「理性の正しい使用に対する責任の共有」

教皇ベネディクト16世のドイツでの講演がイスラームをバカにしてるとメディア報道され宗教炎上して当人が謝罪した件について、カトリック中央協議会から発言の正式な日本語翻訳が公表された。
レーゲンスブルク大学での講演文「信仰、理性、大学――回顧と考察」 2006年9月12日
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/newpope/bene_message143.htm
遺憾の意を表明 2006年9月17日
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/newpope/bene_message142.htm

まず第一にワタクシは「初めにことば(ロゴス)があった」という前提、「ロゴスは神」といわれても全身全霊でおもいっきり躓く者である。だから唱えられてる信仰観の外部=外界者となる。それゆえいままで断片的に報道されてきた解釈という色のついた部分のみの情報では、問題の背景事情は無論、語学の壁に阻まれた門外漢は、問題発生源から遠すぎて判断保留とするしかない。が、こうして当事者側からの全文情報が公開されたことで、門外漢なりに考えることが出来る。
さて、そんな前提を共有しない外界者が、その規定の基に展開されてるロゴス=内界に対する解釈なり判断は、誰にとっていかなる意味をもつのかという問いがわきおこる。教皇は、理性にある信仰こそが普遍性を獲得するという信仰合理性プロセスから事例として他宗教にふれていく。それが、異教徒の親分にコーランの一節でもってジハードを規定されたイスラームにとっては、ずざけんなバカ者になるのだが、ロゴス主義者にとっては聖典とするコーランにカキコしてある=事実=論拠を示した、整然としたプロセスという大齟齬にぶちあたる。
アジアにもちろんとふれてはいるが、それはヘレニズムというかたちである。

西洋世界は長い間、自らの理性の基礎にある問いを嫌うことによって、危険にさらされてきました。また、このことによって大きな損失をこうむるおそれがあります。理性を広げる勇気をもつこと。理性の偉大さを拒絶しないこと。これが、聖書の信仰に基づく神学が、現代の議論に加わるための計画なのです。

講演は、世の中にはキリスト教イスラム教しかない、世界は普遍西欧とその周辺というギリシャ哲学のロゴス観から、イキナリ諸文化と諸宗教を理性と信仰でもって新たなしかたで総合を説く現代神学のあり方みたいなコトに飛んでしまう。はぁあああ????
このなにが外界者をイラつかせるのか?それは「理性の正しい使用に対する責任の共有」なのではないか。暴力でない信仰布教という「理性の正しい使用」の「正しさ」を規定ジャッジしているのは、いったいドコの誰なのか?正しさが常に自己世界=内界にあるかかる「普遍」というロゴス=主観が、キリスト教者=西欧にあることを自明不問としたまま、西欧信仰外の他者異者に対して「責任の共有」を説く合理「正しい意味での啓蒙と、宗教との出会い」は、一体、誰にとっての合理で、誰にとっての不合理が発生したのか?「理性の正しい使用対する責任」は、第一に使おうとする意志をもつ使用者=主体が持つべき内在するモンだろう。外界者がなんでそうした自分のあずかりしれんトコから発生してる恣意的行為の責任をかぶらなければならんのだ。そんな状態の場を設定しても、対話という対等関係なんかなれっこないぢゃんか。
現代神学論がどーなってんのか知らないけど、イスラームをバカにしたかどーかってことよりも、講演の「普遍/信仰/学問理性」に秘むこうした天皇統帥権的に補完された自己無謬性の構築をスルーされてることの方がはるかに問題なんだけど。

隣の常識は、家の非常識

こないだテレビでじいさんが海で網にかかった石を持ち帰ってそれを日夜ご本尊として拝んでいる漁師一家が出てた。その石事体になんの理論が封摂されているというのだろうか。ただ、じいさんがその石になんか感じたという「感覚」それだけある。その「感覚」に家族が感応してそれを鎮守というカタチとして石を「依りしろ」に見立てて受けつぐ行為が、大漁と家内安全の一家の祈りとなる*1。その漁師の隣に住む農家があやかって、豊作と家内安全をその石に見いだせば、祈りは家族共同体を越えて共有される。そんな感じの延長で、前提を共有する者の共同体が信仰の場を醸成するのが大抵の宗教だったりする。信仰は「感覚」を祈るというカタチに込める。民俗信仰なんてのは大抵そう。このような感覚共感で共同体を生成する為には、本尊に厳密な論理定義をつけるよりも、曖昧模糊としておくほうが誤謬も封摂できて合理的である。大体、「God」っていう概念=ロゴス自体が日本語にはないものな〜*2
いやだからこそ民俗/宗教を越えた世界的普遍の追求でロゴスと神を切り分ける為(政教分離)に、「神は死んだ!」とか「無神論」とかワザワザいわなくっちゃあはじまらなかった西欧近代思想。其の中をくぐって、神は活きてる神学にとっては、こうした多様化する文化の突き上げにある学問ヒエラルキーの中で、永遠のロゴスをどう生きるかという宗教アイデンティティの回復をどうするのかが、今回の講演の主題なんだろうなぁ。
しかし神学界外には、ご利益がある石を自己のアイデンティティにして表現するのと、自己がもったアイデンティティは他者にもご利益があるから同じアイデンティファイせよと表現するのとは、大違いである。なおかつ、他者に同じアイデンティティにないのは「正しくない」とするジャッジを振り回すことは、世界征服の第一歩なのである。とまれ、一神教というのはそういう矛盾を抱えているからこそ、最初にデカイ風呂敷をぶぁ〜っと広げておかないと、信仰が立たないのだけれど、逆に統一教義をアイデンティファイさえすれば、日常感覚ヌキで生活共同体を越えて成り立つという可能性がある。それもって布教側は「普遍」としたいのだろうけど。
がしかし、異教徒信仰以外にも個人主義の徹底でそうした感覚共有を保持できない現状なとこにも、統一理論な「理性を広げる勇気」と「理性の偉大さ」を自負したイエスズ会みたいな超越論理を立てようとする、それが他者異者にとっては非常識きわまりないというコンフリクトは、すくなくとも教皇の演説内に於いてはちっとも解消されてない。


※関連:原文と翻訳と報道の事実関係を追って誤差を指摘してる方々
eirene http://d.hatena.ne.jp/eirene/20060918
    http://d.hatena.ne.jp/eirene/20060921/p3
kom’s log http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20060916
       http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20060918
こころ世代のテンノーゲーム http://d.hatena.ne.jp/umeten/20060916/p3
電網山賊 http://d.hatena.ne.jp/pavlusha/20060919#p1
ね式(世界の読み方)ブログ http://neshiki.typepad.jp/nekoyanagi/2006/09/post_6a82.html
tnfuk http://nofrills.seesaa.net/article/23883552.html

*1:神社は「屋代」であり、そこに鎮座してる「神体」は「依りしろ」。仏壇に鎮座してる位牌も同様の意識で取り扱われているのではないだろうか。このように日本語での「神」や「仏」とは、集積した感覚の「媒体」を指す語彙かと。

*2:言葉は護符=見た目の飾りでそれが感覚をもって使うと、「祝」か「呪」ってことに意味が生成される呪術の為の道具なのかも。無論、言霊=ロゴスではない。

解釈のアイデンティティ

丁度同じような人文学と知識人の再生という問題設定の本が出てた。コロンビア大学での講演草稿を纏めたサイード最後のメッセージ『人文学と批評の使命』ASIN:4000234234イスラムについて触れている。

イスラムにおいて、コーランは神のことばであるので繰り返し読まれなければいけないが、完全に理解するのは不可能である。しかし真理がことばのなかに存在するのは事実であり、読者には、先行する他人が同じ厄介な仕事をしてきたことを深く認識した上で、まずコーランの文字通りの意味を理解しようと努める義務がすでに課せられている。だから他者の存在は、証言者の共同体として存在しており、以前の証言が現代の読者に対してもつ有効性は、それぞれの証言がそれ以前の証言者にある程度依存するという連鎖によって保たれている。この相互依存的な読みのシステムが「イスナード」と呼ばれている。共通の目標はウスールと呼ばれる、テクストの根底、原理に近付くことである。

ジハードという語は主として聖戦を意味するのではなく、むしろ真実のための、本来は精神的な尽力を意味するのだ。

解釈についての他の宗教的伝統と同じように、こうした用語について、またそれらにどのような意味が求められるかについては、膨大な議論が積み重ねられていて、どうにかするとわたしはその議論の多くを危険なくらい単純化し、見過ごしてるかもしれない。しかしテクストの修辞的・意味的構造を理解しようとするいかなる個人的努力においても、許容される解釈の限界点となるのは、狭義には法体系の要求、加えてもっと広義には、一つの時代の慣習や心性であると言ってよいはずだ。
イード『人文学と批評の使命―デモクラシーのために』

そして、アラビア世界/文献学的解釈/米ブラグマティズムの伝統の三例とも用語こそ異なれども、約束事や意味の枠組、部分的制約として作用する社会的政治的共同体的特質を指摘する。脱構築や言語分析や新歴史主義といった新たな教条主義が一部の文学専門家達を公的領域は無論、同じ専門用語を使わない専門家達からも切り離されてると憂える。が、もはやひとつのアイデンティティやマスタープランに委ねることのできない我々社会である。
本は、昨今の多文化主義の乱用やアイデンティティ政治には警鐘をならし、ウォーラスラインを引いてデモクラシーの自由の一形態として批判を位置づけ、多様な世界と伝統の複雑な相互作用についての感覚を養うこと、属しつつ距離を置き受容しつつ抵抗すること、自分の社会や誰か他の社会や「他者」で問題になっている広く流布した考えや価値観に対しインサイダーでありかつアウトサイダーであることがヒューマニズムたる人文主義に(作家や知識人に)求められるとしながら、伝統的文献学手法を擁護。