法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

「似ている」という主張の目的は三つある

ダークナイト ライジング』は未見なので、『機動警察パトレイバー 2 the Movie』と類似しているという主張の妥当性については何ともいえない。ただ、「不思議」と評している部分の共通項は、確かに興味深い。
「ダークナイト ライジング」 って 「パトレイバー The Movie2」のパクリじゃないの? |  ウルトラウーマンBlog
一般論として、単に共通項を並べるだけで一方が一方の「パクリ」と主張することは避けるべきではある。偶然という可能性も当然あるし、両方が別の先行作品から影響を受けた可能性も検討されるべきだ。特にジャンルが重なっている作品ならば、複数の先行作品から引用することで共通項が「偶然」に多くなることは自然だ。
しかし似ていると感じた率直な感想を表明すること自体は、そう悪くない。そして似ているという解釈は、単なる「パクリ」という評価にとどまらず、より広く深く物語を読みこむことにも繋がる。


数年前、ルワンダ虐殺を題材にした『ホテル・ルワンダ』のパンフレットが、解説文の末尾で関東大震災朝鮮人虐殺に言及したため、反発を呼び起こしたことがある。

ポールを観客に近い人物として描くことで、『ホテル・ルワンダ』は「彼だって戦えたのだからあなたにもできるはず」と、観客を励ますと共に、逃げ場をなくす厳しい映画になった。ポール・ルセサバギナ氏は『ホテル・ルワンダ』の米版DVD収録のコメントでこう問いかけている。

ルワンダと同じような状況になったとき、あなたは隣人を守れますか?」

 日本でも関東大震災朝鮮人虐殺からまだ百年経っていないのだ。

解説文を書いた町山智浩ブログで総括的な補足エントリが上げられており、独立した名文としても読ませる。
「わかってもらえるさ」RCサクセション - 映画評論家町山智浩アメリカ日記*1
そして歴史を題材とした作品群の例を引いていき、映画という虚構の枠組みで現実を解釈する意義を語り、なぞらえの目的や効果が一つではないことを示した。


一番目の目的では、身近なもの、よく見知ったものになぞらえて、感覚的にわかりやすくする。つまり、たとえ話や比喩のこと。

もちろん、そのパンフが日本の観客向けだからそれを例に挙げたわけで、もしオーストラリアの観客向けなら、先日のアラブ人リンチ事件、アメリカなら……山ほどあるな、韓国、中国、それぞれの国の観客に対してはそれぞれの例を挙げて「誰にでもどこにでも起こり得る」と映画を遠い外国の出来事から身近に引き付けるための一言を書いていただろう。

関東大震災における虐殺という義務教育でも学ぶような身近な歴史との類似を指摘することで、ルワンダという遠い国の知られていない事件についての想像力を観客から引き出す。身近な出来事との関連を示して、興味を引くという効果も期待できる。


二番目の目的では、似ている枠組みに異なる結論を出していることを指摘して、矛盾があると批判する。いうなれば、反語や風刺のこと。

しかし、最後にたった一行書いただけで朝鮮人への憎しみがぶわーっと沸き起こる人々を見ると、「やっぱりルワンダと変わらないじゃん」と言いたくなった。

関東大震災における虐殺との類似を指摘することで、朝鮮民族への偏見という現在のインターネットで広く見られる差別や憎悪を引き出した。結果として、第三者的には差別を問題と考えつつ自覚せず差別するような人間心理をえぐりだした。関東大震災における虐殺や、ルワンダの虐殺が今でも起こりうる、その心理的な背景が現在でも存在することを、逆説的に証明したのだ。


三番目の目的では、表現のためではなく、似ていると主張すること自体が意味を持つ。いわば、相関や関連の指摘といったところ。

それぞれの違いを考えるのももちろん大切だ。

でも、動機や状況や歴史的背景がどう違おうと、恐怖によって多数派が少数派の異者を、それぞれの個人の行動の罪によってではなく、属性によって殺した、という事実は同じだ。

一番目と二番目における類似性の指摘が手段であることに対し、三番目は指摘そのものが目的だ。現象や場面は異なっていても同一同根の問題だという意識をもって主張されることが多い。様々な出来事を個別に論じるだけでなく、より普遍的な広い枠組みで問題を考えることをうながす。


まとめると、一番目の目的であれば、読み手に納得させられればいい。しかし二番目の目的であれば、読み手に反発させて言質を引き出すことが重要な場合もある。三番目の目的においては、わかりにくくても納得させるように補足することが求められるかもしれない。
一番目の目的ならば、読み手に通じなければ表現として失敗したと考え、とりさげるべきかもしれない。二番目の目的でも、読み手が反発するか納得するかで表現の効果が終わる。しかし三番目の目的であれば、読み手の理解をさまたげるとしても、逆に主張の責任をとるため安易に取り下げてはならなくなる。書き手と読み手それぞれがなずべき応答は、なぞらえの目的で異なってくる。
ただし上述例のように、一番目から三番目の目的は必ずしも矛盾しておらず、別個に行われるとは限らない。同時に三つの目的を持って主張することもあるし、主張の読み手によって効果も異なってくる。


また、作品同士の類似を主張する場合は、また少し効果が異なることもある。一番目の目的は、作品の方向性を知らない相手に説明する紹介でよく使われる。二番目の目的は、類似を指摘することで相違点を際立たせる行為と解釈すれば、評論文や解説文でよく使われる作法だ。三番目の目的は、ジャンル別けしようとする言説や、盗作という主張においてよく見られる。
いずれにせよ、類似を主張するだけならば、たいていの物事において可能だ。気をつけなければならないのは、何のために類似を主張しているのか、類似して見えることから何が読み取れるのか。それを書き手も読み手も見失ってはならない。

*1:私の考える各「目的」に該当する文章を紹介するため、引用は前後している。