中央集権へ最初に踏み出したのは蘇我氏で、そのために山背大兄王を襲撃したと聞いたことがあります。どうなのでしょうか? / 朝廷において皇族を殺してしまうのは、明らかに反発を招くと思うのですが、なぜ入鹿はそうした手段を選んだのでしょうか。

上の回答でも書きましたが、私も、中央集権化の改革は当初蘇我氏が担っていたと考えます。乙巳の変は、その主導権を大王家へ奪取するクーデターであった、ということです。入鹿による山背大兄暗殺は、蘇我氏内部の問題に端を発していますが、実は古人大兄や巨勢徳太・土師娑婆、倭馬飼首らが加わっていたと『日本書紀皇極天皇2年(643)11月丙子朔条にあります。また、のちの伝記史料ですが、『上宮聖徳太子伝補闕記』『聖徳太子伝暦』には、乙巳の変の主役のひとりである軽皇子(孝徳)も、その動きに関与していたと記しています。事実、笹川尚紀さんの調べたところでは、天平19年(747)『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』に、クーデター後間もない大化3年、孝徳が巨勢徳太を使者に、聖徳太子創建の法隆寺へ食封を施入したとの記録が残っているのです。上の馬子が崇峻大王を暗殺した事跡に倣い、入鹿も諸王・諸臣の合意を得て山背大兄を攻撃したのでしょうが、馬子ほど群臣たちを掌握していなかったために無理があり、新たな軋轢を生むことになったのでしょう。