2004-05-16 心、焉にあらざれば、視れども見えず。
■ガッコ頭
カミオカンテの親分、小柴昌俊曰く、人間がものごとを達成する総合的な能力は受動的能力と能動的能力の掛け算で決まる。「受動的能力」とは教授(先生)のいうことを理解して吸収する力で、「能動的能力」とは自分で何を、どうやるのかを自分から働きかける力であると。
情報は、ただただ単に数多く覚えればいいモンぢゃあなくて、そこになんらかの意味と目的をつけるからこそ初めて全てが活きてくる。学校ではあらかじめその意味&目的がつけられたものを段階的に提示される方式だから、「受動的能力」ダケひたすらスキルアップすりゃあなんとかなる。
しかし、いざ、社会に出て働く(ゼニもうけということではない)ということは、自分の知らないことを自発的に学び、出来ないことを可能にしていくという能動的姿勢である。決して、自分の手持ちの知識や技量や人脈や金がタンとあることがシゴトの出来る実務能力ではない。それは全て能動的能力の後からついてくるものなのである。
成程どうやら「学習」というのは2通りあるようで、1つは情報をコレクションして、「既存価値」外部をバームクーヘン化させること。学校の勉強にみられるようなことであり、それによって自身/世間/社会の根本的価値が変わることはない。2つ目は、「既存価値」の中に情報を放り込んで、価値そのものを再構成させること。外部への刃となるが同時に自身へも外部と同時に試されジャッジされ、批判/断罪される可能性を担保する。…ということになるかな。
山程小難しい本を読破して要約しても、それは全てその著者の思考であって、それで自分がナニをドウ思考してるのか自己判断しつづけないと、それは思考停止なんだよな。大体、学校や会社といった目的集団というところは、どのようにその建前を標榜しようとも、異質は常に自動的正統的に隠蔽され、最も異質な他者のいないところである。そういうところばっかりにどっぷり浸かってると、いつまでたっても「能動的能力」は付かないってことか。
■迷い
路上で道を聞かれる場合がワタクシなんだかよくあるんだけど、知りあいにも方向音痴なひとは結構いて、例の『話を聞かない男、地図の読めない女』のごとく皆女性などでは無論なく、論理的といわれるハヤリの左脳型行動のひとも、逆に感覚的といわれる右脳型行動のひとも、確実にいる。おなじ道を示すにも「次の角を左に曲がって…」という説明で納得するひとや、地図を書いたほうが解りやすいという、その両方がいる。
『人はなぜ道に迷うか』という本に拠れば、迷うとは、外界の鳥瞰をうまくイメージ出来ず、自分の居場所を定位することに失敗した状態であるという。地図を見ている時は「外の目」で見るということをし風景を想像し、それを「内の目」でさらに自分の現状と照らし合わせて見るという2つの作業が、現在位置の同定ということに対して行なわれる。地図上の想像(土地の絶対座標)=客観と、実際の風景(人間の相対座標)=主観が一致すれば、そこで自己同定が出来たということになり、いくべきコースからズレているか否か確認でき、「迷う」ということはない。地図をみて全体のイメージの絵を書くことができ、それを今いる自分の位置をそこに落としこんで、さて進退をどうするかを逐次判断処理していくということだ。「迷う」行為は、一度固定してしまった定位がなかなか補正しにくい強固なものであり、いくら地図の知識があっても、思い込みで全く役にたたない見方をして慣性が勝ってる状態である。地図を読む行為は、右脳or左脳や主観or客観どっちかではなく、その両方をつかう情報処理なんである。中心視と周辺視の視点の移動が自在であるかないなかで、図と地がひっくりかえるのはルビンの壷などの錯視図で明らかである。
本は、デッサン行為にちらちらふれているが、確かに手の感覚の訓練というより、第一義目の訓練とものや部位のかくある位置構造を理解して初めて絵が書けるんでろうなぁ。そーすると、ポイントは、視点の移動(多視点)と、その統合にあるかな?
■弘法筆を選ばず
「弘法筆を選ばず」ということわざがあるけど、それは半ばウソなんだなぁ。なんか表現しよと思って、まず表現方法を決める。次は書く手段をどうするか決める。筆/紙/絵の具(墨)と3つの道具のうち、一番重要なのは、どれか?なんてったって筆、なんだなあ。書でも絵でも技巧中心に考えると、紙とか絵の具なんかナンでもいーけど、もう圧倒的に、筆ダケは細心の神経を使って選ぶ必要がある。おもいっきり間違えて、まず、紙漉きにいっちゃったり、絵の具の色数とかそろえて悦にいってるひとも、多々いるけど…それはそれで雰囲気出て楽しいコトではあるけど、書くプライオリティからしたら低いことであろう。
弘法はなにをどーするのか明解だから「選ばず」なんで、そゆことになるのは、意図どうりの表現に合致した方法を選ぶ能力と、瞬時に道具を把握する技量の両方がそなわってのことであろう。どっちかってっと「迷わず」って感じなんだろうな。そゆことを体得してるからこそ、筆(=条件)を選ばなくても目標を達成できる、オールラウンドプレイヤーなんである。だから、なおさら間違えてはいけない。大多数の凡人は、そういうビビビとくる直感は実技を通してしか身につかないから、そして使わないとサビて鈍るから、実務をおろそかにできないんだよなぁ。
■とりあえずで、いいや
『すぐれた意思決定―判断と選択の心理学』に拠れば、判断予想には、楽観的なのと悲観的なのと均衡的なのと、ざっくり3つのパターンがある。
建前/理念=言ってるコトは、演繹的に最良のものを選び出す最適化の原理(規範的意思決定論)で貫かれてるけど、しかし実際は処理手間の最短=効率を最優先し、当人も十分その情報&知識があっても折角の知識情報は考慮されず狭い範囲の合理化を突発的に性急に行って(記述的意思決定論)=やってるコト、結果、全体として非合理にしてしまう…ってことはありがちかと。
例えば『なぜITは社会を変えないのか』ISBN:4532149312では、デジタル効率第一主義は意味の一元化につながり結果的に非効率に陥るパラドクスが書かれている。そうした傾向が「中間領域」の喪失になっているということが、実務現場でもおこっている。http://itpro.nikkeibp.co.jp/free/ITPro/OPINION/20040318/141592/
そこまでテクニカルな最先端でなくとも、日常「とりあえずビール」とか「ビールでいいや」という無難を取るヤリ方は、無意識にあちこちでなされている。よく考えれば此れ程ビールと提供する店に対して失礼きわなりない横暴な態度なんだけど。しかしそれは選択当人にとってはアウトオブ眼中なんだよな。同席したお仲間に向かって、かぎりなく自己主張を抑えた無難=謙虚な姿勢をかぎりなく消極的にアピールするという儀式の一環だったりする。んが、これがお仲間いなくて一人で店に入っても、「とりあえず…」と、口にでてしまったりする。もーなんで「とりあえず」かよくわからん。ボチボチやっていこうというカンジかなぁ。
ひとに嫌われないよーにバカにされないよーにだのという受動コードで常に自己の羅針盤を動かすという自分の意志を自分の内部で自力で探り深めようとせず、仲間内の動向や声のデカいオピニオンや権威文献やマスコミの論調を聞いてからでないと自己意志が考えが「わからない」という風な、外的価値観によって自分の行動や選択を決めている、主語ナキひとは結構多い。そゆひとは、自分は大勢をみきわめて最良の方法論としての均衡的判断をくだしていると思っているんだろーけど、しかし、そこでは「自分」というファクターがヌケているのがミソ。いろいろ考えているんだといいつつ保留しつづけて、さてそれぢゃあナニ考えているのかといえば、自分がこの場合どういう位置にいれば一番ソンをしないのかという「失敗しない為」の処世術があるだけで、いつも大勢(お仲間)に従うトコにみつけた後追いなワタシそれは、到底自己意志とは自己判断とは言えない。常に自分の意志が明確になるとソンとゆー悲観的判断が大前提に、感性を慣性に置き換えて思考停止。そんな状況過剰適応ばっかりしてるから、いつまでたっても活きづらいではないのとおもうんだけど。うっかりしてるといってしまう。「…ま、いいや」って。
人生はそんな主体的決断しないですごせて、大抵のコトは、自分にとってどーでもいーことなのかも、しんない。複数の〈私〉さえ確認しつづければ。
■合議の知
id:o-tsuka:20040512#p2経由、ライン人材とスタッフ人材の見極め方で、意思決定に関する性格づけとして4つのタイプに分類されていた。そして続く記事の中で、日米管理職の比較をしてて、米国には[思考-判断]型=論理的で決断力ある管理者が突出してるが、日本はバラエティに飛んでいるという特徴がでた。これは、〈個〉が強い権限と責任を持つトップダウン式の米国に比べて、権限の曖昧な集団合議制(コンセンサス社会)の日本という、会社の意思決定スタイルに影響するところ大なんで。まあしかし、記事にある通り「価値の多元性」は確かにいいことなんだけど、これが不測の事態となったとき、実は集団の意志決定のほうが危険性が高い。たしかに「誰も反対しない」というカタチでのコンセンサスは問題が多い。
『無責任の構造―モラル・ハザードへの知的戦略』では、バケツでウランなJOC臨界事故を検証しつつ、集団討議は、少数にしか理解できない複雑で高度な情報処理が過小評価されるのと、個人の意思決定よりも相対的に冒険的な選択肢に傾く可能性が高いという2点を上げている。「集団討議は個人の意思決定よりも相対的に冒険的な選択肢に傾く」というのは、3人拠れば文殊の知恵(←この為にあったことわざか!トホホ)という常識に反するようなハナシだが、古くは山本七平『「空気」の研究』
でも、ふれられてることである。認知科学では、人々の間に存在する相互依存関係から、論理的に矛盾のない社会的な決定を常に生みだすことができるのは独裁制だけ(アロウの定理)としている。う、う〜ん。「合議」というプロセスに余計なロマンを求めてもアレなんだよな。シゴト遂行の為の「合議」と、すると、確かに産業心理学でいう常識の[思考-判断]型主導になる。
■ちびくろサンボ
事象に対して自分が無力なのは、もう殆ど、そゆ自分が弱くてバカである結果なんだけど、んなことは、経験的に日常ヤというほどに体得する機会にみちみちてるんだけど、困ったことに、あんまり弱くてヘタレだと、そゆ自己了解すらはねのけてしまう。
「邪悪な外部が無垢なアタシを攻撃する」ってー奴。
精神分析とかで出てくる「父」、イデオロギー的な「父権」ってのかな?その手の話法が昨今ではおおはやりで、 AC&ヒッキーからフェミニズムから自由主義史観からオウムからワイドショーから市民運動からネット厨房からアメリカから北朝鮮から.... ああもう、ドコ見渡してもおんなじだなぁ。その共同体が一致団結して「我々こそ最大にして最初の被害者であ〜る!」と頑強に思い込めばこむ程に、その妄想自体1ミリの邪悪のない善意であからこそ、それを獲得出来る強者こそ不毛で残酷な暴力が最大級のパワーを得る。だから、全ての事象の被害者(もしくは賛同者)はいつも一点の曇りのナイ被害者でなけりゃなんないし、いい人であれなばならぬとばかり過去現在未来をムリヤリ漂白される。それって、どーーーーーーーー考えても、ちびくろサンボのバター、父権の再生産プロセスから一歩たりともハミだせない状態なんでないかなぁ?
自分(達)ダケが知りうる内向きの暗号内容へと収斂結晶させてヨシとする啓蒙ループから抜け出せないのは、成長や可変という可能性を持ちえないからこそそこに他者を社会を想定する余地ナシなんで、そゆ島宇宙でガッチリ防御しその外部は問答無用な衝突激増つーの、はたしてそれはマトモな叡知なのかな?コミュニケーションリテラシーが単相すぎる閉塞なんだけど。いきぐるしーぞー。
知恵つーのはさ、情報や知識や経験や真剣さ真面目さの量や質なんかぢゃなくって、なによりも、無知/偏見/習慣といった自分の欠落と汎用性を正確に自己判断することで、とどのつまり、それが「知性」てぇモンぢゃないのかいなぁ。
そー書くと、「自己判断出来ない人が…」と、くるんだな。
ほーれ、「自己判断出来ない」と他者代替判断して父権発動させたのは、だぁれ?んで、得てして、もっともタチ悪いのは、「判断出来ない固有名詞」そのものには決して関心がなく、それをどう消費しようかというスタンス表出に熱中し、そうすることで特定共同体の中でのヒエラルキーのポジション取りこそが目的であるのに、何故か御当人はそういったコトを御都合よく忘れる能力にみちみちており、その忘れた部分をあらゆるトコから搾取した「正義」と「善意」で埋めまくる手合だったり、ね。
…てな具合にさ、無垢だの無辜だのと、ひとはどんなに嘘つきで、「そんなアタシがイヤ」などと自虐芸をつかってでも自分自身を最も巧妙に騙して、あくなき欲望を正義や善意に換えてく動物なんだよな。
■認識と文化
なにがしかを判断する前に、その「なにがしか」を認識しとらんとハナシになんない。しかしその「認識」というのがこれまたクセモノなんである。
『認識と文化―色と模様の民族誌』では、エチオピア西南部のボディ族へのフィールドワークの失敗を通して認識された、「ものの見方」という文化の多様性、豊かさが、調査過程を通して立ち上ってきている。
ある種の物理的特性の感覚そのものを記述する類の語=「経験の言語」というのには、幾つかの特徴がある。
客観的・論理的基準によって、順序づけて配列可能。経験の言語の指示対象物は、本来的に連続している。これらの語は、閉じたクラスをさしている。指示対象物の各瞬間ごとの状態をある測定値によって、完全に定めることが出来る。
「経験の言語」として色彩/温度/音などがあげられるが、これらの感覚的な語彙は、表層のメタファーを通してさまざまな文脈に結びついている。認識は他の文化的事象と関連してどのように形成されるのかを探っていって「普遍」を探求しようというのがこのフィールドワークのねらいだったようだ。具体的にそれは、色/模様の認識調査から、識別の基準となってる「牛」の社会的位置づけ、さらには個々のアイデンティティに繋がる。色彩から固有の豊かで壮大な世界観までドラマチックに展開していくプロセスは、壮大な文学作品並の感動ものである。
本書は補講として、文化心理学の定義をあげる。
人間を、人工体を創造することによって自らの生きている生活環境を補正する能力と、蓄積された補正を言語にコード化された手続きや知覚物を通して次世代に伝承させていく能力、という2つの能力を備えた存在とみなし、人間の知的能力がいかに、文化によって媒介され、歴史的に発展し、日常の実践活動の中で生成されるかを明らかにする研究である、とする。
ボディ族については下記のように纏められてる。
ボディの人々は「モラレ(自分の色/模様)を持つ」ということによって、社会生活の中で、「自分(ワタシ)」という固有性を認められながら、しかも「社会の集団(ワレワレ)」の一員といなる。子供はそのようなプロセスを通して、「ワタシ」と「カレラ(大人の世界)」とを結び付け、関連づけ、彼らの営みに「参加」することを学んで行く。また、森羅万象を理解するとき、「ワタシの分身」を世界に発見し、その分身の位置づけや役割を見付ける、というプロセスで、外界の一才を「了解」するわけである。
最後に「合法的周辺参加」という徒弟制の学習概念をひきつつ、学習者の社会的コミットメントの重要性にふれながら、我々の社会への「間違い」を、示唆する。
社会が個人の「自己の確立」を支えつつ、個人の「社会化」を助け、さらに個人の「社会への参加」と同時に「世界認識」の基盤を与えてく、というプロセスは、現代の私たちの発達や教育におけるゆがみを明確に映し出してくれる。すなわち、私たちは子どもの成長における「アイデンティティ」を、個人のパーソナリティ形成の過程として、いわば、「本人が(自分で)獲得するもの」とみなし、人が社会化するときは、まさに社会の一員(One of Them)としての「無名的な」扱いに慣れていくことと考えがちであった。
…世界を認識し、社会を知るということは、「自分(ワタシ)」とは無縁の、「みんな(カレラ)」の営みを「内化」することによって達成するのだ、と考えていたのではなだろうか。
Bonvoyage
2004/05/17 01:11
複数の<私>。本文での意味と少し違うかもしれませんが、「お前にはみんな迷惑してんだよ!」って何回も言われたことあるんですけど、「みんなって、あんたと、あと誰?」って聞くと、たいていは答えがない。不思議ですね。◆『認識と文化』のアイデンティティの話、ほんとにそうだと思います。なんかまだうまく言葉にならないんですが。関係性の重視と言うか。
hizzz
2004/05/17 01:36
「みんなって、あんたと、あと誰?」:<私>の代弁をよそおったモラル支配、ヤになる程ありますですねぇ!とまれ、これも 20040424#p2 でカキコした「恣意的強弱二者関係への追込み」なんですよね〜。これは裏返せば、自己モラルに背く者への反感(不安)感情をモラル化して自分ダケぢゃないと責任解除し、同時に自己モラル強化=正統化することによる、自己安定化行動だったりするのでしょうねぇ。(嘆息)
Bonvoyage
2004/05/17 08:12
「俺はお前に迷惑している」と言われるならば、「わかりました。じゃあお互いがよりハッピーな状態になれるように話し合いましょうか」と言えるんですけどね。いい大人が、どうして「みんな」という主語を使いたがるのか、何のメリットがあって使いたがるのか、私にゃあわからんです。
hizzz
2004/05/17 08:59
フィフティフィフティという対等な関係=対峙/対話(交渉)という関係は、事によっては自分が譲歩しなければいけないリスク(責任=呼応可能性)がありますかなねぇ。それへの回避に「みんな」というメタ視点が使われるのかな。「とりあえず、でいいや」という消極的ないいまわしも、あらかじめの一方的な儀礼的謙譲したんだから、こっから先は主体にふれるなというカタチの頑強な<私>=オンリーワンなのかも?
Bonvoyage
2004/05/17 19:56
はは。一方的なリスク回避のためにメタ視点(それは即席で大抵正しくない)を持ち込む、そのとおりですわ。◆「とりあえず」は、「ほんとにそれでいいの?」と聞くなよ、ということですな。
- http://d.hatena.ne.jp/Bonvoyage/20040517
- http://d.hatena.ne.jp/i-miya/20040519
- http://d.hatena.ne.jp/Bonvoyage/20040520
- http://d.hatena.ne.jp/hizzz/20040624
- http://d.hatena.ne.jp/gachapinfan/20040930
- http://d.hatena.ne.jp/hizzz/20051205
- http://d.hatena.ne.jp/hizzz/20060219
- http://d.hatena.ne.jp/hizzz/20060228
- http://d.hatena.ne.jp/hizzz/20061022