃないですか。●野村:登場人物が死ぬというのは、ロールプレイングゲームではありえない展開ですよね。だからこそ、死がダイレクトに伝わる。エアリスの死が唐突だという意見もあったんです。でも、あえてそうしてあるんじゃないでしょうか。突然やって来る死の哀しみ。あれも離しておきたかった、あれも伝えておきたかった、後悔する哀しみ。それが表現されているんだと思います。」とのこと。見事に「試合」としてのゲーム観と、「表現」としてのゲーム観のミスマッチをたずさえたまま対話が進行していっているという印象を持ちますね。志田さんのつっこみというのは、「表現」としてのゲーム観としてよりも、「試合」としてのゲーム観の中で反発が起きたのではないか、と質問しているのに対して、「いや、表現がやっぱ…」という言うだけというこのミスマッチ。

*12:激しく蛇足かもしれませんが、作られている=成功している という意味ではありません

*13:FF5のガラフや、FF7のエアリスなど

*14:ここではFFの話しかしていませんが、FFを中心にしてメジャーなRPGの多くがこのような仕様でした。また、http://www.critiqueofgames.net/data/statistics/dead.htmlのほうで書きましたが、全てのRPGがそうだったというわけではありません。

*15:これは本当にきちんと調査する人がいるとよいですね。ここまでの議論はなんだかんだ言っても私の推測の域を出ないといわれてしまえばそれまでなので

*16:これって説明が難しいですね。「二度と生き返らないこと」とでもとりあえずしておきましょうか

*17:それは多分、そこまで自覚的に全てがなされたものではなかったとは思いますが

*18:現スクウェアエニックス

ミレマミレマ 2005/07/18 23:50 松本まりかのFFにおける「死んだ」と「戦闘不能」の違い、というのは面白いですね。

戦闘でHPが0になるのを「死ぬ」とすると、ファイアーエンブレムみたいなゲームでない限り、「生き返る」って作業がどうしても必要になってしまいますもんね。

ドラクエはそれでいいんでしょうけど、FFなどの場合、映像、人物のリアルさみたいなのを追求してるところがあるから、死人がむやみに生き返ったりするのは、世界観を壊すと考えたりもしたんでしょうかね。

ただ、剣だ銃だで、化け物と本気バトルをしているのに、絶対に死なないってのはリアルさに欠けますよね。

坂口氏の「生と死のある世界」と言うのは分かりますが、どうしても何かしらの矛盾を抱えてしまいますね。
難しいなー、と思いました。

hiyokoyahiyokoya 2005/07/19 07:51 >世界観を壊す
どうなんですかね。そのような世界観の統一性の問題ももちろん大きな問題ですけれども、坂口さんは素朴なところのある人のようなのでベタに相田みつを的な「感動」みたいなものをFFのフォーマットでやりたかっただけのような気もします。

hallyhally 2005/07/19 19:02 死の表現ははたして「おとなしく」なっていったのでしょうか? そういう意図がまったくはたらいていなかったとはいいません。しかしことロールプレイングゲームにおいては、まず「明示的に死んだはずのキャラクタが甦る」という「ウィザードリィ」以来の矛盾からのゆるやかな脱却として、死の表現の婉曲化を捉えるべきでしょう。「ドラゴンクエスト」式の「勇者だから死んでも生き返る」という論法は、本来それほど幅広く応用できるものではありません。主人公が普通の人間という設定の場合、生き返りの発生を無理なく納得させるのは大変なことです。そのあたりの辻褄あわせに苦労しているゲームは、ファミコン時代にさえ数多くありました (ケムコの「ホワイトライオン伝説」にはいろいろな意味で驚かされたものです)。少なくともデザイナの立場では、これは表現よりも先に解決しなければならない問題です。ノンプレイヤキャラクタの死は、そうしなければ意味あるものになりにくいわけでもありますし。「おとなしい」死の表現は、少なくとも最初はそうした要求から生まれたといえます。自主規制があったとしたら、それはプレイヤまわりの死ではなく、敵の死に対してでしょう (「〜を殺した」という表現には今も昔も滅多にお目にかかりません)。

ルール上の死とシナリオ上の死の狭間はどこにあるのか、というのは、いまJesper Juul氏も研究している課題ですね。まだ導入に過ぎませんが「マリオにはなぜ命が三つあるか」という彼の最近の考察が興味深いです: http://www.jesperjuul.dk/ludologist/?p=192

hiyokoyahiyokoya 2005/07/20 01:03 hallyさんコメントありがとうございます。
>婉曲化を捉えるべき
そうですね。そのような捉え方も充分に妥当な観点だと思いますし、自分も単なる自主規制にすぎないというようなことだとは思っていません。僕のいいたかったのは、「隠蔽か否か」というよりも、hallyさんの言葉を使えば、「婉曲化」とも捉えられるような点が「ルール上のの死」「シナリオ上の死」のごった煮状況からも捉えられるのではないか、というようなことですね。

>自主規制があったとしたら、敵の死に対して
なるほど。確かにおっしゃるとおり、「敵の死」に対してはそのような規制があったような雰囲気は濃厚です。

>http://www.jesperjuul.dk/ludologist/?p=192
ありがとうございます。相変わらず英語は苦手だったりするのですが…いまから読んでみます!

samonasamona 2005/07/20 23:35 どうもこんにちは。本当にふと思っただけのことなんですけど、
たとえば、どちらかというと「試合の勝ち負けの結果」として「死」を捉える傾向の強かったレミングスに対して、より豊かな命の「表現」を吹き込んだのがピクミンであったように(レミングスに命を感じた人も少なからずいたとは思いますが)、「試合の勝ち負け」ではなく「メディアとしての表現」として「死」を取り扱うほうが、ゲームの正しい「進化」である、とするような価値観が強いと思うんですよ。
これは生死の表現だけに留まらず、ゲームの中で何かこう、「人間」や「生命」のような、ウェットなものを「表現」していこうとする流れがあって、確かにそれもそれですごく魅力的なんですけど、果たしてそれだけがゲームの「進化」なのか、もっとドライな「試合」としてのゲームに価値はないのか、というと、ちょっと疑問だったりするんですよ。
本当にふと思っただけですけど、そういうことです。

hiyokoyahiyokoya 2005/07/21 01:39 こんばんわ。なんだか無理強いさせてしまったようですみません(笑)
しかし、なるほどsamonaさんのその疑問の持ち方はとても面白いですね。整理しつつ極端に言い換えれば

A.「試合としてのゲーム」よりも「表現としてゲーム」みたいなもののほうが価値を認められるっつーのはどういうことよ。まったくもって、それって狭量な価値観なんじゃないの?(価値の問題)

B.「試合」→「表現」という流れはあっても、「試合」←「表現」という流れは不可逆なのか?それは単なる歴史的な経路依存性の問題でしかないのか?それとも本当に、理論的に不可逆なものなのか?(成立の順序の問題)

という形に整理できそうだな、と勝手に感じました。「A」の側の話も面白そうですが、「B」の側の問題のほうが個人的には興味を惹かれます。単なる社会的なイメージとかの偶然性には左右されない理論的な深みみたいなところに入り込んでいけそうな雰囲気とかがかもし出されているような…気が! します。。。

samonasamona 2005/07/21 05:38 ああなるほど、そう整理して頂けるとすっきりしますね。自分としても「A」「B」両方の含みを持たせたつもりではありましたが、「A」の方は結局立場の表明にしかならなさそうな気がするので、それよりは「B」の方に議論の余地を感じますね。
とりあえず、「試合」というのをもうちょっと別の言葉に置き換えると、漫画とか映画とかにも通じる話になってくるような気がするのですが…

samonasamona 2005/07/21 06:06 こう、有名な「ゲームシナリオ作法」なんかを読んでいると、

『(映画が見世物から芸術的文化財へと進化してきたように)コンピュータ・ゲームもまた、子供相手の単なる電子おもちゃから、豊かな人間的価値を実現するメディアとして育っていかなければならないのでしょうか?』

という一説があったりして、これに対して「A」の立場から発言するならば、『単なるおもちゃとは何事か』ということになるのですが、「B」の立場からこの一説をどのように捉えるかは、かなり意見が分かれる所なのではないかな、と思います。



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