亡命百済人を受け入れることが、どうして「日本」という国号に関係するのでしょうか。 / 倭が百済と合体して大王が天皇になったのは、百済の権威が日本において大きかったからでしょうか。

どこかで指摘したと思いますが、中国王朝や朝鮮諸国においては、滅亡したかつての王国や、自らが滅ぼした王朝の存在をその支配体制に取り込むことで、自国の正当性/正統性を主張することがよく行われました。倭も同じように百済王家を取り込み、これまでの倭以上の〈小中華〉としてのあり方を目指し、〈日本〉国号の使用へ踏み切ったものと考えられます。具体的には、倭に人質として送られてきていた百済王族のうち、豊璋は復興百済王朝の王となり、白村江の戦いの後に唐に捕縛され流罪となりますが、列島に残った禅広王が「百済王」を賜姓され百済王氏の始祖となります。新羅は、朝鮮半島をも自国の範疇に組み入れようとする唐に反発、自らの管理下のもと名目上百済高句麗を復興させますが、このような動きに対して倭は百済王氏を誕生させており、新羅の正当性に対して「百済は倭にあり」とのアンチテーゼをなしたものと考えられます。これまで授業でお話ししてきたとおり、百済は倭を武から文へ転換させた窓口であり、ある意味でこの吸収は、古墳時代後期から模索されてきた倭の東アジア外交の、ひとつの到達点であったということができます。