法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

英雄が殴られるまで

いうまでもないが、英雄は聖人君子と違って、最初から非の打ち所のない人間ではない。どちらかといえば長所も短所も極端な人間ではないだろうか。歴史をたぐって出てくる様々な「英雄」は、時に軽率、時に間抜けで、倫理や道徳を超越した者が少なくない。
英雄とは社会を変革する異端であったし、逆にいえば、変革の責を社会が押しつける生け贄であった。


在特会から集団暴行を受けたid:toled氏が英雄視されることを、懸念する意見が複数ある。
http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20090929/1254246684

まあ、ぼくの言いたいことはnopiko氏とzaikabou氏とfont-da氏に全部言われてしまっているんだけれども、たかだか排外主義に反対するだけの簡単なお仕事が「殉教者」呼ばわりされたり「覚悟」が必要とされたりする現状が十分に異常事態なんだね。

上記y_arim氏のエントリは、toled氏を生け贄にすることの危険性をわかりやすく指摘している。
はてなブックマーク - リンチ上等と反日上等 - 地を這う難破船

mujin 差別, 話法 いや実際、朝鮮人には同情できないよ。総督府に抵抗してきたのも事実だし。英雄気取りの安重根と何が違うの。そもそも元寇の手先になって日本に攻めてきた過去もある。それが被害者面してる連中の正体だよ。 2009/09/29

一方で、このmujin氏のコメントは文脈が理解できなかった*1。少なくとも、ブックマーク先のエントリは安重根へ言及していない。
しかし、関連して指摘しておきたいことはある。安重根は単純に朝鮮人だけが神格化しているとはいいきれない。たとえば当時においても、朝鮮半島を暴力的に植民地化することを批判する日本人が安重根を賞賛していた例がある。徹夜城氏が安重根の複雑な人間としての側面を評した文章を紹介しておこう。
ƒjƒ [ƒX‚ÈŽj“_E‚Q‚O‚O‚W/‚S/‚P‚R*2

 そんなわけで彼を単純に「愛国・民族英雄」ともてはやすのは的を射てないんじゃないかというのが僕の持論だ。今の文章を書きうつしつつ「中江兆民とか幸徳秋水と似てくるな」と気づいたのだが、調べてみたら幸徳は実際に「生を舎(す)て義を取る 身を殺して仁を成す 安君の一挙 天地みな震う」という漢詩を書いて安をたたえていたことを知った。

断言はできないが、幸徳秋水のような安重根賛美は、問題を英雄に解決させようとすることで植民地政策を支援した側面もあったのではないか。たとえ幸徳秋水自身に、その意図がなかったとしても。
その意味において、安重根の立ち位置はtoled氏と重なる。もちろん、運動が敗北した結果として政治家を暗殺したことと、デモに対して排外主義反対を主張して集団暴行にあったことの差違は大きい。ここで重なるのは、toled氏のふるまいではなく、英雄視しかねない第三者のふるまいだ。


先に引用した徹夜城氏の文章では北朝鮮プロパガンダ映画が安重根を英雄視していないことも紹介されている。韓国でも安重根の評価は時代によって変化している。
他国に目を移すと、たとえばキューバ革命でも似た現象が見られる。チェ・ゲバラキューバにとどまらない革命の理想を象徴とする英雄となり、現代でも消費されていることは有名だが、フィデロ・カストロも革命の当初は北米でゲバラ同様に英雄視する向きがあった。そもそもカストロキューバ革命自体が、北米から好意的な報道をしてもらえるよう活動し、資金協力を得ていたくらいだ。


英雄として祭り上げて地に落とす、それは良いとしよう。いや良くはないが、いったん棚に上げる。
批判するべきは、英雄を地に落とした後、あるいは英雄が自ら落ちた後、あたかも社会を変革する行為の全てまで妥当性がなかったかのように扱うことだ。そしてここで批判されるのは、祭り上げた者だけではなく、変革されるべき社会を構成する者、全てだ。
いわんや、英雄視することの危険性を留意する指摘も多いのに、英雄視する意見ばかり取り上げて、行為の妥当性へ疑問符をつける態度は、実に卑劣といわざるをえない。
結局のところ、主張の妥当性を発言者に帰属させる、そういう属人的な発想に問題がある。犯罪者が殺人を悪いことと主張しても、殺人は良いことにはならない。属人的な発想を人間の本質ととらえてふるまうことは、政治手法としては求められるかもしれないが、それは主張の妥当性とは必ずしも関係ない。


ちなみに、ごく個人的な考えだが、toled氏の行動が一部で反発されている理由は、その存在が英雄からほど遠いからではない気がする。むしろ英雄らしい資質を持っているからこそ、冷笑されているのではないかと思う。いや、toled氏が軽率とか間抜けとかいう話ではなくて。
同じ行動を取っても、たとえば「嫌韓厨」と自他ともに認めていたり、普段から「はてなサヨク*3を批判していたり、雨の日に小犬を助けて学級委員長に胸キュンされるような不良であれば、今は冷笑している人々は賞賛に回るのではないかな、ということ。
属人的な発想は、思想と行動に一貫性がある時にだけ妥当性を認めるとは限らず、思想と行動が相反している時こそ妥当性を認めることもある、と注意しておく。英雄視ゆえの賞賛もあれば、意外性ゆえの賞賛もあるし、党派性ゆえの賞賛もある。賞賛が可能かどうかは行為の妥当性と関係あるが、賞賛を表明する動機は行為の妥当性だけでは決まらない。
もし、言及する動機を持つと同時に、賞賛したくない動機を持っていれば、歪んだ意見が生まれるというわけだ。


あと、英雄視することの危険は留意しておくべきとして、toled氏や守ったkinyoubi氏へ向けられた肯定は奪うべきだろうか。
成熟した民主主義社会で当然のことが成り立たない場において、当然のことを行ったことを肯定せずして、何のための民主主義か、何のための自由か。
そうも思うのだ。

*1:後に書かれたhttp://d.hatena.ne.jp/mujin/20090930/p1は、本エントリと問題意識が重なっていると思うが。

*2:引用時、文字色を統一した。

*3:今一つ基準がよくわからない言葉だが。