強暴の線引き

「犯罪の国際化及び組織化並びに情報処理の高度化に対処するための刑法等の一部を改正する法律」通称:共謀罪とゆーモンの攻防がヒートしている。

第159回通常国会 改正法律案 2004年2月20日
http://www.shugiin.go.jp/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/houan/g15905046.htm
第163回特別国会 再修正案 2005年5月19日
http://www.shugiin.go.jp/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/syuuseian/3_28C6.htm
法務省刑事局 法律案の概要
http://www.moj.go.jp/HOUAN/KEIHO5/refer05.html
民主党 質問主意書 2005年10月31日
http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/163067.htm
日弁連 共謀罪新設に関する意見書&対法務/外務省 2006年9月14日
http://www.nichibenren.or.jp/ja/special_theme/complicity.html

いらちなひとは、最後の日弁連サイトを見て頂ければ概要の概要程度はつかめるかもしれない。

そこで浮かび上がってくるものは、ドコで〈公〉と〈私〉を分けるか?という「自己(意図)裁量権」線引きの攻防であろう。とかく「国連」とか「国際批准」だとかに、ついヘタレてしまいがちなわれわれ国民性なんではあるが、この法律の観念としては〈公〉の普遍的利益の為には〈私〉の自由は大幅に制限されてしかるべきというという権利と義務なトコから出発してるのであろう。ただ、ここでいつもひっかかるのは、そうした公私の厳選な区別を日本人は通常してるのか?ということである。
自己裁量権の範囲を大きくとれば、自由だけど判断する〈私〉の責任が増して重い。それを小さくすると〈私〉は責任からは自由だが、常に他者裁量で規制される。。。ここには、個々が〈公〉〈私〉を峻別して批准する存在=ルールという方法論はない。あるのは是々非々な公私混然でどうやりすごすのが楽なのかということ。むしろ公共というのは〈公〉を出来うる限り曖昧にしていごごちの良い〈私〉的自由を謳歌する共感体というのが、一般的習性なのではないだろうか。id:hizzz:20040716#p3
したから国内で序列つけれるガイド=責任主体がない場合、すぐ「国連」とか「国際」ナントカだとかが、モラル=倫理として印籠のごとく振りかざされて纏めようとする。それに反発する側も、多くは個人の意図よりも「共感」=「共謀」に直行するであろうという「反感」という共感体ならではの発想で、モラル的におしもどそうとする。しかし、そおんな習性は、新たに立法しないでも刑事罰ではもうとっくに折り込み済みなのである。

現行法上,予備罪が31,準備罪が6があり,さらに共謀罪が13,陰謀罪が8あり,合計58の主要重大犯罪について,未遂よりも前の段階で処罰することが可能な立法が存在している。
我が国には,判例理論として共謀共同正犯理論が確立しており,その当否はともかく,組織犯罪については広範な共犯処罰が可能となっている。

日本弁護士連合会「共謀罪新設に関する意見書」
http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/report/data/060914.pdf

〈公〉〈私〉を突き詰める「自己(意図)裁量権」とは、自由意志をコントロールする理性的人間という近代の法的主体=個人の基本的人権に関わる問題である。自由意志をコントロールする=責任主体=刑罰との等価交換ということにもなる。フランス革命期の歴史的フェミニストのオランプ・ド・グージェは、ギロチンになる権利と自由を主張して処刑されていった。確かに自由と平等の立憲理念を突き詰めるとそういうことになる。
ところが、ここ日本ではそんな苛烈な自発的責任主体を立てるひとよりも、「なんとなく」な環境構造的なひととひととの合間の雰囲気でコトが成ってしまう(「やる」=主体より、「成る」=客体)という場合が多い。犯罪も複数だと、明確な主体が立てられないまま実行されて個人の意志責任認定が不能というケースが多い。そこで、行為意志の有無の確認とは関係なく犯罪共謀に加わってた状況証拠だけでも実行為をしたのも同じとみなす「共謀共同正犯理論」という、お手本にしてきたドイツ刑法学もびっくり*1な日本独自の法理論が出来た*2。実際、裁かれる共犯現象の9割以上が共同正犯であると青柳文雄『日本人の犯罪意識』はいう。一連のオウム事件で、松本被告はそれで死刑が確定した。
基本的にこれまで刑事罰は「結果行為責任」を当事者に問うて問えなければ、状況から共同正犯で括ろうとするのであったのが、改正法案は当事者の意志ヌキにした「意志行為責任」という〈私〉のあやふやな内面の発露に踏み込もうとしている。だが、自己意志をいうものを不明瞭にしつづけてきた主体という存在自体の共謀共同正犯理論は、その制定されようとする法律では一体ドコを主体として立てられるというのであろうか。結局、一億総ザンゲ??? 空気の論理で犯罪状況が設定されて、その空気の論理の延長で状況に在った個人主体ならぬ「個人というフィクション」客体が設定されて、それによって当該者主体が裁かれるという不思議な構造。そこに隠れた主体はダレなんだ、と問うても共謀ループの拡散した広がりしかないという皮肉。。。 id:hizzz:20040626#p3

*1:http://www.law.hit-u.ac.jp/dissertation/summary/hashimoto_sum.pdf

*2:木村敏によると、「意志」は西欧では個人に属するものであるが、日本はそれがひととひとの間ー外部にあるという

自由がもたらすひとつの不幸

結果行為主義というのは、最近評判悪い。しかし結果をクリアしていれば他は問われないということでもある。結果は問われないが、あれこれプロセス過程を逐一指図される閉塞的不自由よりも、楽ではある。ただ、結果クリアするか、責任とるかさえする主体であれば。責任をとって自由になるとはこういうことでもある。が、ところが、大抵の新人(若者)は好きにやれといって期待通りの結果を出せることは、まず、ありえない。無論、責任すらとれない。そうすると、結果&責任を遂行出来うる能力を身に付けるというプロセスを経なければならない。だから、新人には別のモノサシが必要となってくるが、短期効率を最重要視すれば、即戦力ダケでシゴトを廻せれば高い成果も出やすくなる。が、機械にだって小真目なローテーションの微調整が必要なように、ベストフィットな即戦力となる為には、環境に馴染みながら成長した者が良いに決まっている。
とはいえ、生涯に渡って親身の指導監督フォローをしてくれるようなグルは、まず殆どいないのがフツーである。とりあえず学校は出たものの、そこで突然ひとりになる。そのひとりは耐えられないので、同窓の者を見つけて見よう見まねでつるんですごしている内に、残酷にも時間と共に明らかになる自他理想像とのギャップに気が付いて、自己軸が崩れ出す。そして社会が環境がどうのこうのいうよりも前に我が身が壊れ系寸前なあやういひとは、大企業でもちらほら目にする。

彼らが幸せになれなかった理由は、あるプロセスを経てないからなんですよ。30代前半までの間に、「自分の人生の価値観や動機はどこにあるのか」というのをしっかり考えなかったんですよ。そうしたプロセスを経る前に35歳くらいになってしまった。彼らが20代の頃、転職というカルチャーは日本にはなくて、転職市場が成熟した頃には、転職市場からは賞味期限切れのレッテルを貼られていて。もし転職市場にいたとしても、本人はキャリアアップを意識して生きてこなかったから厳しいでしょうね。彼らは、自分で何をやるべきかを深くは考えなかったんですよね。それで気が付いたら、40歳くらいになっている。だからもう会社でメシを食うしかない。これはすごく不幸だと思うんですよね。

城繁幸
http://www.toyokeizai.net/online/tk/column/index.php?page=1&kiji_no=25

若い内はパワーはあるから、いろんな誘惑が自己の可能性を広げてくれるように思えて、自己を忘れて手に出来うる環境にのめりこんだりもする。そしてソコにいったママなひとが出てくるが、環境の方も固定ではなく変化してしまうことはあまり考慮されない。酷な言い方だが、これもある種の成果主義「今が良ければ」で、人生の価値や動機を先送り出来えた能力故のひとつの姿なのであろう。
新人ー熟練など職場歴に関係なく実はシゴトというのは、能力獲得ー遂行プロセスの繰り返しだったりする。誘惑をモノにしたら、自己ゼロ地点に戻って又新たに始めなければならない。それにどれだけ早く気が付いて、実行してく主体となりうるかどうかということが、職務実績が他にも通用するか否かの分かれ目だったりするのだろう。そゆことを選択実践してくライフスタイル上のレベルで、自己主体を自分でつかんで行く内的羅針盤のようなものを、いかに認識して参照しつつ軌道調整してくかということが、特に流動化する社会ではセイフティネットとして最重要となる。格差が身にきてしまうこととは、なによりもそうした自己インフラとの折り合いがついているか否かの差なのかもしれない。
「自分の人生の価値観や動機はどこにあるのか」、それは自己実現な「アタシさがし」でなく実現している自己検証である。これダケは自前で向かい合い折り合いをつけなければ、社会や世間がいかに親身の指導監督介護をしても治まらないし、その先も始まらない、がしかし。
そうはいっても、与えられる教育ではなく自己獲得しなければ意味がない自己検証に耐えうる自己主体を持つにはどーしたら良いのかというハナシになってしまうし、ヘタにそんな主体を獲得したら責任持たなければならないからヤダと「アタシさがし」周辺でグルグルくねくね癒されつつ生きて行くであろう沢山のひとびとを「不幸」とかたずけてしまうのではなく、社会や世間はどう生暖かく容認&まったり融解してくのかという〈個〉が曖昧ならではの価値/視座の転換も、又存分にあり得るということで、ひとつ。。。id:hizzz:20040512 id:hizzz:20040602#p6
独)労働政策研究・研修機構 多様な働き方をめぐる論点分析報告書
http://www.jil.go.jp/institute/reports/2006/070.htm
大和総研 CSRと労働におけるダイバーシティ(多様性)
http://www.daiwa.jp/branding/sri/051004csr.pdf
産労総研 労働に関するCSRについての人事部門の取り組み状況
http://www.e-sanro.net/sri/ilibrary/pressrelease/press_files/srip_061020.pdf

自由気ままの住処


イラストは、L.クレポン画、幕末の寺子屋
やれゆとりだ、理念だ、再チャレンジだ、そんなこといっても授業そのものがもう成り立ってない学級崩壊だ、いやそーゆー教師免許制度の見直しだと、色々教育改革が声高かに叫ばれてる。が、教育って、本人/保護者/学校(公社会)の内、ダレがドコまで責任を追うモンなのかさっぱし不明だから、保護者と学校での責任なすりつけバトルの末に、保護者と学校の守備範囲を過ぎて社会に放り出された成人者は、さあ自由に好きに生きれるといっても、その「好きなあり方」こそが判らなくて呆然とするという体たらくなんではないのかいな。
で、多くはどこかが支えてくれる中での自由を求めて、あちこち渡り歩く。支えるカタがある中の自由、気ままないごごちの良さとは、実は結構、上のイラストのような場所だったりもするかも。 id:hizzz:20040516 id:hizzz:20040708#p3
文科省中央教育審議会 今後の教員養成・免許制度の在り方について
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/06071910.htm
文科省中央教育審議会 特別支援教育を推進するための制度の在り方について:障害幼児児童生徒
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/05120801.htm
アメリカの教育バウチャー制度
http://www.clair.or.jp/j/forum/forum/jimusyo/151NY/INDEX.HTM
文科省 教育バウチャーに関する研究会
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shougai/010/index.htm#shiryo
財)企業活力研究所 提言 日本における次世代人材の育成に向けて
http://www.bpf-f.or.jp/020_katsudou-joukyou/010_teigen-jigyou/010_jisedai-jinzai/teigen_h18-03/teigen_h1803a20s00.pdf
内閣府 再チャレンジ推進会議
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/saityarenzi/index.html