ゼミ生諸氏が就職活動をするにあたっての一般的な注意

 来年度講義準備中。こんなものも用意しております。近年似たようなことを毎年言っているので文書にしてみました。

    • 1.落ちても気にしすぎない。ただし社会の常識というものは厳然とある。

「人事学部」「就職面接学科」など存在しない。ほとんどの皆さんの就職先は、採用活動が本業というわけでもない。だから数社に一社はダメなアマチュア担当者に当たるものと思ったほうがよい。
 ただ、職域の異なる社会人と学生の就職事情や採用基準について話し合うと、多くの相手が似たようなことを言うことはよく経験する。それが「正しい」とは限らない。その時期その時期で、世間が一つの方向にゆがむということも含めて、欲しがられる学生はどこでも欲しがられる現実はある。

    • 2.他者の身になって考えられるように。

 例えば待ち合わせに遅刻すると、相手は無駄な時間を過ごすことになる。遅刻の理由が何であっても相手の迷惑が減るわけではない。謝ることは大事だが、相手のロスを最小限にするため、早く連絡を入れることはさらに重要だし、そんなことを起こさないよう余裕を持った移動を計画することはもっと大切である。
 社会人は誰であっても、チームで一定の成果を約束する。ブラック企業でなくても、泣きながらアクシデントを処理することは必ずある。自発的にリスクを軽減し、処理しようとしない人、自分の言われたことしかやろうとしない人は、チームの危機に手を出そうとしない人に見えるから、チームに来てほしいと言われない。このまま行くと他者の身に何が起こるのか、言われなくても考える習慣をつけてほしい。

    • 3.変な人だと思われないように。

 就職すると、その職場の名刺を持ち、その看板の下で仕事をする。社章のバッジを付けることも多い。自分がやったことはすべて、世間では「あの会社の人がやったこと」になる。だから企業は「いい人を採るより、地雷を採らないことを優先する」ことも多い。「そのために(多くの従業員を見てきた管理職たちによる)最終面接があるんだ」と某社の管理職に言われたこともある。
 靴を磨かない、ひげをそらないといった個々のサインは仕事の能率には響かないとしても(食べ物商売、客商売だとそうも言っておれない)、起床時の習慣もコントロールできないハイリスクグループに属していることをアピールしてしまう。皆さんが変な人であるかどうかは大学の関知するところではない。しかし変な人に見えないようにはしてほしい。

インフレーション・タックス

http://www.mof.go.jp/jgbs/reference/gbb/201306.html:Title=国債及び借入金並びに政府保証債務現在高(平成25年6月末現在) 財務省

 国の借金が1000兆円に達しました。ということは、もし年率2%のインフレが日本で定着すれば、毎年20兆円くらい政府負債が減るということです。平成23年度決算の政府歳入は109兆円ですから、これはけっこうな額です。

 インフレのことをインフレーション・タックスと呼ぶのは、こうした公債負担の圧縮効果があるからです。貧富の差なく、フローとストックの差もなく、アングラ・マネーにすら中立的にかかる(恐ろしい)税金です。

 消費税で本当に税収は増えるのか? などと問うのはだいたい消費税反対派の皆さんであるという印象を私は持っていますが、それがもたらす不況で10兆円や15兆円程度の減収を食らっても、もし消費税増税が2%のインフレを誘発するのなら、政府としてはいまや断行すべきでしょう。ちなみに現在、消費税の税収は地方消費税を除いて10兆円強です。

 日本は所得収支の黒字で貿易赤字分を支えていますが、これはもとをただすと日系企業の生産したメイド・バイ・ジャパン製品が海外で売れた利益であったり、海外債券や株式の果実であったりします。震源地が中国であれ韓国であれ、経済不振の影響がアジア、さらに世界に広がると、これらは現地通貨建てで減少したうえ、「安全資産」として円資産を求める流れで円高になって目減りします。インフレはその通貨を安くする要素にもなりますから、日本でのインフレはこれらの流れを食い止める向きに働きます。直接為替レートに介入することは世界が忌避するところですから、間接的に日本政府が取れる手段として、おそらくインフレ誘導は最強のものです。

 日本は昔ほど豊かではないし、今後も稼ぎ手の減少で稼ぎは減っていきます。お年寄りのお金の運用先を探しているのはどの先進国も同じで、過去に貯めたお金の有利な運用はどんどん難しくなっていくでしょう。日本人はビンボになりました。主に国が借金を背負っているから国民が自覚しないだけです。マクロレベルで家計が大きな借金を背負っている韓国のような社会では、危機を自覚する家計はずっと多いのでしょうが。

 そのことを忘れる手段として、あるいは視界から隠す手段として増税の先送りや社会補償カットの先送りを続けていると、いつか若者が皆さんの枕元や玄関先に立つでしょう。もちろん今の若者の枕元には、もっと先の世代が。

「TPPってどうなるの?」

http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS08046_Y3A700C1MM8000/?dg=1:Title=著作権保護、70年に延長 日米TPP事前協議(日本経済新聞)

 TPPについて卒業研究をしたいという学生さんに対して、私は2、3年前から、「TPPに賛成・反対、ましてまとまるかどうかなんてどうでもいいんだよ?」と言っています。

 日本がTPPに乗ると言い出した時から、アメリカのメディアは日本が混合医療などどの具体的問題について譲歩するのか注目する記事を書いてきました。全体としてまとまるかどうかは、それに比べれば大した問題ではありません。言い換えれば、日米あるいはもっと多国間で、以前から存在した対立点について新たな合意ができたとき、それにTPPという名前がついているかどうかは、あまり問題ではないのです。

「TPPに賛成ですか反対ですか」と聞かれたら、私は「まとまるわけがないと思っている」と答えています。現在のP4協定を変質させかねない、互いに聖域を認め合うような提案を日米は話し合っているようですし、現在のTPPと新しい枠組みを切り離そうという話がいずれ出てくるんではないかと思っています。そしてそれは、実際に何が合意されるかという話とは、別なのです。

付記 リンクしたニュースそのものは、経財相が「具体的な協議をしたわけでも結論を出したわけでもない」とあとで述べており、信ぴょう性には留保をつけて読むべきでしょう。

2012年度後期「ミクロ経済学」について

 2012年度後期の授業アンケート結果が届きました。他にももちろん返ってきましたが、「ミクロ経済学」はアンケート結果が111通しか返ってきていないのに自由回答が29件ついている百家争鳴状態でした。「レスポンス2013」の募集時期までほっておくと講義の様子を忘れてしまいそうなので、いま書いておきます。

 受講登録者数213というのは、長年あれこれ措置を取ってようやく得た適正レンジです。ただ、在籍者ほとんどが取っていた状態(300に近い状態)と比べて、どうも一番取りたい人が残った感じはないねというのが小テストを採点してみた雰囲気でありました。つまりほとんど点を取れない、予習せずに小テストに出てきたと思われる人が1〜2割いたということです。

 これを背景として、「演習問題の答えをはっきり言え」という意見が相変わらず多く寄せられたところであります。

 後期試験は80点満点ですが、4問に対して5行答えてほぼ満点……という人が実際にいます(ひとりしかいませんが)。満点は毎年いますし、今回も数名いました。つまり「何が説明のアピールポイントかをつかめている人に他の受講者より高い点をつけるのが適正な評価であり、そういう人を出すのが適正な講義様式だとしたら、現在のシステムは成果を上げている」ことになります。

 ミクロ経済学の小テストは復習して時肩を手で覚え、手で確かめないと解けません。講義を聴いただけで復習しなければ絶対に解けないといっていいでしょう。じつは、そのような(予習・復習に時間をかけないと単位が与えられない)講義が大学に求められている現実があります。おそらく来年度から埼玉大学でも、その方向に向けた大学全体の取り組みが、学生の皆さんの目に見える形で「迫ってくる」でしょう。

 また、それほどはっきりした形ではありませんが、良い評価を乱発することを避ける観点から、良い評価の付く学生の比率は一定範囲内にとどめるべきだという考え方も広く存在します。大学によっては、有の付く学生を一定比率内に抑えることをルール化しています。外部からの大学への評価も、こうした観点からの指摘がいつあってもおかしくない状態です。

 こう考えると、予習・復習のポイントすらつかめない学生が一定数存在し、それが最終評価に現れるということは、むしろ適切な難易度設定なのではないか? とすら思えます。大学全入時代を迎え、入試が学力のふるいとして意味を薄れさせるとともに、「授業についていけない人も学生証を持っているかもしれない時代の単位認定」には、こうした一種のダークサイドがつきまといます。「結果で評価する」というのは「努力量だけでは評価しない」ということであり、「運不運まで含めて今までの諸々を引きずった能力評価を受ける」ということです。その点で大学はいま改めて、社会の入口としての位置づけを求められているのだと思います。

 もちろんそうしたダークサイドにも説明責任が生じます。ポイントは学生への要求事項設定にあります。ここまて来いと学生に指示を出し、来るための講義や自宅学習指導をし、その成果を評価することはワンセットです。評価はしないけどがんばれとか言ってもそれは教師のわがままであるし、少なくともミクロ経済学受講者であれば、そんな経済合理性を欠く行動はしないでしょう。

 私の講義で皆さんに求めているものの中では「現実への応用力」「説明力」が大きなウェイトを占めています。「日本や世界の経済政策を決める人だけ知っていればいい経済学」なんか埼玉大学には要りません(断言)。でも「経済学をわかっていない人に囲まれた状況でも、今の状態はどうマズいのか説明して納得させる力」はむしろ必要です。短くてもポイントを押さえた答案に高い点がつくのはこのためですし、ポイントを押さえられない人にまで高い点を付けたら、認定が甘すぎるという(学生以外からの)批判を浴びてしまいます。

「どう書いたらいいのか教えてくれ」という要求にこたえる講義をしようと思ったら、作文の授業めいたものになってしまいます。「経済学」の余り時間などにその種のことをやったことがありますが、まあウケは最低の部類です。ただ自宅学習(予習復習)の具体的内容を示せ、量を増やせという要求は実際にあるわけですし、能力を測っておいてそれを増進させる講義はなしというのもアンバランスな話です。講義には向かない内容も、課題としてなら出せるかもしれません。この点は今年度後期に間に合うよう、少し工夫をしてみたいと思います。

 残念ながら、ここまで評価のハードルを上げるまで全員受講状態を抜け出ることができなかった経緯を考えると、「ハードルに届かない人が当然にたくさん出る講義」を続けざるを得ません。もちろん非常に安易なもう一つの方法は「数学に関する要求事項を跳ね上げる」ことですが、先ほど説明したように「埼玉大学卒業生の人生に資する経済学」はそれではないと信じていますから、それはしたくありません。新聞を読んで、そのニュースが自分の生活にどう響くか理解するのに役立つ直観的な理解を、今後とも教育目標にしていきたいと思います。そのうえで、受講者が今の人数だからできることを模索していきたいと考えます。

発送電分離

 発送電分離の法案提出を今年国会提出しない可能性が出てきたことが報道されています。結構なことだと思います。

 発送電分離をめぐる経済モデルは盛んに研究されていますが、「実際にどんな問題点が出るか」は経済学の論文ではわかりません。

 電力供給の現場を預かる電力会社の言葉が信用してもらえないとき、そして第三者の研究者まで電力会社との関与の太さで信用をうんぬんされるとき、実際に起こる問題を客観的に整理し、発送電分離の得失を冷静に論じることは困難です。

 ましてや、電力会社をこらしめる方法として発送電分離を論じるべきではありません。それは日本を電力会社に投げつけるようなもので、投げつけたものは普通壊れます。

 私自身は発送電分離の利が大きいか害が大きいか、はっきり述べる根拠を持ちません。ただ、今はこの問題を判断すべき時期ではないと考えます。大規模停電で直接間接に人が死ぬのだということを我々は学びました。そのリスクについて専門家と冷静に話し合える時期を選んで、この問題を処理すべきだと思います。

早期退職と一身上の都合について(私のことではありません)

 人は生活を守るためにいろいろなことをします。教師にはだいたい普通の意味での接客スキルがありませんし、理不尽な客との付き合い方の感覚も持っていません。退職金が数十万円減るとして、それを生涯もう稼ぐことができない、と予測する退職者がいても不思議ではありません。

 職場の思い出は二重の意味でプライスレスです。かけがえがないと同時に、いくらあっても老後の生活の足しにはなりません。例えばお金のかかる子供がまだ就職していないかもしれません。あえて汚名を着てでも現金を取って、生活を守る判断をする退職者はいるかもしれません。そして、法律はそうした行動を許しています。

 法律で許された行動を予見していない為政者は、早期退職に怒りを表明するよりも、その迂闊さをこそ自省すべきでしょう。もっとも、大半といってもよいほどの対象者が早期退職を思いとどまったのですから、彼らは十分に成功しており、財政支出の削減という重要な現下の課題に向けて役目をよく果たしたと考えます。もちろん彼らは法律の許す範囲で、早期退職者が「道義的な」責任を果たさなかったことを冷静に継続的に指摘し、財政支出削減に最善を尽くすことも職務のうちでしょう。

 生活のすべてが闘いではありませんが、闘いである側面もあります。私自身はこの件について誰かの肩を持つ立場にありませんが、給与水準と勤務の負荷が悪化の一途をたどる国立大学において、あまり優良とは言えない自身の健康もかんがみて、黙々と貯蓄に努力しています。

 現代の大学は様々な層の学生を抱えています。放っておいても勉強する学生は全体としてますます少なくなり、過去のマイナスを多く背負った学生も入学してきます。教育の力で在学中に伸び悩みを脱する学生がどれだけいるか。それが結局のところ教師が仕事をするということでしょう。

 給与の良い大学を志向した結果、自分の思いが届かない学生ばかりに囲まれてしまうなど、私は嫌です。もちろんそうした状況が、遠からずその大学が経営に行き詰まることを暗示しているせいもありますが。私は埼玉大学で、「ああ日本のボーダーラインはここか」とよく思います。端的に言えば、この学生さんに大卒にふさわしい仕事ができそうか、そうでないかということです。大学全部がボーダーライン以下だったら、私の仕事はそこにはないでしょう。

 私の配偶者が勤める大学と埼玉大学のどちらかが生き残れば私はとにかく食えます。それを与件として、私には私のミッション定義があり、私の生き残り計画もあります。それは埼玉大学が持っているものとぴったり同じではありませんが、その中で一緒にやれる部分があるからこそ私はここにいます。

 日本全体が少子高齢化で稼ぎを失い、ゆっくりと貧乏になってゆく過程の中で、今まであいまいにされていた権利と義務が問われる場面はまだまだ増えるでしょう。私はあまり道義を気にするタイプの人間ではありませんが、約束や義務には敏感なほうです。常々口に出すかどうかは別として、もっとほかの人も約束や義務を明確に考えたほうがいいのになと思うことはあります。それはこれから、否応なく突きつけられてくるからです。

9月18日を迎えるにあたって

時事通信社の城山英巳氏による論説「「尖閣対立」本格化から1カ月 日中関係はどう変わったのか」は、例えば梁振英氏の介在など、ネットの一部でささやかれていた点にも目を配り書かれた、北京で人と交わらなければ書けないであろう論説です。

 この論説によると、8月15日の事件処理には日中当局の連携があり、洋上での実力行使で死傷者を出さないよういったん上陸させる手順が綿密に練られました。

 ところが9月18日(柳条湖事件のあった日)を意識して中国から発した多数の漁船と海上保安庁巡視船が対峙した場合、巡視船そのものが包囲されるなど、8月15日には避けられた実力行使が不可避となる状況があるかもしれません。

 中国国内情勢に関する現在の報道の多くは、中国政府の影響下にある通信社から配信された記事をベースとしています。その一方で、様々な方法で規制を潜り抜けた現地からの直接の声や、それを翻訳したメッセージも入手可能です。マスコミ報道だけを見ると、中国の人々はすべて手のひらを返してしまったかのように見えますが、他のソースを総合すると必ずしもそうではありません。こんなときだからと日本食を食べに行く人や、デモ隊の無法な暴力に怒っている人たちもちゃんといます。デモ隊が壊してしまったものの多くは中国人の私有物ですから、普通に考えれば怒るのは当然ですが。

 衝突による死傷者が出た場合でも、在日中国人に対する態度や、関係企業・施設への示威行動において、自制を忘れ取り返しのつかない感情的な行動に走ることがないよう呼び掛けます。彼らを普通の人々として接し、我々も普通の人々としてふるまいましょう。もちろん普通の人々は、一定の割合で礼儀を守れない人や、犯罪に走りやすい人々を含んでいます。お互い様です。しかしそれを「だから〇〇人は」というnational generalizationに押し広げないよう自制しましょう。誰かが自制を失えば、それは別の誰かの汗、場合によっては血によって埋め合わせされることになります。