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2005-08-04 原理主義とコジレ

id:hizzz:20050802ふみあしコメントへの感想文。


「抵抗」への抵抗感

社会との関係は「抵抗」というふるまいでしかないという風な独特な左派意識に対する違和感が、ワタクシにはある。

「抵抗」が目的とする「勝ち/負け」による均衡=いわゆる55年体制ってのかな?その方法論はよりよい社会を築けたのかという過去検証がなされないまま、なにが得られるのかが不明なまま、「どう抵抗するか」=闘争という命題ダケが独り歩きをしている感がある。運動と称するものも、そのようなパフォーマンスのみで実態の伴わない「言挙げ」は、曖昧として伝わりにくい。ところが、その曖昧に多様な意味(個人のライフスタイル/アイデンティティも含めて)を込めようとするから、ますます第三者なワタクシは、ワケワカメ。

均一集積化するグロバリゼーションに「抵抗」して、多様性とかを第一に掲げてたりするのに、そんな意味集積化を起こしている「抵抗」自体を見直すって発想は、なんで起こらないのであろうか?

てなことを左派な方にいうと、大抵怒るばかりで答えてもらえない。「抵抗しなければ、現状肯定するのだな!」というのだが、「抵抗」だけぬきんでて現状…イヤ伝統堅持なのか、ワタクシには、すっげー謎。


問題解決

なぜなら、「抵抗」は問題解決にならないからだ。むしろ抵抗論ばかり跋扈すると、問題解決の抵抗=ストッパーにもなりかねない。これでは本末転倒もいいところだ。抵抗運動するなら、「どう抵抗するか」よりも少なくとも次の手立てを考えて抵抗して欲しい。それで初めて抵抗が活きる。ところが、どうも多くの運動は、「抵抗」だけして力つきてるか飽きてるかしている。それで運動史のページには「○×抗議集会開催」という主催者表現ダケ、ひたすら積み重なる。だから、それで開催してどういう成果があったのか/失敗があったのかという第三者的検証はなされない。一定の成果はあったと自画自賛する運動史もまったく無いよりは、はるかに有りがたいのではあるが、そんなに成功しつづけてるというのなら、現在の世の中はすごく良くなってきていなければならない。

…ま、排他的セクト運動には第三者の入る余地がないという側面もあろうが、それでは、少しも実例は把握できず学べないので活かされない。そんなことの繰返しでは、運動が断絶しててあたり前だと思う。それは何よりも左派が問題としてる東アジアの断絶した歴史と、まったくその構造は同じではないだろうか。>id:hizzz:20050521


運動の快楽

政治的立場の上下左右前後関係なく、職務以外で眉間にしわよせて「ブッシュのヴァカ!」「朝鮮氏ね!」とがなりたてることに心血をそそいでいる方々は、さぞかし世界平和と人類愛にみちみちていらっしゃる心の広い方なのであろう。が、何故か、そういうパフォーマンスすること自体に自己が一番エクスタシーを覚えて恍惚としているということを、お認めにならない。ならないかわりに、山のような「正論」で身をかためられる。「正論」ないとエクスタシー出来ないなんて、それは確かに不幸で不平不満を大声でいいたくなる気持ちは判る。不確実の時代の大いなる樹、「正論」信じる者は救われるのかもしれない。でも、身軽な快楽では満足できないなんて、ちょっと不便だなとも思う。

しかし、そういくらがなっても、ブッシュのヴァカが治る訳ではないし、朝鮮の方々もそうそう都合よくお潰れにはならない。それぞれに固有の事情ってモンがあるから。誰がそのヴァカをどうやって直すのか、誰が潰して後どーするのか、具体的プランがないと、どーにも事態は動かない。なのに、そうやってがなってイキイキ自己充足してる方々には、そういう趣味なんだなぁと、第三者はスルーするしかないであろう。

が、しかし。「平和」とか「人類愛」って一体全体どうやったら実現加能になるのか、その方法論を大抵持たないまま、「とりあえず」集団で大声だしたとて、なにも変わらない状況に、逆に運動当事者が追詰められ、真剣にのめり込めば込む程に、コジレたりしてパワー尽きて消耗していく。こういう人々を社会学的思考の草狩り場として運動(の上部構造)は利用するだけして、理想を掲げた側の失敗を力の弱い者に無責任に押付けたり、用(=パフォーマンス生産性)がなくなったら捨てることも起きている。それは契約が成立し法的に保護されてる(左派が罵倒してやまない)資本主義社会の雇用労働関係よりも、誰も責任を負わない分、格段に始末悪い。これらを運動に於ける死屍累々とワタクシは考える。そしてそれは運動史上、無いものと排除隠蔽され続けた故にストップ/フォロー対策があらかじめの理念実行プランとして一向に考慮されず、いとも簡単に同じ過ちを数多の運動体が繰返す。


原理論と現状分析論

その死屍累々をなんとかしようとして、別の「正論」をもってきたところで、そこにはまらないひとはいくらでもでてくる。ま、いたちごっこではある。しかし、そういうループで癒されたりエクスタシーを覚える方もあるであろう。が、そゆ言論プロレス&教条をくぐり抜けスーパーサイヤ人に加速変身出来うる者は少数である。

そゆことに付いていけない多くの方々に必要なのは、より高度で集積されて緻密な「正論」なんかではないのでは。より大きな「連帯」でもないと思う。「孤独」を恐れてくっつこうと同調沈没するよりも、むしろ散るほうが、刻々と変わる状況にサバイバル出来うる確立が高まるのではないだろうか。そうしたとき、数多の「正論」はむしろ足かせとなる。「正論」以外の方法論をオミットするからである。往々にして「正論」の成立過程に選択搾取した状況は、必ずしも普遍/永遠ではないからである。ところが「正論」は、そうした問題にいつもほうかむりをする。

なにか原理原則が出来なければ行動出来ないという方がいるが、それでは原理原則を作らない誰かさんのせいで、自分は永遠に行動出来ないと言っているようなものである。いや、そしたら自分で適当にこしらえればいいではないか。そしてまずければ、その都度、修正すればいい。悩んでコジレる時というのは、その過去の検証&修正=現在原則が作れないまま過去の現理論にしがみついているケースが殆どなのではないか。ま、マニュアルなんかなくとも、こうして今、息をして汗をかいてるのではないか。

原理論は、個々がてんでばらばらにもっていればいいであろう。無論多くの共通項はあるだろうが、それを言語化して共有確認する必要も特に感じない。そういう研究をしているひと以外は、そうしたことは必要とあらば自分の中に確認すれはいいことである。それが凡庸であろうが特異であろうがライフスタイルになるのであろう。それは原理論と硬く結晶化しなくても、散文位で丁度いいかと思う。

ただ、個が関る/関ろうとする部分的な社会の状況で、現状分析論を共有/交換することは、仕事や家庭や趣味等などで社会を共有せざるを得ない上で必須かと、ワタクシは考える。

しかし、個人を最終統括する原理を外部に必要とする=メタ概念というヒエラルキーそれこそが、きわめて近代西欧的な特異思想なのではないのか。


思想のローカル展開

ふみあしさんの立てた<反/脱/非>というスタンスid:hizzz:20050802#p9は、なにか厳然たるもの=「主」があって初めて成立つものだ。日本の歴史の特異なトコは、常に実質支配と名目支配が常に分化してた…というより、実質支配権力が自らを保証するというカタチをとることがなかったと、カキコしたid:hizzz:20050510とおり、日本には統一された「主」は、一貫してないと考える。だからこそ、西洋という「他者 文明」に対抗するカタチとしての「日本」=主導的理念/規範を、近代に生成したのではないか。虚構としての「主」=絶対天皇制戦後民主主義。「西洋文明」に対抗するカタチとしての主導的理念/規範は、身体化されてた近代以前を守ることでもあった。そして、カタチさえ守られていたら、内実を問わないというのが、この地の従来のやり方であったのではないか。が、西洋文明に真摯に傾倒すればする程に、そうした建前と本音を使い分けるダブルスタンダードは、ありえない「野蛮」。

こうして近代西洋の理念/規範とする上昇すること=スーパーサイヤ人になることによって富と繁栄を手に入れる方法論を実践した中産階級が日本に誕生した。ところが西洋的理念/規範がある程度身体化してしまえば、ダブルスタンダードの矛盾は解消される。こんどは逆に従来伝統が、エスニックになる。が、自己は以前として非西洋なモンゴロイドである。そうして、身体性につらなる歴史の中に守るべきものを持たない(西洋/日本という)主導的理念/規範が、空想言語上でからまわりを始める。

<反/脱/非>というのは、理想主体性に対するカタチでもあろう。教養(言語)主義的なリニアモード(=理想堅持)でノンリニア快楽をしようとする齟齬、それが「<非>のスタンスの行き詰まり」なんではないか。それに対して、ワタクシがid:hizzz:20050629#p3で考えた、ずーーーっとノンリニアなまんまの方々の理想主体性へのスタンスは、ダブルスタンダードの本音=<無>だったのではないか。


コジレ

コジレも理想主体性と自己身体性の問題が大部分であると仮定するならば、これは中産階級特有の問題であり、しいては中産階級が理想主体とした西洋近代=<公>的自己と、あまりにもかけはなれた虚構的自己身体性=<私>的自己の齟齬とも言えるのではないか。だからそういう者にとってなによりもリアルなのは、厳然とした理想主体なのである。そこで、スピ志向が一段と高まるのではないだろうか。そうしてどんどん、スピ理想を闘魂注入して<公>にスーパーサイヤ人になった妄想で、日常リアルから遠ざかるが、ふと我が身をみれば実態はしょぼいへろへろな<私>。空想/妄想が唯一無二のリアル。そりゃあ、そんなの誰だって、きびしーよ。落ちこぼれ自認のアッパー中産階級は「都市ルン・プロ層」になるという疎外感をそのまま優越感にしてるとか。でもその落差のいずれも、中産階級内でしかない自分が食えない貧困に留まってるのが大部分。

だから、それをヤメにする脱出するのに第一に原理や理想を持ってきてさらにコジレたケースは山ほど目の当たりにしてるのだけれど、役にたった実例にはワタクシついぞお目にかかれないのである。皆様押し並べて、過去の轍は踏まないといさましく理想/原理を掲げるのだが、なんだかすごいアクロバットな展開かつハードルが高すぎて、元々もっと単純なのにも落ちこぼれてるのに、とてもとても無理難題!でしかないのである。こうしたことに「関係ない」とコメントで何度も言い放つ上野俊哉『アーバン・トライバル・スタディーズ―パーティ、クラブ文化の社会学』の有効範囲は凄く狭い(それは御当人もお認めになっているようだ)。それをなんとかしようとして、ふみあしさんが託した原理論も、やはりそうした高難易度を感じる。でそれは、反グロ運動/まったり/コミュニケーションスノッブ/センス/スピ…あれもこれも詰め込むことで巨大化してる故に、統一理論としては過不足ないとしても、実際に実行しクリアするのは困難だからだ。

やっぱ、これは個々がどうのというよりもなによりも、そもそも理想/原理という理論の使い方、根本的に違うのではなかろうか。


長くなったので此れ迄。だらだらこれは、つづく。

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