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2004-07-16 innnernetなやすらぎ

なんだかいずこも、同じコトで渦まいているなぁ。。。

かざきり羽問題

サイト管理人の問題言動が発端となってバッシングがおこり(それはよくあることだが)、その騒動を報じたまとめサイトまでもが「さる人権団体の介入」というブラフによって次々と閉鎖消滅したことで、ヲチャーのさらなる注目(^^;; をあびた同人界隈での騒動。

http://ex5.2ch.net/test/read.cgi/net/1089672059/

http://d.hatena.ne.jp/kanose/20040713#kazakiri

http://blog.livedoor.jp/nasw009/archives/4447825.html

差別言動」=不正に憤る「正義のアタシ」なはずが、「ヤバイ団体が動きました」っていう言葉じりダケで、絡まれると厄介なので撤退したほうがいいのではという「雰囲気」に脊髄反射な過剰適応ぶり。な、なんだかなぁ(大脱力)。。。

で、その「ヤバイ人権団体」ってのが、ほのめかしに使われているトコがミソ。成程、「プロ市民」とか「人権屋」というのの忌み嫌われ方、威圧はこういう風に伝搬するんですな。まー、なにかというと「警察」とか「弁護士に相談」とか「(圧力)団体」という風な既存権威の傘をふりかざす威嚇業務妨害で、コトの風上=メタに立とうとする香具師は、ネット以外でも沢山いる。

しかし徹頭徹尾、「気分」や「感情」が論理よりも最優先されているから、そんなほのめかし程度にビビり、こういう首尾一貫しない行動に到る。不正に憤る「正義のアタシ」の立ち位置が自己にないから、責任を外に問うことは声高に出来ても、そゆ自己言動責任を引受ける気がナイ。むしろ、そゆ自己言動を引受ける責任は、共同体にあると思っている。論理(言語)検証ではなくそういうカタチ=共同体世間ではじめて、吊るし上げ/ハラスメント/バッシングではない不正に憤る「正義のアタシ」が、共同体に誇示される。(無論ヌケガケは許さない)

外部威嚇を仕掛ける方も幸先にそんな自分であるからこそ、外部共同体の虎の尾を被り「正義のアタシ」を誇示しようとする。ハタからみてるとそうなんだが、ところがそうした「不正に憤る「正義のアタシ」」の気分を、共同体感情として規範化しているから、共同体感情(この場合「差別言動」をとりあげたサイト)が、「ヤバイ」という規範を振りかぶって打ちだすと、その仮説の検証よりも、一斉にそれに従うという集団行動をとることが、共同体共感への適応行動として望ましい(=正しい)とされる。結局、いかなる手を使っても、アタシこそが最も「正義のアタシ」って気分でいたいんだし。あ〜、してみるとメンツ(=カタチ)さえ保てればの世間知での「撤退」。あまりにも、ありがち。トホホ_| ̄|○

ところで、これが「同人界隈」だってことで、またぞろ「女の噂…」的言説もみかけるんだが、トンデモナイ!風説の流布に拠る情報操作で足の引っ張りあいで一喜一憂するこたぁ、イヤという程ヲヤヂ社会のそこここで日夜、起こっているだぁよ(嘆息)。>派閥セクト

人権

多くのひとが、実存絶対基準として人権をあげる。確かに、まず自己実存が担保されなければナニも世界は始まらない。まえに「何故ひとを殺してはいけないのか?」という命題が問題となったことがあったが、そゆ命題すら成立たない弱肉強食の世界は、弱者は単に殺されるか搾取されて生きるかだけしかない。したから多数の弱者は徒党を組みそれを拡大することで自己を守る。

そゆ権力がないと人権も成立たないということになる。個対個は容易に立場がひっくりかえる。自分で自分を守るしかない。実は人権というのはそゆしんどいモンでもあるんだけど、そゆ〈個〉を立脚しつづけるしんどさを大抵、感覚でわかってるひとが多いから、つるむ。

さて、そのつるみの最大規模は国家であり、デモクラシーはそこで始めて国民の人権保障が国家義務として明示される。大抵の人権思想は国家権力のバックがあって始めて成立つ。国家が安定すると人権に目くばりがとどくという流れは、国家イデオロギーを問わずわりと共通したカタチではないだろうか。人権思想は、国家権力の肥大を諌めることはあっても、基本的には安定したベースを要求し、国家そのものを否定するものではないものなんだろう。それらに無自覚に「人権」をふりかざすと、人権思想はいとも簡単に権力思想となる。なぜなら、人権そのものは国家にとっても個人にとっても道具であり、最終目的とならないからだ。

「われ」と「われわれ」

セミナーなどで自己分析方法としてジョハリの窓がよく用いられているが、小原信は『iモード社会の「われとわれわれ」―情報倫理学の試み』で、自己を4つに別けている。

「われ」のありかた
1.他者に見られたくないので、見せない「われ」
2.他者に見てもらいたくて、見せたい「われ」
3.他者には見えるけれど、「われ」には見えない「われ」
4.「われ」にも「他者」にも見えない、気付かないままの「われ」

「われ」=i/Iのアイデンティティは…

1. I-dentity 責任ある自立した主体的な「われ」の意識 →個人
2. We-dentity 「われわれ」の意識 →社会
3. we-dentity 狭い仲間うちでの「われわれ」の意識 →世間
4. i-dentity 3.の「われわれ」と未分化で融解しあっている内輪の「われ」の意識 →あいまいな個人

そんな「われ」と「われわれ」に対して、他者を「they」=「彼ら」とし…

「彼ら」のありかた
1.あこがれる彼ら :タレントや芸能人
2.利用する彼ら  :お上等、安全弁的存在
3.うざったい彼ら :見たくない存在:干渉してくる教師等
4.見えない彼ら  :どうでもいい存在:絶対者、神、歴史上の人物等

iがそのweを利用しながらわれのエゴだけは発揮するが、責任はweにおしつけてweとして生きるしたたかなわれであり、i-we同化するiと、同化できないiがあるが、ふだんはweのなかにかくれている。→Iになりたくないi。iはweのなかにうまくおさまって、「われわれであること」(we-dentity)が「われであること」(i-dentity)として安定しているように見えても、何かあればiはさっさとweから抜け出す。「公」publicは、i-weの外側にある。iをIにしないまま、weのなかにとどめておくことで、日本社会の秩序と平和を維持しょうとする見えない判断を背後に働かせるのが、日本社会の基本構造であると指摘する。

さらに、「われ」のふたつのふるまいを上げ

「あいまいなわれ」i・my-dentity
  さりげなく「われ」主張をぼかしながらの、湾曲な自己表現
「連座するわれ」i・we-dentity
  われとわれわれが一体化、集合人格化

iがweになり、weがiになる入れ替わり。相互転換によって両者の境界線なり展回転があいまいになる。i=個々のわれは「責任を負う自己」として自立することがないままうまくかくれつづけていられる。二人称単数のThouと二人称複数のYouがあいまいなそこには仲良しのwe-dentity、突き放すthey-dentityしかなく、人格として向き合う二人称の「汝」Thouがいないとしている。i-we同化する引力と関係ないthey斥力が、「われわれ」(we)と「彼ら」(they)という二極構造をなす二元論を構成。

このような考察から、「インターネット」上であろうとも、狭く身近な仲間とだけ連絡をとりあっている使い方だったり、自分の興味のある情報だけを集め、気にしない情報を入れないままで、心の世界が狭いとなると、後はすべて自分とは無関係な「彼ら」(they)としてはねのけることになり、外部者に対しては無関心のまま排他的になる。いっしょに遊べる相手、おもしろい相手しか相手にしないので、いますでに知っている仲間でも、すでに知っていることにしか目を向けないことになりがちであり、知っていてもおもしろくない人や弱い人にたいするまなざしが欠如しがちになる。また、わかっているつもりの自分自身のことでも、すてに知っていること、できることしかしようとしないので、新しいことに対してはなかなか心を開こうとしない、狭い「われ」の世界→閉じこもりを憂慮し、「インターネット」というものの内実は、innternetではなくinnnernetであると憂慮している。

過剰配慮

小松美彦は『自己決定権は幻想である』で、オランダなどの安楽死自己決定は、ナチスドイツの国家規模の優生政策の悪夢につながるとし、自己決定が権利化すると権力の道具になるとして、自己決定権を認めない。安楽死が本人だけの問題だとは誰も言えないだろうし、本人だけの問題ではない以上、本人だけで決めるのはおかしいとする。そして自己決定権は他者判断を排除し自閉につながるとしている。「死が個人の所有物であるかのように捉え、…所有物ではないものに個人が決定を下すなんて土台無理な話」なんだそーだ。

自己責任論とかの話題になると必ず出てきて、自己決定の否定に使われる「死」の決定権。しかしこれは極端だ。安楽死決定をもってして全ての自己決定権を無視するのは、乱暴きわまりない全体主義である。第一、「死」は自己決定しよーがしまいが、必ず万人に等しくやってくる唯一の確実な現象なのである。それと、人生に於ける個別選択の不確実な現象を一緒にすることが間違ってる。人生みな同じに推移するならともかく。

これはまさに、上記で延々とカキコしてきた、〈個〉の在り方による、「われわれ」共同体の「感情」にふれる問題にほかならない。だから、安楽死自己決定は「苛烈」に「非人非」に映る。「そうする」という個人意志をどうやって貫徹するかという生き方は、あってしかるものであろうに、「そうする」主体なのではなく「そうなる」客体が、(実は「そうありたい」とおもっているのはほかならぬ自己決定であり恣意的行為には変わりないにもかかわらず)正しい=主体的思想ではなく自然=客観的思想であり、それは人為の及ばぬ天与のこと=異義を唱える余地もない真理といわんばかりに、言説を流布させようとする。そういうカタチをもった「理論」(運命論)ばかり、跋扈する。そうして、その「感情」=「配慮」ばかりが声高に説かれ、それが規範化する。それに異義を唱えることは、人格を疑われる事態に迄いく。

なぜなら、芯になる〈個〉がナイし、認めようとしないから、個人格はありえないことになる。そうすると、あとは、公=われわれ共同体(運命)規範に従う「われ」か、従わない「彼ら」という二元論抗争しか待ってないことになる。そしてその両極のどちらかへ、共同体の安心の為に、個人を強制的にでも隷属させようとする。innnernetなやすらぎ追求は、そのまま外部/他者とのコンフリクトを起こす両義的なものと化している。

id:shiraishi:20040716で、警察の過剰反応の奇妙さと同等にそのようなことを過剰に引受けてしまう側のこれまた奇妙なふるまいが指摘されている。

“スピーク・アウト”表現の自由のために声を上げる
http://www.asiapressnetwork.com/speakout/20040701/index.html

「である」と「べき」について
http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20040714#p1


※『自己決定権は幻想である』で切々と書かれる「共同体への郷愁」をもったリベラル?的な良心=情念、個人「自己決定」vs社会「自己決定権」の未分化を、dokushaさんが切り込まている。
http://d.hatena.ne.jp/dokusha/20040717#p1

ぱこ-Paco-ぱこ-Paco- 2004/07/22 18:08 ども、初めまして。幻想遊戯さんとこから飛んできました。僕自身、一度だけ記事を書き、各blogさんとトラバしあいつつも、あの撤退騒動のときにびっくらして削除してしまった口でした。そのときの後味がすごく悪かったのと直感的に気になることが多々あるもんで、まだ観察している部分があります。個と公、ファシズムとしての民主主義など、そちらの文章を読んで色々考えますが、「ヲヤヂの情報操作」には激しく共感しましたよ(^_^;)あの人たちって下手すりゃ女性以上に嫉妬や悪意の塊ですよねー。

hizzzhizzz 2004/07/22 23:54 こちらこそ、よろしく。情報という中間領域なデータに中立公平を装わせ、そこにあいまいな個人=〈私〉を忍ばせ安全地帯確保しつつ武装し、恣意的目的をゴリ押ししようとする集合人格化した「正義のアタシ」というPC(ポリティカル・コレクトレス)権威主義者なんかに、性別関係ナイということですかねー。しかし「女性特有のナントカ」(本質)説の表層をむいていけば、自らのセックス・コンシャスをカモフラージュ(=パフォーマンス)する「ヲヤヂ(=オレ様自明権力主義者)の情報操作」って姿が(苦笑)。

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