2003-12-25 棲み分け
もう話題としては、落ち着いたんだろうけど。id:hizzz:20031209で書き残しがあるので、年越えない内にまたこのテーマ。ナニやってんだか…サンタの報酬はないか(^^;
前回リンク貼り忘れたし↓
■互酬性から互譲性へ
個人的には関心あるが排他的雰囲気のある困ったちゃんサイトに「儀礼的無関心」でもってなるべく気配を消してウオッチし続けるという暗黙の了解事項は、参画か/排除かという〈個〉とサイトの関係のありかたをどちらも「決定しない」ということは、どちらも「排除されない」ということで否定消極的に関係してくことを自発的に選んでる。これはどう考えても「酬」ではなくて「譲」である。
マナー化したり技術的にも様々に具体的検討されてるということは、個人に出来るだけ自由を与えユピキダスを旨としてきたネットの無限の互酬性がもはやそれでは〈個〉持たず、有限の互譲性に移行しつつあるということかな?
■中世から近代へ
ひとつのおおきなコミュニティ=大きな物語は、現実では崩壊してんだけど、またそれをネットで再現しようというひとはいるだろう。そもそも理系のめざす「美しいプログラム」って、ムダや余分のないことだもんな。それは異質=多様をハジく一神教な思想。してみると、最初は専門技術畑中心に発展してきたネットって、理系の真理(方法論)はひとつ=コマンドラインな超法規社会。それで自由で力(技術)さえあれば好きなトコに行って(ユピキダス)それににあった報酬はかならずGetできうるマトリクス。しかし力なき者にとっては不自由で排他的空間になる。真理を崇拝し自由を謳歌しイノベーションに邁進する権力内閉化したネット王侯貴族と排除されてる愚鈍の民…これって「中世」そのものだよな。
そして、id:hizzz:20031209でカキコした通り、そういう愚民政策としてただちにあの手この手の救済プログラム&スキル伝達されることによって秩序づけられるそれは「村の中にある家父長制」=「近代」そのもの。
ただこれが成文化されたルール合意でない「慮り」というコトを共感域で分担するということで排他閉鎖環境をごかまし、かつ家父長制という権力主体をぼやかしたソフトな内閉的関係の共犯となる。そして排他に他者をおとし込む野蛮からスマートに「儀礼的無関心」がマナーとなることで個人論理と化し、困ったちゃんサイトは、晴れて?放置プレイとなる。
id:hizzz:20031023でもふれたように、アーキテクトに常に忍び込む「階層」というのはこういうことである。そして、最初は政治的に参画/排除されたポジションが、幾重にも重なるアーキテクト&ルール&マナーの層によって自発的に抑制される。
■棲み分け
「儀礼的無関心」はクールな「棲み分け」をすることで、「慮り」のウエットさを軽くした関係という幻想をもたせ、内部での軋轢=排他という暴力を避け、関係の中に取込もうとする智恵だ。自分がメタになって一つの他者世界を意味付与して眺めるということでもある。自己権力の発動だということなんだけど、それを「アーキテクト」で自動的にやることがラクで便利となると、いつのまにかメタな視点の自分が消滅して、技術が決める社会ってヘンなものになりゃしないかな。啓蒙&教養主義ってのがつっ走ると現実を忘れるからなぁ。
そうするといつまでたっても〈個〉は起立できない。いや、俺は出来てるというネットエバンジェリストは、急速に一般(多様)化してくネットについて今一度、中世的な「不自由な中の自由&平等でいる自分」という特殊技術既得権益で、本当の多様性を不問にしたままでの専門特化特権的「酬」でしかないということを忘れてはならないだろう。そんな立場から、安易に「互酬性」を持ちだすのは一方的搾取=支配権力への強制となるかもしれないってことだ。だから、そんなメンドくさい関係性なんかゴソゴソすんの嫌ってコマンドライン特権にしがみつきたい人は裏に裏にコモるんだけどねー。視点を変えてパンピーからすればそれは、他者に関られるのを嫌う専門同人ニーズに他ならない。
はてなで自己吐露「日記」が目立たないのは、はてなのキーワードでは「通常言葉」が整理されてリンクからはずされてるからだろう。無論、それは「キーワード」本来の使用意味にとって意義あることである。
こういう具合に「儀礼的無関心」で消極的対応を意識するよりも、様々なblogなどのコミュニティツールによるスキルによるガード=同人化で、ケータイメールしかやらない若者層というのがネットのすぐ外にあるように、むしろ、今はこういった「棲み分け」階層細分化に加速かかってるんぢゃないのかな?
■セールスプロモーション
検索エンジンで補足されるという具合に繋がるのは簡単に繋がる世の中となってしまった昨今。しかしあんまり繋がりすぎるのも、個人にとって逆に重荷となってしまったりもする。そうすると、いかに自分が必要とするトコだけ繋がって意味をもたすかということが大事となってくる。
単にプログラム制御といったことだけではそれはことたりなくなってくる。ちまたでも日夜や不特定多数でなく特定数を明確にターゲットとしてられてる広告宣伝。いわゆるセールスプロモーション、SPというスキル。むしろインフラとしてのハードスキルよりも、ソフトスキルとしてのSPは、効果的に対象に伝達する能力として同人の囲い込みではなくネットの平地にいようとするのなら、この智恵は無視できないかも。
具体的には、〈私〉→〈個〉→〈公〉にいたる過程における、他者性と社会性の取込み、マストとウオントとニーズの把握でしょうか。
■同人社会
」artifactに拠ると、どうやら同人の自己吐露の困ったちゃんとくれば、大抵女性を指すと相場が決まってるようである。
性別関係なく、どんなとこでも専門を深めれば深める程に、学術語&業界用語ばちばちで門外漢はナニいってんのかさっぱり…というのはありがち。深く濃いハナシをしようとすればするほど、少なくとも前提知識が同等レベルの少数のコアメンバーでしか議論できないし、FAQでループするワケワカメを嫌って閉鎖的になるしね。現にホントに濃く深いハナシは誰が聞いてるか分からないオープンな場ではされてない。
そういうマニアックにセクト化したサイトは山程あるが、何故かそういうトコはスルーで、やおい&不思議系同人サイトばかりが問題視されるよね。東浩紀がオタク女性=やおいと早まってやってしまって『網状言論F改』ISBN:4791760093 で小谷真理に指摘されるという愚を踏襲しちゃうのは、まずいかもね。女性研究者が皆ジェンダーっきゃ関心なく研究して表現してないみたいなことになるぢゃん。「社会学的な見地」っつたって、単に女性セクシャリティを全面に露出するやおい&不思議系が、男性セクシャリティ&情報交換が自明のネット社会で目について(だから興味もあるんで「儀礼的無関心」を装ったりもして)、異質に覧えるダケなのでないかな?
ともかく、セクシャリティ話題な場以外の数多の場でそんなトコにわざわざセクシャリティを露にする必要はないし、第一そういうトコでセクシャリティをモロ出しにすること自体がコミュニティとしてのノイズとなるであろう。だから、そんな中に女性はいても、いつもあえて女性性としての自己主張や意見をする訳ではないだろう。ネカマを含めて、セクシャリティを上位プライオリティとしてる場合のみ、性別が主張されるということにすぎないであろう。ジェンダー系以外のパソ通など古くからのネットユーザーはむしろこうした「ステレオタイプの女性」へのカテゴライズへの囲い込みを嫌って、自分のセクシャリティを隠す場合のほうが多いのでは。そしてネットという媒体特性がそういうことに適していると推測するけど。