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2003-10-10 グロテスク

ワタクシ「小説」とゆーものを、ほとんど読まない人間ですので、あしからず以下。イキナリ、惑わされないようエクスキューズっすが。(偽善的良心な装ひ)

桐野夏生『グロテスク』

この本、泉鏡花文学賞を受賞したそうな。
『グロテスク』ISBN:4163219501を読んだきっかけは、佐野眞一『東電OL殺人事件』ISBN:4101316333 『東電OL症候群』ISBN:4104369020である。このあまりにも無神経で傲慢な陳腐なリリシズムを妄想展開した自己愛陶酔心情ダダもれの佐野本にハラがたった。容疑者とされてる出稼ぎネパール人と被害者が、ドコまでいっても売買春以外に接点がないように、著者が「堕落のエロス」に思い入れば思い入れる程にリアルから遠ざかる。誰がそんな彼女を殺したのか?といえば、そんなアンタ自身だよ、といっておこう。まーそんな憤懣を友人達とダベッていたら、今度この事件をネタにした小説が出たと推薦された。

もう寂しくて哀しくて誰かに強く求められることでしか自己承認を得られないひとは、こうした自己愛100%な奴に身を投げ出しても縛られようとする。だから、自分の自己愛に忙しい奴は、他者の自己を壊してでも自分をいつでも主人公にすえる。いっけん隷属しているようだが、自己愛100%な奴に身を投げ出して縛りつけることで主人公になろうとするという、目的/手段が、一致している同志なのである。共依存ってやつかな。

『グロテスク』には4人の女と1人の男が出てくるが、この5人が5人共そうした志向のひとである。すなわち「成り上がり」。書評などで絶賛されている「果てしなく上をめざす怪物的な階級社会」の主人公になろうとした分ダケ、壊れていくひとのハナシである。5人の中で唯一作者に名前を与えられていない語り部、フリーターの「ユリコの姉」、彼女ダケは「悪意」という反動で「怪物的な階級社会の主人公になろうという欲望」を防戦しているように見えるが、しかし、それは所詮カライバリの「反動」でしかない、他の4人を既定することができるというによって全知全能の自己愛にひたるカラッポな自分(それ故、「姉」という属性以外の名前=固有名詞が与えられない)、同じアナのムジナであるという冷徹が、最近起きた三面記事的エピソードにまみれたこのジェットコースタードラマを引き締める。先にカキコした自己愛なひとにかぎって、「愛を、もっと愛を」と連呼したりするのが常だったりもするが、実際は「愛」なんてクソの役にもたちゃしねぇのである。そして5人もそんなモンを一度たりとて真剣に追求めない。そんなハナシは書かれない。それを女は追求めてるものだとするのは、「怪物的な階級社会」=男社会の幻想だからね。そういう安易なトコにもっていかない。したからその分攻略が難しい故に戦略がユルい(とゆうか、殆ど空手形状態)ツケで、衝撃(=社会的制裁)もまた大きかったということか。

さて、この本をもってして佐野的な自己愛ヲヤヂに一矢放つことが出来たか、というとヲヤジはしぶとい、なんのその。各書評氏の大絶賛ぶりをみてると、相変わらず自己愛に浸ってたりする。特に、朝日新聞コレなんか、目まいとハキケすら感じる。いかに「陰惨」で「壮絶」であとうとも、この5人の起こすドラマは「同じアナのムジナ」であるからヲヤジの自己愛は安心するのだ。物語にあるとおり有名私立女子高で外部受験して入学してきた「外部生」(=成り上がり組)とは、決して深く交わらないエスカレーター進学の「内部生」(=自明セレブ組)のように。一線を越えて突飛で特異だからこそ自分に関係なく、関係ナイがゆえに安心して「同情」や「共感」を騙れる。現代日本の正当(=男社会)を自明とした者はしたから優越感すら持って内部に同化しようと進入してはじかれた成上り部外者達(セレブたりえない中高年女と途上国出稼ぎ外国人)を、この「現代日本の抱えこんだ闇」の奥に遠ざけることで安心して楽しめるのである。悪意は、こうしたトコに無意識に潜む。家庭も学校も会社もそうした男社会の掟に倣うように日夜矯正する場でしかない。それを一生懸命履修すればする程に、そのドコにも自分の居場所がナイ。それこそが、もっともグロテスク。

作者はそこ迄想定してたのかどーだかは、知らない。が、こうして、いくらカラダをはって酔狂し反乱しようとも、いとも簡単に他者の自己愛に利用されて後は殺されるのであるよ。それがお互いわからないまま、相手に渡りをつけようとしてもムダなのである。そういう種類の残酷を、絶対に解ろうとしない奴、ホントに解ってしまうと自己(愛)が崩壊するから全力全霊で解ろうとしない奴はゴマンといる。そしてこのハナシの女4人もそうであるがゆえに、この世間に渡りをつける方法をあみだせずに、世間の自己愛に身をすりきらせて消耗するよか他になかったのである。

世間(=男社会)の自己愛とは、佐野の欲情するような「堕落のエロス」である。それゆえ、「若いエロス」もないクセに「亭主元気で留守がいい」とばかりに自分達の承認を必要とせずぬくぬくと生きている中高年女は、異者として軽蔑の対象となる、というかそうやって自己愛を保つしかないのだ。自分を愛していいかどうかのパーミッションを与えることに、自己存在証明を賭けてる連中、自分がいかに自分を愛しているかということに勝利する以外は、アウト・オブ・眼中。「共感」や「同調」ばかりを価値とする共依存社会。そおいう「現代男社会の抱えこんだ闇(藁)」は、誰かかいてくれてんのかねぇ?


…と、だりだりカキコしてる内、そーいやなんかカキコしたおぼえがあるなぁ〜とデジャヴに襲われて探してみる。。。
↓セックス・コンシャスについて、ムカシのカキコ

品性お下劣

ワイ談てえヤツは実にクセ者で、それが知性とセットになって個人の手足を縛るからだ。つまり、セクシャリティへの高感度と解放された知がイコールであるかのような評価基準、それが幅のあるイケてる人間であるとする社会的コード、そこに抑圧強要されるからだ。どうせみんな同じムジナ。そうだな、確かにそれは降りたフリをする快楽だろう。で、えてして建前知とその裏かえしであるかのようなエロヲヤヂが量産される。そして、建前知とエロヲヤヂの二つの在り方以外、自身としてはまったく考慮されない。高級官僚ノーパンしゃぶしゃぶに喜んでんのと同じく、ブルセラだの風俗だのに夢中になる建前知=学者も老若エロヲヤヂも沢山いるが、大抵は、セビロ(自分の立位置で認知される流行)=建前かハダカ=エロかの2つしかねー。幅が広いどころか、瞬時に退屈するほどに見事にぺらぺら。実は降りたと見せ掛けて、そういう自身のセックス・コンシャスを知的ふるまいであると確信し、そう確信した自分はお高級であるが故に、相手の生存権利をにぎっていると思い込み、かくしてセクシャリティ行使による暴力と搾取は、相手が怒ろうが泣こうがどうしようが、そういう流れの教養主義としていつも自己完結。それを逆手にとったアニータ嬢みたいなのに騙されたとかいってもな〜。そんな自身のセクシャリティに関しての真摯な考察をいちどたりともおこないひとは多い。自分はエロヲヤヂぢゃないといっても「もてない」とかいってるのは同じである。自身の性的存在が受け入れられるかられないか表層でしか考えず、そう自身が思考して嗜好しているところのエロチシズム、性的欲望自体について、あらゆる手段で目をそらし追及の手をのがれ自分自身で自分を抑圧しているようなものだからだ。だから思考停止ぢゃん、ていってるのさ。そうして饒舌に騙ることによって隠蔽されることは、なにもセクシャリティだけぢゃない。

ひとって、知性によって荒廃することも、無知によって荒廃することもあるんだよな。自分の博識、公正無私、正義を自明のものとして他者を計量しすること、今のアメリカ朝鮮問題等で解るとおり、知識や情報や経験をひけらかし自分の立場は無垢であると信仰すること位、危険なモノだっていう認識ぐりゃあは、まっとうにしといたほうがいい。

ロリコン

先月末のネタになるが、島田雅彦のちとビックリするようなカキコを読んでしまった。

中年になると、若い者を可愛がり、面倒を見たいという欲求が生まれ、自分が存在しない未来に向けて投資したり、いたいけなものに無償の愛情を注ぎたいと思うようになる。単に性欲や物欲を満たすだけでは物足りず、誰かのために、あるいは社会のために貢献しようと思わなければ、人生が空(むな)しくなってしまうものなのである。そうした足長おじさんになりたい欲望と少女の利害が一致すれば、幸福な感情教育も実現するのだが、現実には少女は肉欲の対象にされ、安易な金銭トレードばかりが横行する。エロ親父のニーズに少女も合わせている。地に落ちたロリコンの信用を回復し、絶滅が危惧(きぐ)される足長おじさんに徹すれば、娘を欲しがる彼をパパと呼ぶ若い女の子が現れるだろう。

どえらく回りくどくて勿体つけてんだけど、コレって、「女の子の前で紳士ぶりっこしてると彼女にホメてもらえるかも新米」とか言ってるダケっしょ?かなりベタってゆーか、キモいっ(寒)。いえね、大抵の文化ぶりっこインテリげんちゃんは、こーゆー妄想で、「こぉんなに色々知ってて高尚な修辞文をさらりとカキコ出来るヲレ様って、なんてス・テ・キ(ハァトマーク付)」てな自己愛にひた走ってるのはバレバレっすよ。自分の作品のドコカで告ったりするならともかく、そのロリコンが原因の幼児/未成年誘拐が多発し問題視してる新聞のエッセイ(になるのか?コレ)で、のうのうとカキコして、そしてそういう現実との接点ナキ「足長おじさんになりたい欲望と少女の利害が一致」っていう妄想にひた走るさまは、それがいかに対象とされた「女の子」を無視していることに気が付かない無神経。買春して売春婦に説教するのと売春婦を聖女にみたてるのと同等な愚鈍。いまは、売春して(社会=男の為に)身を落すってロマン、アダルト・チルドレンを最後に成立しなくなってきてる。

啓蒙を至上命題としヒギンズ教授並の全能感に欲情するのは個人の勝手だが、昨今は『グロテスク』のようにひたすら娼婦(=身を落す)になんかなりゃしない。金ダセ、金。その金の背後にくっついてくるウザッたい屁理屈で塗り固められた自己愛、それこそがアタシの敵。現実は、そんなコトぐつぐついってるオマエなんかイラナイと埼玉の16歳ヤク中娘がやったように、殺す。そこまでいかなくとも、ヴァッカぢゃないのぉ〜と貶められて、ヲヤヂ狩候補になるのが、関の山だけど。

ロリコンは地に堕ちて当たり前なのである。それでも、どーしてもその幻想にひたりたい向きは、「堕落のエロス」の自己愛にひたる「自虐」に篭るしかないだろう。なにをどう糊塗しようとも、関係落差ゆえに欲情してるのだから。

光り輝く、夜のあたしを見てくれ

これが『グロテスク』の帯のコピーである。一流企業のエリートOLが街娼となる核心である。『東電OL殺人事件』がネタとなっている理由でもある。これはココロの植民地主義「『良い子』といわれて育った子供、大人になってなんになる」や以前カキコした「エロの攻防」「欲望の暴力」「堕落のエクスタシー」のとおり、世界の支配感に酔いしれるツールとしての性的表現行為である。ヲヤヂになろうとして、ロリコンで島田がカキコしている通りに夢想するヲヤヂ好みのツールを使ってヲヤヂの前に身を投げ続け消耗した現実である。夜の街でベットの中でクダまいてるヲヤヂと同じく、「光り輝く、夜のあたし」を見たいのはなによりもあたし自身なんだから。したから、これは認められたいヲヤヂのハナシでもありうるのである。島田の夢想する理想に応え続ける「女の子」とは実はこういうひとなのである。会社で家庭で街頭で多くのひとがみてみぬふりをするように、このグロテスクな永遠の「女の子」を決して誰もキチンと対峙しようとはしない。これがヲヤヂの社会の夢想した現実であればある程に理想とは程遠のくという帰結(理想とすぐに合致したら上昇で拠って成り立つ社会は崩壊する)を絶対に隠さなければならないから、理想の自己愛の共犯となってくれない中高年な女を軽蔑することによって、いっそう「若さ」がかけがえのない光輝くものとなるのである。そういう生与殺傷権をにぎった自己愛も、またそれと同等に。だから現実に充分若く幼い筈のお勉強のよく出来る長崎の中1が、自己の都合よい自己愛を発揮して幼児に欲情し殺めてしまうなんてコトも起こる。お勉強をよくしたからこそ、「若さ」を崇めるという世間を先取り学習し身につけたのであるから。30すぎても未だ「女の子」とか平気で宣う女がこそここに増殖しているように。止まらない時間を自分で止めたかのような全能感にひたるぶりっこやセックス・恋愛依存や拒食症。永遠であるかの幻想をふりまいて貴重な「光輝く」時をもぎとりむさぼることで自分の時間を直視することを止め癒されようとするお子茶魔ヲヤヂ社会。だからそれがグロテスクだっちうの。

さてこんな内容は、古くは60年代終わりに「See Me, Feel Me, Touch Me」とロックオペラ「TOMMY」でシャウトされ、80年代でホルツァーが「PROTECT ME FROM WHAT I WANT」と光輝くネオンアートにして街頭にさらし、90年代に「アタシはアタシの欲望がドコからきてドコに向かうのかさっぱしワカラナイ」と岡崎京子等がマンガでたった独りぼっちの「女の子」の堕ちかたとしてさんざんネタに使い回された既出ハナシだったりするのである。だから、シツコイが、もうこれすらも現実ではナイからこそ、安心してエンターテイメント出来るのであるし、リアルを見たくない読者も自分の自己愛の中で都合よく堪能出来るのである。ハナシに出てくるひとたちの誰が真実をいっていて誰が嘘をいってるなんてコトは、どーでもいーのである。所詮そのホントとウソは、解釈するひとの自己愛の都合なのだから。

最初にカキコしたとおり、小説を迴る世界のコトは、トンと無知なんであるが、桐野夏生は「エンターテイメント(大衆?)文学」というジャンルに属し、島田雅彦は「純文学」に属してるらしー。そいで「純文学」は、ハイアート、純粋芸術のように「純」ゆえにか、「文学界」の中では一番エライらしー。もう、それダケでなんだかなーである。が、「純」ゆえに、世の中に対して愚鈍になるのが「純文学」なのかな。したから、価値観が急速に変化する現在では、「純文学」が成り立たなくなって、作家や評論家センセエがじっくり本をカキコ出来なくて(だって、こう現実に色々無残に理想のちゃぶ台がえしにあうんだもんね、おちおち理想にひたってられやしない)、そんな己の肥大した全能感捨てようとしないままに次々いろんなコトに口をだして現実にコミットメントし渡りをつけたとばかりに、ドタバタ夢想しているのかなぁ?(黒)ああ、そうそう「女流文学」とかワケワカンナイ区分けが通用してること自体、文学は男社会であるという前提に拠って立つんだな。

愛と資本主義

「勝ちたい」「認められたい」というのは、はっきりいやー関係落差ゆえに欲情しそれをカテに拡大するという資本主義のお便利欲望はひとをどんどんガキ化させるのだ。このハナシもあまりにもガキしすぎて失敗した、それだけのこと。

え?だからそんな資本主義に抵抗する反資本主義なヲレ様はヲトナなんだって?しゃらくせぇヤイ。それこそ大ウソツキ。解ったフリして自己愛に都合の悪いコトは排除しまくる「社会派」と称するそんなことをなおも公言してハバカラナイ愚鈍なそのセックス・コンシャスは、ほら、それはナニ?そこにタッチしないで、エクスキューズとしてウエットな壁を築いて結局は自己愛におぼれて社会を消費しまくってるだけぢゃん。『東電OL症候群』で鼓舞されてる現象は、岡崎京子椎名林檎のような女の欲望と自虐を表現する「何某の教祖」なシスコン的もてはやされ方は、まさに反資本をリスペクトするスノッブなヲレ様の都合の良い自己愛の愛玩そのものである。それって、まさに資本主義の要請するお子茶魔そのものでないのかな。もののみごとに言ってることとやってることの違うのに、少しもそれを見ようとしない人々。まあ、それにくらべたら、「純」文学して、素直にコクった島田は少しはマシなのか。トホホだな。

この世界を女で生きることは― ―いつも言うんですけれど――ものすごい違和感があるんです。違和 感を体感しながら生きていくことは、船の舳先で絶えず波をかぶっているような気がします。そうやって違和感でこの世界を切り裂いていくと、ナルシシズムやセンチメンタリズムには絶対落ちないと思います。この世で生きることは恥ずかしいことだという諦念みたいなものを心に持つせいでしょうか。恥辱や汚辱を感じるということ自体がプライドなんだと思います。

居場所のなさへの激しい憤り。しかしどんなに叫んでも社会からは黙殺され続け擦り切れる。あげくのハテに「女は抱いてやりさえすればそれで満足なんだ」と甘ったるい自己愛で纏められて陵辱される。あー、エラソーだ。ヘドがでる程、徹頭徹尾エラソーだ。今ここにないことばかり欲望し、今ここにいないから今現在の意味を持たない自分というのにクソみたいな「悪意」で自分を成り立たせようとしてる『グロテスク』の語り部よろしく、本当にクダラナイ。しかし、このクダラナさに目をそむけることなくいかに対峙して渡りをつけてくか、ないんだよな。

hizzzhizzz 2003/10/19 18:25 訂正:『続東電OL殺人事件』は、『東電OL症候群』が正確な題名でした。

hizzzhizzz 2003/10/21 17:41 物証も自白もない当事件容疑者は最高裁上告棄却され、無期懲役確定 。

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