2009-09-08
■[映画][映画サ行]『3時10分、決断のとき』

『3時10分、決断のとき』 監督:ジェームズ・マンゴールド 出演:ラッセル・クロウ クリスチャン・ベイル
(ネタバレ)
ドクターが死ぬあたりからヤバイなあと思って(オラ、スコップで殴ってやったぜ!)、案の定そっからの展開にフラフラになって、あの800mにスゴ過ぎてもはや膝が落ちそうだったし、んでラストもラスト、そのままズンととどめを刺される覚悟でいたのに、何あれ。何あのラスト。ラッセルの、それまでの道のりの重さを引き受けたまま置き去ることなしに、勇むことも躊躇することもなく平静に踏み出す「出発」の軽妙さに、ああもう沁みたよ。沁みたあ。そもそもラッセルを眠らさないように繰り返し垂れ流されるあの心底不快な歌が、不気味過ぎてそっからすでにまったくもって意識を逸らせなかったなあ。
しかしこれは、クリスチャン・ベイルの泣きっ面の映画と言ってもいい。四面楚歌の状態でラッセルに買収を持ちかけられ、彼は思わず「みんなになんて言えばいい、不自然じゃないか」という情けない言葉を漏らしてしまう。最大の決断の後に用意されるのは、そのときの頼りなくて惨めで死にかけの苦笑いなのだ。ベイルには真にヒロイックな場面は訪れない。常に揺らいでいる存在であって、片足が不自由であること以上に彼は今の足場を保つだけでギリギリの人間である。飲み込まれてほとんど溺れても、まだ人は自分の意志を「選べる」。それでもなお「試される」という残酷さよ。沈みながらも足掻いて、一瞬水面に上がる彼の悲痛な表情を、泣きっ面を、俺は無視できないけれど、どうしよう俺も泣きっ面だ。
誰だって弱音を吐く相手なんて限られてるし、弱音を吐くときは彼の場合、本当にギリギリのはずなんだ。「誇るものが何もない」という泣き言は誰に聞かせるのだろう。誰が聞き入れるのだろう。「頑固だと思われたくなかった」とはまぎれもなく友への言葉だ。あるいは子への言葉だ。ラッセルは「ユマには2回行って2回脱走した」と告白する。自分がこの先するかもしれない行動について言わないのは嘘をつくに等しい行為であると、友に対する誠意の言葉でもって、彼の気持ちに応えるのである。
ベイルの泣き言は誰に聞かせ、一体誰が聞き入れるのだろう。良心を通せないことの惨めさを、それでも踏ん張らないといけない自分を裏切って揺らいでしまう己の弱さを、必死に言い訳を探してしまう己の脆さを、彼はただひとり、聖書を渡したまま立ち去った母親の代わりにラッセルに向けて投げうつのだ。聖書を渡されたあの日から待ち人のままのラッセルは、はじめて人の声を聞き入れるのである。


良ければリンク張らせていただきたいのですがよろしいでしょーか??
どうぞ宜しくお願い致します。