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2009-11-29

[][]『イングロリアス・バスターズ『イングロリアス・バスターズ』を含むブックマーク

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イングロリアス・バスターズ』 監督:クエンティン・タランティーノ


(ほんとうにネタバレ)

その人が行くところに必ず殺人事件が起きるのが名探偵であるのならば、事件が起きるその場所に最初から最後まで居続ける人間もまた、名探偵で無いとは言い切れないだろう。死を運ぶ名探偵が必ずしも途中参加とは限らない。その意味で「ユダヤ・ハンター」ことランダ大佐を名探偵であると仮定する。名探偵は、これから殺人が起きることを回避できない。つまり運命として殺人が起きることを「知って」いる。だが殺人の光景は知ることはできない。同様にランダ大佐は殺すべき人間を知っている。だが、皆殺しがどのような光景であるかは知ることはできない。たとえば絞殺シーンの即興性が、不気味に揺れて、瞬間的な創造の危うさを持っていたように。

いや別にランダ大佐で無くてもいい。要は名探偵の仕事とは何かということだ。名探偵を介して我々が見ようとするものは何かということだ。それは一体どこまで及ぶのかということだ。

名探偵はトリックを暴いていくことで殺人の光景を現出させる。逆に言えば名探偵が語り出さなければそれは現前しない。同様にこの映画での暴力とは到達点である。辿り着く為の全てを見せ、辿り着く為の全てによってそれは見せられる。殺しの光景を見せてくれるのは何より名探偵だということ。(たとえば冒頭や中盤のスリリングな会話劇はもちろんだし、イーライ・ロスのフルスイングもまたあの登場の長いタメによってより深く印象付けられている。) では名探偵が立ち入ることができない殺人とは何であろうか。あるいは立ち入らない。名探偵が介入できない殺人とは。それは「知る」ことのできない殺人である。人から生まれ、人から離れてしまった「殺人」である。

それは(この映画でいう最終章)プレミア上映の夜に待っている。まさにクライマックスであるのだが、奇妙なことに、プレミア作戦を画策する者、その計画を知り阻止しようとする者、プレミア作戦に「意志」を持つ者はすべて途中退場している。ショシャナメラニー・ロラン)は直前で死んでしまうし、ブラッド・ピットは作戦決行の前に捕らえられ、別の場所に移されている。しかも邪魔するべきのランダ大佐は、作戦を知りながらも見過ごし、別のものに興味を移行させているのである。作戦実行者であるイーライ・ロスともう一人は無駄にカッコいい活躍をするのだが、その思わず「無駄」とつけてしまうような「顔」の冴え無さも相まって、内面を覗かせないまるで「前景化してきたモブ」の佇まいである。ブラッド・ピットを失うも自動で動く傀儡である。またもうひとつの実行者である黒人男性は、少なくとも作戦に対する能動的意志は見られないし、恋人であるショシャナとの関係性だけで動いているように見える(実際はどうか知らない)。何より彼を動かす合図は、「人」無き「フィルム」なのである。つまりショシャナブラッド・ピットが放った傀儡のみが、皆殺しの光景を作り出しているのだ。

そこには狂騒に身を委ねるような快楽も、るつぼの中で死んでいく者達の無残さも無い。燃やせよ破壊せよと人無き者の声がただ響くだけ。そこでは「人」を置いて、ただ「皆殺し」が進むのだ。

名探偵が立ち入ることができない殺人とは何であろうか。あるいは立ち入らない。名探偵が介入できない殺人とは。人の思考性では及ばない場所(それは狂気で持ってしてでも乗り越えられない)、人という身体で運ぶには到底遂行できない場所、それはフィルムという不可逆性でもって始めてたどり着ける場所なのだという想像は容易い。実際には良くわからない。ただ下方から燃え散っていくスクリーンに映し出されるショシャナの悲しき高笑いは、永遠の時間を持ってしても、決して我々の手元へ収まることは無いんじゃないだろうか。あの光景を、名探偵が知ったふうに語りだすことの出来ないように。



  • 今年で言うと『エスター』や『96時間』のような、寡黙にして必死で、冷静にして憤死する映画が好きで、この映画のショシャナはズバリだったんだけど、それを超えてもう帆場英一化しちゃってるっていう。美しき復讐者としてはあそこまでしか行けなかったんだっていう。
  • 上の写真のショシュナ、パンナコッタ・フーゴのスタンドに似てるから好き。よだれで汚すやつね。
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