寒冷期は樹木を犠牲に得た稲からの恩恵も少なく、さらに暖をとるための薪炭材も必要であったと思いますが、どのようにバランスをとったのでしょうか。バランスがとれなかったから、はげ山ばかりだったのですか。

時期や地域による相違もあると思いますが、次の回の講義でお話ししたように、草肥=刈敷を得るための柴草山が大規模に展開するなかで、各地で災害が相次ぎ、バランスは崩れかけていました。幕府や諸藩が禁止令を出し、植林を奨励するなかで、ギリギリのところで調和が保たれていたり、あるいは破綻と回復を繰り返したりが続いていたわけです。東北地域では、材木と薪炭材伐採のため、17世紀の時点で山林資源が枯渇しかけており、これも伐採禁止令とのいたちごっこで、破綻と回復を繰り返していました。そうした意味では、やはりバランスはとれていなかったと考えるべきでしょう。