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法華狼の日記

2012-09-28 上げたのは1日後

[][][]尼港事件についての秦郁彦見解

シベリア出兵が続いていた1920年樺太北部の対岸にあるニコラエフスクパルチザン日本軍が衝突し、民間人や領事をふくむ日本人が虐殺された。尼港事件と呼ばれ、当時は通州事件が「第二の尼港事件」と呼称されたくらい、日本の反ソ感情を煽った出来事だった。

それでいて、当時は被害者遺族に対して義損金が支払われたのみで、公的支出はされず、生存した被害者には募金等による民間支援しかなかったという*1


この尼港事件に対して、2000年に出版された文春新書『昭和史を点検する』*2を斜め読みしていた時、参加していた秦氏が言及し、批判的に論評していることに気づいた。

それは、休戦していたパルチザンを日本軍部隊が勝手に攻撃して敗北し、その際に日本人が虐殺された無意味な戦闘という見解。加えて、そのような経緯を無視してソ連への憎悪を煽る世論形成に利用されたと指摘していた。単純に日本人虐殺の責をソ連やロシアに対して求める立場とは、一線を画している。秦氏は明らかに右派として論じつつも、太平洋戦争へ続く日本軍の暴走をいさめるという立場として一貫している。


それでは秦氏の見解にどの程度まで妥当性があるだろうか。他者の歴史研究を見ると、尼港事件に対する評価は定まっているとはいいがたいようだ。たとえばネット上で様々な辞典の記述を読み比べられるサイト「コトバンク」を見ると、出典によって位置づけに大きなぶれが見られる。

尼港事件(にこうじけん)とは - コトバンク

たとえば「世界大百科事典 第2版の解説」では下記の通り。どう読んでも日本語の文章としてこなれていない。

シベリア出兵中の1920年3〜5月に尼港(ニコラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した事件。同市はソ連(現,ロシア)極東のアムール川河口に近い漁業都市で日本領事館も置かれていた。日本軍はここを1918年9月占領し,20年冬には日本人居留民約380名,陸軍守備隊1個大隊,海軍通信隊約350名がいた。たまたま同年1月トリャピーツィンYa.I.Tryapitsinの率いる約4000名のパルチザン部隊が日本軍を包囲した。

朝日新聞掲載「キーワード」の解説」では下記の通り、ここでは最もパルチザン虐殺を批判する論調になっている。

「ロシア革命後の1920(大正9)年3〜5月、アムール川河口の港町ニコラエフスク(尼港)で、駐留していた旧日本軍や在留邦人約700人、資産家階級のロシア人数千人がバルチザン(不正規軍)に虐殺された。旧ソ連政府は事件後、責任者を処刑。賠償を求めた日本は北樺太を保障占領した。

( 2007-03-09 朝日新聞 朝刊 熊本全県 1地方 )

「百科事典マイペディア」は下記の通り、引用された範囲では、事件における虐殺より前段階の衝突に重きを置いている。

シベリア出兵中の紛争事件。1920年2月アムール川河口ニコラエフスク・ナ・アムーレ(尼港)の日本軍,邦人は包囲したパルチザン部隊との間で降伏協定を結んだが,3月日本軍はそれを破って奇襲,敗北し,122名が捕虜となった。

※本文は出典元の用語解説の一部を掲載しています。

他に、「デジタル大辞泉」等は「日本の世論は激高」といった表現を使い、その後の歴史に与えた影響を重視していた。

また、YAHOO!百科事典に掲載された「日本大百科全書」の記述は、秦見解に近いと感じる。

no title

シベリア出兵中の紛争事件。1920年(大正9)2月、黒竜江オホーツク海河口にあるニコラエフスク(尼港)を占領中の日本軍1個大隊と居留民700余名は、約4000のパルチザンに包囲され、休戦協定を受諾した。ところが3月12日、日本側が不法攻撃に出たため、パルチザンの反撃を受けて日本軍は全滅し、将兵、居留民122名が捕虜となった。5月日本の救援軍が尼港に向かうと、パルチザンは日本人捕虜と反革命派ロシア人を全員殺害し、市街を焼き払って撤退した。日本はこの事件を「過激派」の残虐性を示すものとして大々的に宣伝し、反ソ世論を高めた。参謀本部はこれを利用して、アムール州からの撤兵を中止し、7月にはハバロフスク駐兵の継続を決め、またこの事件の解決をみるまで北樺太(からふと)を保障占領するとして、これを実行した。25年日ソ国交回復交渉で日本は賠償請求したがソ連は拒み、結局5月に樺太から撤兵して解決した。

さほど激しい議論の対象とならなかっただけに評価が定まらず、事実関係は見解に大きな差がなくとも、観点によって筆致が大きく変化する事件といったところだろうか。

*1:ただし「尼港事件・オホーツク事件損害に対する再救恤、一九二六年」という論文を読むと、日本政府の被害者への冷たい対応があったことは確かとし、「日本政府の賠償責任否定が前提にある」と評価しつつ、後年に再度の被害者救援策がなされたことを論じており、込み入った状況でもあったようだ。http://ci.nii.ac.jp/naid/110007522679

*2座談会形式で昭和史を追っていく内容。秦郁彦に半藤一利保阪正康という特定の歴史認識でよく登場する面々に加えて、坂本多加雄が参加している。坂本多加雄は2002年に亡くなった政治学者で、つくる会の理事もつとめていた。

NakanishiBNakanishiB 2012/10/01 07:16 どうも、シベリア出兵はきちんと書かれた本がほんとに少ないですからね。原暉之「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922 」がとてもいいのですが、絶版で。筑摩書房は200円越えになってもなぜ文庫化しないのか…。
 なんかブクマで、Wikipediaにリンクして騒いでる人がいますが、ついでに調べて驚いたのは「尼港事件」の項目が大幅に変わっていることですね。どうやら白系ロシア人の記録が翻訳されたのでそれを元に書き加えられたようです。もちろん、シベリア出兵に関する項目の多くの基本である原暉之はそれも当然資料としていることは記事に明記されていますが。しかし、問題の資料をもとに、既にそれを考慮した原氏の本に基づいた記述(日本軍の責任の重視)を批判するのは「独自研究」に当たるのではないかと思うんですが…。なんせシベリア出兵の本記事より長いですから。まあ、図書館で読んだので批判の正当さの確認はできないんですが。
 ノートにはこの書き換えの過程が書いてあるのですが、正直とてもついていけない。まあ、(資料にもちゃんと当たってはいるし(妙なのもあるし、古本屋で買えるんだから記事を一から書くなら原暉之の本くらい買ってほしいが)、主観的には客観的であろうとしているんですが。なのに、トリャピーツィンの赤軍による裁判の罪状にロシア人への暴虐はあっても日本人に対するものがないことを2度も書いたり、シベリア出兵に関係のない事件について書いたりしてあるし。まあもっと酷いのはいくらでもありますが(読んでませんが原氏には「インディギルカ号の悲劇という本があります)。
 シベリア出兵が語られなかったことは秦氏の言うとおり日本の軍の歴史の重大な曲がり角にあった故なんですが、戦後もほとんど無視され続けた結果、ほぼ唯一のきちんと全体を扱った研究書である原氏の本を批判するという形で記事が成立してしまっている部分が多いということになってしまってます。それは社会の変化とあいまって秦氏なども共有していた常識が崩れてしまったという感じですね。前の記事との読み合わせなどもしてみたいですが、とりあえず現在にあわせて改定して原氏の本が復刊されてほしいです。

hokke-ookamihokke-ookami 2012/10/03 06:39 >シベリア出兵はきちんと書かれた本がほんとに少ないですからね。

私も、通説の表層をなでたくらいしか読んでいません。この方面では、むしろ秦氏が精力的に日本軍批判をしているといえるくらいで。

>原暉之「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922 」がとてもいい

紹介ありがとうございます、残念ながら未読です。復刊ドットコムでも依頼が出ているみたいですね。
http://www.fukkan.com/fk/VoteDetail?no=25075
検索してみたところ、下記ブログがシベリア出兵カテゴリでとりあげていました。尼港事件についてもとりあげていますね。
http://tnngsg4601.blog110.fc2.com/blog-category-54.html

>Wikipediaにリンクして騒いでる人がいますが

id:gimonfu_usr氏のコメントですね。
>帝政ロシア http://tinyurl.com/9zva8cd 赤軍パルチザン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E8%BB%8D これは風評ですか。あなたたちは日本軍がひたすら好戦的であれば満足でしょうけれども。 2012/10/01

別の出来事を持ち出して相殺しようとする、歴史認識問題でよく使われる詭弁にすぎないと理解すればいいでしょう。はてなユーザーにはもっとひどい論者が多いので、特筆して批判されることの少ない人物ですが。


>驚いたのは「尼港事件」の項目が大幅に変わっていることですね。どうやら白系ロシア人の記録が翻訳されたのでそれを元に書き加えられたようです。

私も諸説についてインターネット上の評価を探していた時に見て、ひどいと思いました。たとえば「日本軍決起の要因」という項目など、休戦に合意した状況で一方的に戦端を開いたことに対して、「決起」という当時の日本側主張から表現を引いていること自体がおかしい。
白系ロシア人記録について、ノートにおける当該の主張は下記ですね。

>尼港事件は、白系ロシア人たちの虐殺事件でもありまして、もちろん日本人の虐殺にも触れているのですが、パルチザンのあまりの蛮行に、白系ロシア人たちが命がけで残しましたこの調査記録が嘘だったとは、私にはとても思えません。原氏の著作は、この記録と大きく乖離しています。
>Iratume(会話) 2012年7月8日 (日) 06:10 (UTC)

このような主張が許されるなら、Wikipedia従軍慰安婦の項がどれだけ楽に通説へ書き換えることができるものか……
むろん一方の当事者が残した当時の記録が重要なことも確かですが、それを根拠にして「この項目の参考書としまして、原氏の著作が一番問題となりますのは、パルチザンと日本軍の軋轢のみがクローズアップして捉えられていることです」などと主張するのは不当な批判でしょう。

しかも、こんな状態なのに、編集者によってWikipediaの「良質な記事」として推薦されているという……「双方の言い分」などと評価しているユーザーもいますが、嘘と真の中間を主張すれば中立になるというたぐいの錯誤でしょうね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E8%89%AF%E8%B3%AA%E3%81%AA%E8%A8%98%E4%BA%8B/%E8%89%AF%E8%B3%AA%E3%81%AA%E8%A8%98%E4%BA%8B%E3%81%AE%E9%81%B8%E8%80%83/%E5%B0%BC%E6%B8%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6_20120911
ちなみに自薦的なことを行った編集者のChichiii氏は、利用者ノートを見る限り、鮮明な党派性を持っていると考えて良いでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E2%80%90%E4%BC%9A%E8%A9%B1:Chichiii
>Chichiiiさん、あなたは利用者‐会話:ジャムリンにおいて、「やまと新聞」を出典とした記事を除去されたことに対して反論していらっしゃいます。しかし、「やまと新聞」は「明治19年創刊」を自称してはいますが、「明治19年創刊」のやまと新聞は現在の東京スポーツであり、平成21年に過去のやまと新聞の名だけ借りて創刊したミニコミ紙(国会内にある唯一の保守系新聞と紹介ページに書いてあり、自ら院内紙であることを標榜しています)に過ぎません(過去には有田芳生氏に「そんなの新聞じゃねえ」と罵倒され抗議文を送っています[7])。とうてい信頼できる公刊された情報源とはいえません。--彩華1226 2011年8月31日 (水) 13:33 (UTC)

>しかし、問題の資料をもとに、既にそれを考慮した原氏の本に基づいた記述(日本軍の責任の重視)を批判するのは「独自研究」に当たるのではないかと思うんですが…。

私もそう思います。少なくとも現状の記述の方が明らかに一般的な通説から離れていますね。

>戦後もほとんど無視され続けた結果、ほぼ唯一のきちんと全体を扱った研究書である原氏の本を批判するという形で記事が成立してしまっている部分が多いということになってしまってます。

原氏以外の全体研究が存在しないため、歴史学上の通説を他から引くことが困難で、Wikipediaにおいても専門的な歴史学者であることがうかがえない記述にされてしまっている、ということもあるでしょうね。

郎女郎女 2012/10/04 22:26 原暉之「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922 」は、ciniiにおいて、8000円あまりで全文DLできます。私は古本で買って全文読んでおります。本の山にうもれて見つからなかったので大学図書館で借りましたけれども。デジタルであの値段は、ひどいと思います。

郎女郎女 2012/10/04 22:32 申し遅れました。最近、秦氏の著述で、とても史料と呼べないものを堂々と史料としてあげておられるのを見まして、自分のブログに書くため、そういやこの人、尼港事件をどう言っていたっけ? と思って検索をかけ、ここへ来ました。ありがとうございました。

NakanishiBNakanishiB 2012/10/05 04:06 >hokke-ookamiさん
どうも、長文にご返事ありがとうございます。
>この方面では、むしろ秦氏が精力的に日本軍批判をしているといえるくらいで。
 そうですか、普通はよかれ悪しかれ通説を前提に日本軍の歴史を語る時に出てくるという感じます。

>別の出来事を持ち出して相殺しようとする、歴史認識問題でよく使われる詭弁にすぎないと理解すればいいでしょう。
 そうですね、ただそこから「尼港事件」の記事に行き着いたので特記しておきました。

>「決起」という当時の日本側主張から表現を引いていること自体がおかしい。
そうですね、現地部隊が指揮官の統制のもと行った軍事行動ですから、「決起」というのは明らかに価値観が入った表現です。編集自体がどのような立場で行われたかを示しているでしょう。大日本帝国とソビエト連邦の立場の分け方はあくまで当時のものであるとすべきで、この対立を編集の軸とすべきではないでしょう。

>このような主張が許されるなら、Wikipedia従軍慰安婦の項がどれだけ楽に通説へ書き換えることができるものか……むろん一方の当事者が残した当時の記録が重要なことも確かです
 本当にそうです。私としては気持ちはわかるのですが(だからこそ、Wikipediaの特性上仕方がないとはいえアムール川事件いついて唐突に載っていたり、「トリャピーツィンの赤軍による裁判の罪状にロシア人への暴虐はあっても日本人に対するものがないことを2度も書いたり」しているのは不快なのです)。それに「ニコライエフスクの破壊」は事件から間もないうちに政治的目的を含んで書かれているので、著者の立場、訳者の立場、証言をきちんと分けて扱ううべきでしょう。事件の経緯をそれらの羅列を中心に示してしまうこの本の著者の主張を記事の主張として示すことでもあり、やはり不公正でしょうね。

>ちなみに自薦的なことを行った編集者のChichiii氏は、利用者ノートを見る限り、鮮明な党派性を持っていると考えて良いでしょう。
 なるほど、一人が書いているわけではないのでこういうことがあるのは厄介ですね。まあ彼の客観性の基準で推薦したということでしょう。では。

NakanishiBNakanishiB 2012/10/05 05:47 >郎女さん
>「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922 」は古本で買って全文読んでおります。本の山にうもれて見つからなかったので大学図書館で借りました
 これは失礼しました、私も行方不明の本は多いのでご事情は理解できます。

>デジタルであの値段は、ひどいと思います
 確かに私のような素人からすればなんだこりゃです、無料もしくは安くで公開すれば助かる人もおいでしょう。ぜひ改訂して復刊してほしいです。ただ、郎女さんは歴史についての文筆が職業ですので、Wikipediaの記事だけでなく活字で扱ってその際に買うというのもありではないでしょうか。

 Wikipediaの編集についてここで質問するのはちょっと微妙だし、私は歴史について本当の素人ですが少し。
 前の記事は安直だしできのいいものとはいえませんが、一から書き直すとしても残しておいていい部分があったのではないでしょうか?原暉之氏の本を参照したならなおさらです。たとえば日本とロシアの漁業問題は多少でいいから触れるべき背景ではないでしょうか。当時の資料のみ優先で、全削除はいかがかと(該当記事には第一次南京事件についての記述まであるんですから)。ロシア語が読める方がいればさらなる資料で補完ができましょうが。。
 関連して前記事での原暉之氏からの引用ととれる証言などが多く消えているのも問題です。きちんとした学術書であるからそこからの引用であることを示せれば十分だと思います。これらついてはロシア語が多く一次資料に当たるのはロシア史の専門家でなければほぼ不可能なものですから(松永伍一「子守唄の人生」のように日本語のものもありますが)。
 そして、パルチザンに関する記述の大幅な削除です。そもそも「パルチザン」もまた現地の住民から発生したものです、その意味で当事者性において白系ロシア人たちともやはり通底するものががあります。彼らとソビエト中央は区別すべきであるし、その固有の状況は事件の重要な背景であるはずです。パルチザン内部の状況がきちんと書かれず、「ニコエラフスクの破壊」からの引用(パルチザンが本質的にごろつきであるような記述が多い)でそれに換えてしまっている。その理由が「原氏の著作は非常に偏向していまして、恣意的な史料解釈が各所に見受けられます」というにはそれがきちんと議論されたように思えないし、その判断を支持できないような発言や編集がなされています。削除するなら原暉之氏や他の研究者の本や論文を元に書いたものを付け加えるべきではないでしょうか?。
 こういう部分からも、該当の記事は「独自研究」ではないかと思うわけです。

 なお、井竿富雄はネットで読める「尼港事件と日本社会、一九二〇年」で原暉之氏の論文を尼港事件についての日本人の歴史認識の問題点を、被害者性を強調して侵略性を忘れるという点を含め肯定的に扱っていますが、まあかつての社会党左派の機関紙でもあった「科学的社会主義」に論文を書いていますから「ソ連べったり」ともいえるかもしれません。
 
 では、いささか余計なことばかり失礼しました。

郎女郎女 2012/10/05 11:55 丁寧なご返答、ありがとうございます。
まず最初に、私がwikiで尼港事件を編集しました経緯なのですが、Iketomatsu氏が原暉之氏の「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922 」を丸写し、といいますか、誤読して丸写しにします以前から、なんとかしたいと思っておりました。しかし、なにより「ニコエラフスクの破壊」が手に入りませんで、国会図書館で読み、半分をコピーしてもらったわけなんですけれども、そのときにはもうIketomatsu氏が編集しておりまして、手元に全文がなく書き換えることは不可能でしたし、相当な労力を使いそうで、敬遠しておりました。しかし今回、「ニコエラフスクの破壊」の内容をうろ覚えであのノートを書きました直後に、古書店で売り出されていることに気づきまして、手に入れて読み直し、他にも資料を集めまして、書き直すことにしました。
「ニコエラフスクの破壊」をはじめ、他の資料を読み直しました結果、原暉之氏が「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922 」を書きました姿勢に怒りを覚えたからです。

 井竿富雄氏の「尼港事件と日本社会、一九二〇年」をよくご覧になってみてください。評価なさっているのは、論文『「尼港事件」の諸問題』であって、「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922 」ではありません。「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922 」は、「尼港事件」の参考にしますには、非常に不適切な文献です。「尼港事件」は赤色テロルの一例ですのに、そのことへの認識がまったく示されていないからです。赤色テロルにつきましては、ヴィッチ メリグーノフ著 梶川 伸一訳「ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル(1918~23)―レーニン時代の弾圧システム」が参考になりますが、10月革命以来、ボルシェヴシキ政権は各地で虐殺をくりひろげておりまして、これはシステムの問題です。たまたま「尼港事件」は、犠牲者に日本人が多数含まれていましたから国際問題になっただけの話なのです。

今回、シベリア出兵につきましても、いろいろと調べてみましたところ、細谷千博氏の「シベリア出兵の序曲」と「日本とコルチャク政権承認問題 : 原敬内閣におけるシベリア出兵政策の再形成」が無料で読めます。古い論文だけに、コルチャーク政権に関します評価などは、多少、首をかしげる部分もありましたけれども、細谷氏のご研究から井竿富雄氏のご研究につながっているとしますと非常にわかりやすく、原氏の「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922 」は異端です。ネット上で読めない論文で、シベリア出兵に関する最近のものもかなりあるようですので、これから読んでいくつもりです。

コルチャーク政権については、当のロシアで近年見直しが進んでいるようです。ニコラエフスクもそうでしたけれども、コルチャーク政権下の地方議会はメンシェビキと社会革命党に担われていまして、「反革命」と言いましてもけっして2月革命を否定するものではないんですね。例えば、「ニコエラフスクの破壊」米語訳者エラの実家リューリ家もユダヤ人ですし、2月革命は歓迎していたと言います。ニコラエフスクの赤軍パルチザンは、メンシェビキと社会革命党の要職者も惨殺していまして、原氏のパルチザンに対する記述には、大きな疑問符がつきます。『「尼港事件」の諸問題』にご本人が書いておられますが、ソ連側文献で当時読めたものは、2、3の後年の回顧録だけ、というお話なんですね。後年の回顧録は、史料としては、あつかいに注意が必要です。後は多く、原氏は「ニコエラフスクの破壊」を参考になさっています。付録として、パルチザン側の文書も含んでおりますので。和訳を見ます限り、「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922 」におきます原氏の史料の扱いは、非常に恣意的です。といいますか、「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922 」は2次資料でしかありえませんので、wikiでは1次資料の方が優先されます。

ニコラエフスクの漁業については、原氏の典拠は戦後のかなり古い日本の論文です。「ニコエラフスクの破壊」米語訳者エラは、日本にいた期間もあり、日本語が達者で「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922 」ももちろん読んでおられて、原氏のそういった方面の認識のまちがった部分を指摘しています。原氏の著述のその部分を読みますと、結局は推測にすぎないことがはっきりとわかる表現をなさっておられて、反論のある推測をwikiに載せる必要はないと判断しました。

論文『「尼港事件」の諸問題』は私も評価しますが、「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922 」は、ほんとうにきちんとした学術書なのでしょうか。一番あきれましたのは、領事館にいた海軍少佐が自決していると決めつけておられるのですが、典拠なしです。いろいろ資料をあさりました結果、「国辱記」にしかそういった記述はなく、どうも領事館の中国人使用人の話から推測したことらしいのですが、一年後に出版された「改訂 国辱記」では、海軍少佐の自決は誤報であったと訂正されています。遺体の発見状況が、どうも、話とくいちがったようなのですね。

「ニコエラフスクの破壊」は、原氏ご自身が認めておられますように、非常にすぐれた史料です。付属の証言集は、極東共和国時代のサハリン州議会が行った調査によるものでして、その後、日本の撤兵から間もなく、またもシベリアで虐殺がくりかえされることとなり、議会のメンシェビキや社会革命党の残党も多くが犠牲となりました。ソ連が崩壊し、「尼港事件」の見直しもなされることが多くの犠牲者に報いることだと思うのですが、この前ネットで、ロシア人研究者の方の「ニコエラフスクの破壊」を高く評価する論文を見かけましたので、これからでしょう。なお、英語のwikiを見ていただけるとわかりますが、英語圏の「尼港事件」に関します最重要文献は、エラが訳しました「ニコエラフスクの破壊」です。

郎女郎女 2012/10/05 16:21 いま、文春新書「昭和史の論点」が届きましたが、尼港事件に触れておられるのは、まったく史料を読んでいないことで有名な半藤一利氏ですね。幕末維新史を書いてそれが暴露されましたが、こういういいかげんな随筆家を、歴史家のようにいう日本の状況は、いかがなものでしょうか。秦氏もシベリア出兵に関して「何ら利権に類するものは手に入らず」などとされておりますが、尼港事件の邦人犠牲者を下敷きに、なにがなんでも海軍が欲しがっていた北樺太の石油利権を手に入れていますよね。秦氏もちょっと、疑問符のつく記述の多い方です。

NakanishiBNakanishiB 2012/10/06 14:05 >郎女さん
どうも、資料の入手の経緯の説明をはじめご返事ありがとうございます。ここでWikipediaの記事についての議論を本格的にするのは微妙なのですがとりあえず私から質問したので。ここでの議論を編集に反映させるかは各人の考えということで。
 とりあえず、私は歴史書はある程度読んでるが、専門的訓練も受けていないしきちんとした積み上げは持っていないというレベルです。ですので一定の中途半端な知識で答えることになります。また読んでも持っていない本が多く、行方不明もあるので失礼します。さらに特に最近の研究に疎いので。

>井竿富雄氏の「尼港事件と日本社会、一九二〇年」をよくご覧になってみてください。評価なさっているのは、論文『「尼港事件」の諸問題』であって、「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922 」ではありません。
 そうですね私は「論文」と書いてますし、ただ私としては「尼港事件についての日本人の歴史認識の問題点を、被害者性を強調して侵略性を忘れるという点」が重要でした今の記事はそのような姿勢に乏しいように思うので。


>古い論文だけに、コルチャーク政権に関します評価などは、多少、首をかしげる部分もありましたけれども
>コルチャーク政権については、当のロシアで近年見直しが進んでいるようです。
 まず前提として、92年以降のロシアはソ連を打倒してできた政権ですからそこでの研究と称されるものにしばしばそのような状況によるバイアスが入り込むことです。ソ連の解体以降の研究にときにそれまでの蓄積を無視したものなど多いということです。これについては塩川伸明氏などを参考にしています、http://www.shiokawa.j.u-tokyo.ac.jp/ 本としては、R.W.デイヴィス「現代ロシアの歴史論争」、歴史学研究会 「歴史における「修正主義」」なども。以上はエリツィン時代が主で、現在では状況はましになっていると思います、それでも現在の体制はソ連時代について非常にアンビバレントな立場をとっていることはご承知ください(海外の報道が誤解させるようなソ連時代の全面的肯定評価の復活は受け入れられない)。「赤色テロ」などは、アーカイブの利用によって最も解明の進んだ分野ではありますが。

 コルチャーク政権については成立の事情などは大雑把には知っています、はじめから帝政復帰派の西南部のデニーキンとは違うくらいは。コルチャークのクーデターの以前と以後で地方の事情がどう変わったか、彼の支持基盤である軍と地方政府の関係などはきちんとは知りません。しかし、シベリアはセミョーノフも白軍のリーダーとして活動しており、89年の段階でも「赤色テロル」の存在は自明ですし、原暉之氏は当然それを前提に書いているはずです。ですから
>ニコラエフスクの赤軍パルチザンは、メンシェビキと社会革命党の要職者も惨殺していまして、原氏のパルチザンに対する記述には、大きな疑問符がつきます
 この主張には戸惑います、これは本全体でのパルチザンの説明をさすのですか、それとも特定の記述に問題があるのでしょうか?さらに

>10月革命以来、ボルシェヴシキ政権は各地で虐殺をくりひろげておりまして、これはシステムの問題です。たまたま「尼港事件」は、犠牲者に日本人が多数含まれていましたから国際問題になっただけの話なのです。
 いくつもの「赤色テロル」が内戦中に中央からの指令によって行われたことは資料で立証されています。ですが赤軍もまたその発生においてはボリシェビキのロボットではなかったはずです、ましてや母体の(国の名前ではない)「ソビエト」もそうです。地方におけるパルチザンは当然さらに状況が違います。私がパルチザンについての記述の削除を問題したのはそのためです。「これはシステムの問題です」という認識にしたがって、パルチザン幹部の出身母体の構成や行動(ボルシェヴィキの幹部がボルシェヴィキの政策に反したりしている)についての記述を削除し、「ニコエラフスクの破壊」の記述を選別して並べたのならこれは尼港事件についての「個別研究」となるのではないでしょうか?、またそれは正当な認識ではないと思います。赤軍の暴力の原因には、あえてわければ中央の政策と、個別の事情があると思います(これは極端な例では少ないがウクライナのポグロム)、尼港事件を前者に還元するのは問題です。たとえば、同じ日本軍でも南京事件とシンガポール華僑粛清事件はかなり性質が違います、関連はあるけれども同じように扱ってはまずいはずです。現在の記事には(シベリアの)パルチザンと赤軍を一体として扱う傾向があると見えます、これは問題だと思います。少なくともそのような雑駁な扱いはコルチャーク政権についての「反革命」に問題があるなら同様に問題になるはずではないでしょうか?


 これは前回指摘し損ねたのですが、パルチザンへの朝鮮、中国系住民の参加などについての記述の削除も問題だと思います。パルチザンがどのようなものであったかは尼港事件の理解の重要な一部になるはずです。

NakanishiBNakanishiB 2012/10/06 14:10 >「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922 」は2次資料でしかありえませんので、wikiでは1次資料の方が優先されます。
 その一次資料が不十分だからこそ、間接的な記述で補うべきだと述べたのです。パルチザンや当時のシベリア社会の状況などで事件の全体像を記述するために必要だからです。さらに当時の日本の報道なども多数引用されていますが、やはりこの時代の日本の視点のものです、そのような当時の日本側資料と「ニコライエフスクの破壊」がほとんどで事件の経緯や事実関係を語ってしまうのは疑問を覚えます。とりあえず事件の経緯やそれについての証言の多さに比べ上記のとおり背景の解説などの不十分に感じます。


>「ニコエラフスクの破壊」米語訳者エラは、日本にいた期間もあり、日本語が達者で「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922 」ももちろん読んでおられて、原氏のそういった方面の認識のまちがった部分を指摘しています。原氏の著述のその部分を読みますと、結局は推測にすぎないことがはっきりとわかる表現をなさっておられて、反論のある推測をwikiに載せる必要はないと判断しました。
 なるほど。ですが「結局は推測に過ぎない」とはどういうことでしょう、その部分が同書のほかの記述に比べて正確さの劣る推測であると言明しているのですか?。英語訳者が、「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922 」を読んでいるんのは驚きました。そのような内容であるのなら「ニコライエフスクの破壊」のその部分を典拠にしてなるべく独自研究でないことを明らかにすべきではないでしょうか。逆に具体的に批判されていない部分は使用するのに問題はないと思います。


>付属の証言集は、極東共和国時代のサハリン州議会が行った調査によるものでして
 これは興味深いですね。調査の証言集の全訳であるかどうかなどはわかるのでしょうか?また他にソ連や極東共和国による調査は行われたのでしょうか?

>原氏の「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922 」は異端です。
 ノートに載っている中島毅氏の評価はどうなるのでしょう?。サーヴィスの本は読んだことがありませんが。歴史学研究の書評はどのような評価だったのでしょうか。ついでながら「異端」という言葉を排除の理由に使うのは私にはついていけない感覚です。
>一年後に出版された「改訂 国辱記」では、海軍少佐の自決は誤報であったと訂正されています。遺体の発見状況が、どうも、話とくいちがったようなのですね。
 だとすれば資料調査に問題があったといえそうです。原氏に直接連絡すれば復刊のときに修正されるかもしれません。この点についてネット上で記事を書かれても役に立つと思います。このような間違いが存在しても全体の評価で完全に信用できないとして当該の本の記述を排除するのは行きすぎと思います(有名な岩波新書「南京事件」の写真問題のように間違いを直すチャンスがあればいいのですがそれがありません)。もし、どうしても学術的に疑問がぬぐえないなら井竿富雄氏なりに連絡をとってみてはいかがでしょうか。



>原暉之氏が「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922 」を書きました姿勢に怒りを覚えたからです。
>「尼港事件」の見直しもなされることが多くの犠牲者に報いることだと思うのですが
 郎女さんが原氏の尼港事件記述に(集団自決の有無や日本軍の攻撃の正当性についての見解に関し)怒っているいることは事実がどうであったかとは別に理解できます(私はまだ判断できません)。また犠牲者に報いることに関しても真摯だともいます(アムール河事件への言及などの微妙なものは誰が投稿したのかわかりませんし)。しかし、やはりWikipediaという場ではそのルールは守るべきだと思い、それ以上に尼港事件の実像を描くことは郎女さんの記事では決定的に不十分だと思い問題を指摘しました。これにソ連史についての評価と認識の違いもあるのでしょう。

 まったく無責任なことを書けば、プロでもある郎女さん自身がやはり活字で尼港事件について書かれたほうがよいと思います。そのような場を見つけることはきわめて困難だとは思います。ですが、Wikipediaのルールの問題もそれによって解消可能となるし、資料の紹介においても意味があると思います。行う意味はあると思います。私にはシベリア出兵について記事を書く能力はありませんが、これによりシベリア出兵についての研究や理解がさらに進むことを望んでいます。

 他の主題などは法華狼さんからの返事などがあると思います。では、長々すいませんでした。

郎女郎女 2012/10/06 18:48 なにか非常に誤解されておられるようなのですが、私、当然のことながらwikiと自分のブログとは書きわけておりまして、wikiにはいっさい、自分の考えは入れておりません。
「怒りを覚えた」といいますのは、例えば極端な例が少佐の自決ですが、原氏が事実関係において、基本資料とくいちがい、まったく確証のないことを断定的に書いておられることが多い点です。
 私は怒りを抑えて、公平に原氏の言い分を記述したつもりです。

 wikiで求められておりますのは、事実関係の正確さです。原氏の論文は、あくまで論文ですから2次資料に過ぎず、原氏も認めておられます基本的な資料、参謀本部編 『西伯利出兵史―大正七年乃至十一年』と外務省編『日本外交文書 大正九年』、『ニコラエフスクの破壊 』の方が重視されるのは当然のことでして、だれの論文であれ、主観が入りました論文はあくまで、補完資料でしかありません。したがいまして、論文の内容を使いますときは、多くの場合、「だれだれによれば」と私は書いております。基本資料を無視して原氏の論文のみを丸写しにしますのは、wikiの編集方針に反することです。

 漁業に関して、エラの指摘もありましたが、当時の北海道拓殖銀行の調査が近デジにありまして、投資のための調査ですから嘘を書いても仕方のないものですが、原氏の書いていますことと、事実関係に相当なくいちがいがありました。当然のことながら、当時の資料であります北海道拓殖銀行の調査の方を採用します。

 いちいち、ここで私の判断を書いても仕方がないのですが、あとパルチザンですか? トリャピーツィンたちに関しては、『ニコラエフスクの破壊 』はまったくちがうことを述べていましたし、事実関係を確かめるすべがないですから、はぶきました。最近、ロシアで見直しがなされているという情報も得まして、原氏のご研究は古いですし、その新しい研究が日本語訳されたら、書き加えたいですね。

「パルチザンへの朝鮮、中国系住民の参加などについての記述の削除」といいますのは、意味がわかりません。原氏は、『ニコラエフスクの破壊 』を引用して、「これはこうだ」と書いておりますので、以下のように双方の言い分を載せておりますけれど、なにがご不満なんでしょうか。

原暉之によれば、グートマンが述べている「軍規が厳格な朝鮮人部隊」とは、韓人会書記のワシリー朴を中心として、パルチザン進駐後にニコラエフスク市内で編成された100名ほどの第2中隊である[39]。外部から来た朴イリア率いる第1中隊(サハリン部隊の名で知られる)は、横暴で士気が低かった[39]

と書いておりますけれど。これは、原氏が本文中で典拠をあげておられましたので、確かなことと思いました。
朝鮮人、中国人部隊の参加について、原氏の主な典拠は『ニコラエフスクの破壊 』 ですから、別に問題はないはずです。

ともかく、wikiの記述に文句がおありなのでしたら、全部、典拠をあたってからになさってください。私は、wikiのルールに従い、事実関係の正確さを追及して、原氏の著作の典拠にまで気を配ったまででして、自分の考えはまったく述べておりません。
wikiの生麦事件も手がけておりますが、私のブログの内容とwikiに書きましたことは、まったくちがいます。ブログには推測、憶測が多く、そのまま書きましたら独自研究になってしまいますので。
尼港事件も、ブログに書くなら、推測、憶測をたっぷりまじえて自由に書きます。
原暉之氏の『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』は、私のブログ並に、推測、憶測のオンパレードで、それが学術論文といわれていますことに、私は怒りを覚えた次第です。

ご自分の思想のためでしたら、犠牲になった人々のことなどどうでもいいように私には受け取れて、思想ではなく、もっと事実関係を大切にしていただきたかったと思ったような次第です。

郎女郎女 2012/10/06 20:12 『ニコラエフスクの破壊 』は、公立図書館で所蔵しているところが複数あります。お近くの図書館でリクエストしますとわずかな費用で借り出してくれるはずですので、お読みになってみてください。そうでなければ、議論にもなにもなりようがありません。

郎女郎女 2012/10/06 21:55 あと?????となりました点。
>当時の日本の報道なども多数引用されていますが、やはりこの時代の日本の視点のものです、そのような当時の日本側資料と「ニコライエフスクの破壊」がほとんどで事件の経緯や事実関係を語ってしまうのは疑問を覚えます。

ちゃんと原暉之氏の『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』を脚注まで見ておられますか? 原氏もほとんどそうなさっています。

郎女郎女 2012/10/06 22:02 先に述べましたが、原氏ご本人が「ニコライエフスクの破壊」以外にはあまり見るべきロシア語しりょうがないことを論文で書いておられるんですよ?????

hokke-ookamihokke-ookami 2012/10/07 07:45 NakanishiBさんへ
>当時の資料のみ優先で、全削除はいかがかと(該当記事には第一次南京事件についての記述まであるんですから)。

さらにいうなら、『尼港の災禍』だけが「当時の資料」ではありませんからね。

>まあかつての社会党左派の機関紙でもあった「科学的社会主義」に論文を書いていますから「ソ連べったり」ともいえるかもしれません。

ただし、それをいうなら、そもそも『シベリア出兵―革命と干渉』や井竿論文は、ソ連側の著作や研究ではなくて、日本における歴史学術研究です。

hokke-ookamihokke-ookami 2012/10/07 07:46 郎女さんへ
最初に、Wikipediaの編集にしぼって、話題を前後しながら返答させてもらいます。

>尼港事件は、白系ロシア人たちの虐殺事件でもありまして、もちろん日本人の虐殺にも触れているのですが、パルチザンのあまりの蛮行に、白系ロシア人たちが命がけで残しましたこの調査記録が嘘だったとは、私にはとても思えません。原氏の著作は、この記録と大きく乖離しています。二つをつきあわせて、これにアジ歴の史料を加えて、書き直す必要があると思います。

まず、ノートに上記の発言を残されていますよね?
これは歴史研究において避けるべきことだと思われます。そして今回のコメントでも同様の考えを変わらず持っていることもわかりました。
このこと判断する限り、郎女さんがWikipedia「尼港事件」を現在のように書きかえたことの妥当性が見いだせません。順を追って説明、もしくは疑問符をつけていきます。

>井竿富雄氏の「尼港事件と日本社会、一九二〇年」をよくご覧になってみてください。評価なさっているのは、論文『「尼港事件」の諸問題』であって、「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922 」ではありません。

井竿論文が『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』ではなく、『「尼港事件」の諸問題』だけを参照としているとしても、別に井竿論文が前者を否定したということはいえません。仮に後者のみを信頼できる研究として引いたというにしても、『「尼港事件」の諸問題』に依拠すればいいだけでしょう。
それでなくても、尼港事件を口実としてシベリア出兵という侵略性が正当化された問題は、NakanishiBさんが指摘されているように、井竿論文でも追認されています。それを基調にして記述するべきでしょう。

>赤色テロルにつきましては、ヴィッチ メリグーノフ著 梶川 伸一訳「ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル(1918~23)―レーニン時代の弾圧システム」が参考になりますが、10月革命以来、ボルシェヴシキ政権は各地で虐殺をくりひろげておりまして、これはシステムの問題です。たまたま「尼港事件」は、犠牲者に日本人が多数含まれていましたから国際問題になっただけの話なのです。

井竿論文と関係ない話題ですよね。尼港事件を単純に赤色テロルと見なすのは、独自研究の類ではありませんか?
せめて、その文脈で書きたいとしても「赤色テロル」の項目に収めるべきではありませんか? あるいは「ニコエラフスク」の歴史におさめ、その一つとして「尼港事件」の項目へと繋げるべきでは?
歴史は、パルチザンや日本軍それぞれの意図や反応で動いたのであり、一方が能動的であれば一方が必ず受動的になるという単純なものではないはずです。「尼港事件」という言葉でたてた項目は、今のところ日本の関わりにしぼるべきでしょう。



>「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922 」は2次資料でしかありえませんので、wikiでは1次資料の方が優先されます。

本当にWikipediaのガイドラインがそうだったら、ずっと歴史認識についての記述は楽かもしれません。しかし実際には、下記のように説明されていますね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:信頼できる情報源
>一般に、ウィキペディアの記事は一次資料に基づくべきではなく、むしろ一次資料となる題材を注意深く扱った、信頼できる二次資料に頼るべきです。ほとんどの一次資料となる題材は、適切に用いるための訓練が必要です。特に歴史についての主題を扱う場合がそうです。ウィキペディアの記事で一次資料を使ってよいのは、信頼できる出版元から公刊されている場合だけです。例えば書記官によって公刊された公判記録、編纂された全集の中に登場する歴史文書といったものがこれにあたります。

Wikipediaにおいては、あくまで既存の研究をふまえて記述し、せいぜい自明的な問題がある時のみ注記するという形式にするべきではありませんか?
そもそも、一つの一次資料(『尼港の災禍』のような証言集は、必ずしも一次史料とはいえませんが)と、その資料をふくむ各資料をつきあわせた二次資料を相反するかのように記述することは、Wikipediaでなくても問題といえます。順序として、『尼港の災禍』と『西伯利出兵史』等をつきあわせた結果として原主張が生まれたと考えるべきでしょう。『尼港の災禍』と原論文の単純な相違点をもって後者に疑義をいだくのは筋違いとしか思えません。
原主張の偏向を主張するには、たとえば元資料に存在しない文章を“翻訳”時に入れていたり、元資料の意味をねじまげるような捏造をしていることを指摘する必要があります。私が見る限り、郎女さんは「大きく乖離」しているという証立てを行えていません。白色ロシア人の立場からはパルチザンの蛮行を重視して、日本の歴史学者には日本軍の行動や日本社会の動きが重視されたというだけでは、観点が異なるというだけで、批判にはあたらないでしょう。

>後年の回顧録は、史料としては、あつかいに注意が必要です。

すでにNakanishiBさんが指摘したように、比較的に時間が近い時期に収集された証言集にしても、そのまま歴史に採用することは難しいことは同様です。
一般的に、証言者は自分の視野におさまる範囲の出来事を、自分の持っている知識に照らし合わせながら語るものです。意図的に虚偽を述べていなくても、想像で埋めた部分なども入り込む。むろん、たとえプロパガンダであっても即座に虚偽となるわけではないですが。

>英語のwikiを見ていただけるとわかりますが、英語圏の「尼港事件」に関します最重要文献は、エラが訳しました「ニコエラフスクの破壊」です。

そちらも見ていますが、日本語のWikipediaとは全く論調が違いますよね。どちらかといえば日本語辞書の一般的な説明と同じで、短くまとまった内容です。
しかも、参考文献として『尼港の災禍』が記述される以前の履歴と見比べても、日本語版ほど大きな差異が見当たりません。


>ソ連が崩壊し、「尼港事件」の見直しもなされることが多くの犠牲者に報いることだと思うのですが、この前ネットで、ロシア人研究者の方の「ニコエラフスクの破壊」を高く評価する論文を見かけましたので、これからでしょう。

特に新たな証言が発掘されたわけでもないのに、ソ連の崩壊が歴史研究において強い関係あるとはいえないと思いますが、それはさてきましょう。
これも「一次資料」と同じく、ガイドラインに抵触していることの無自覚さがうかがえます。Wikipediaは最先端の研究を載せる場ではないはずですよ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:独自研究は載せない
>ウィキペディアから排除されたからといって、それが「品質の劣る」ものであるとは必ずしも限りません。ピューリッツァー賞クラスのジャーナリズムやノーベル賞ものの研究でさえも、それがウィキペディアで最初に発表されることになるのであれば、掲載を拒否せざるを得ないのです。もしあなたがウィキペディアという知の集大成に加えるべきだと考える情報をお持ちでしたら、まずそれを査読制度のある雑誌か評判の良い報道メディアで発表し、その後中立的な観点の流儀にのっとり、あなたの業績を証拠として示すのが最良の道です。

自分自身で「これから」と考えるくらいなら、まずはブログにでもまとめるべきでしょう。Wikipediaに最新の資料や論証を集めたいならば、ガイドラインから判断する限り、ノートに収めることが推奨されています。

>私、当然のことながらwikiと自分のブログとは書きわけておりまして、wikiにはいっさい、自分の考えは入れておりません。

その書きわけが不十分な状態だと思っています。

>当然のことながら、当時の資料であります北海道拓殖銀行の調査の方を採用します。

それは、たとえるなら日本書紀の記述と、現在の歴史学の知見を比べて、前者を史実としてWikipediaに掲載するような態度でしょう。

hokke-ookamihokke-ookami 2012/10/07 07:54 郎女さんへ
雑多な話題についても少し返答しましょう。

>最近、秦氏の著述で、とても史料と呼べないものを堂々と史料としてあげておられる

「とても史料と呼べないもの」が何かは知りませんが、秦氏は一般受けを狙った書籍や雑誌記事と、真面目な論文や著述では露骨に力の入れかたが変わる人ではあります。歴史学者からも批判されることがありますね。

>まったく史料を読んでいないことで有名な半藤一利氏ですね。

何度か批判を見かけたことはありますが、「まったく史料を読んでいない」などという評価は流石に初耳ですが。もともと保守系雑誌の編集長などをつとめた歴史作家であるため、右派からも余程のことがなければ全否定されない人です。

それよりも、私にはWikipediaにおいて渡部昇一氏や門田隆将氏の著作を参照元としている状態が信じられないのですが。両氏の著作とも「一次資料」ではないどころか、歴史研究書とは見なされないでしょう。特に前者は名前を出すだけでも信頼性がはなはだしく落ちますよ。
他にも、当時の報知新聞記事に出てくるアメリカ人の証言を、媒体を記述せず記事本文で単なる証言として記述しているような問題もありますね。ノートなどを見ていれば、歴史研究者の偏向性も記述するべきという考えのようですが、当時の新聞記事それも速報性を重視したそれに「偏向」がないとはとうていいえないでしょう。

あと、以前に別のブログで紹介された報告書を読んだ記憶があるのですが、たしか今世紀のシンポジウムにおいて、笠原十九司教授が原論文を肯定的に引いていたと思っています。歴史学において古びている論文だとしても、退けられているとはいえないと記憶しているのですが(元の報告書が見つけられないので、これは記憶発言です)。
「反論のある推測をwikiに載せる必要はないと判断しました」とのことですが、一般的に用いられている学説でも、反論があれば辞典に載せるべきではないというのは、学説に対する見解として斬新すぎるのではないでしょうか。それこそ学説と反論を併記するべきでしょう。「認識のまちがった部分を指摘」から「反論」までの間にも距離がありますしね。

郎女郎女 2012/10/07 10:53 >書きかえたことの妥当性が見いだせません

あなたがそう判断なさったことの妥当性は、どなたが担保なさるんですの?

>尼港事件を単純に赤色テロルと見なすのは、独自研究の類ではありませんか?

wiki本文の中で、そう書いてはおりません。。原氏も推奨なさる『ニコラエフスクの破壊 』が赤色テロルの扱いです。しかし事実関係を述べているのではなく、著者グートマンの主観のみと見なされる記述は、wiki本文の中で、極力、省きました。原氏の著述につきましても同じです。

>『「尼港事件」の諸問題』に依拠すればいいだけでしょう。

基本文献の選択にいたるまで、依拠させていただいております。『「尼港事件」の諸問題』を読んでおられますか? 読まれてからおっしゃってください。

>「尼港事件」という言葉でたてた項目は、今のところ日本の関わりにしぼるべきでしょう。

「尼港事件」の犠牲者の大半はロシア人です。原氏の「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922 」は日本のシベリア出兵について書かれた読み物でして、その中であつかわれる「尼港事件」は、当然のことですがシベリア出兵の中の出来事ですから、一般的に「尼港事件」を概説する場合の参考書としては、部分的に参照することはできましても、基調としますことこそ、おかしなことになってしまいます。『「尼港事件」の諸問題』の方が適当であるゆえんです。

また、「尼港事件と日本社会、一九二〇年」におきまして、シベリア出兵との関係にしぼりましても、井竿氏は、「武装解除されて殺害された」としておられますし、「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922 」の「集団自殺ではないのか」というような憶測は、まったく考慮されないでまとめておられますよねえ。

>ウィキペディアの記事で一次資料を使ってよいのは、信頼できる出版元から公刊されている場合だけです。例えば書記官によって公刊された公判記録、編纂された全集の中に登場する歴史文書といったもの

参謀本部編 『西伯利出兵史―大正七年乃至十一年』と外務省編『日本外交文書 大正九年』ですね。『西伯利出兵史―大正七年乃至十一年』は愛知県の図書館から取り寄せまして、いま近くの図書館に届いておりますので、これから照合します。『西伯利出兵 憲兵史』も『西伯利出兵史要』も日本側の基本的な文献として使いまして、問題はないですよねえ。

>あくまで既存の研究をふまえて

十分踏まえておりますが、どこがふまえていないのか、お教え願えないでしょうか。

>「大きく乖離」しているという証立て

ここで証立てするつもりはありません。「ニコライエフスクの破壊」を読んでいない方になにを申し上げても無駄ですし。私が、証言がどういう証言なのかわからない形でwikiに載せましたのならともかく、ページ数までつけて、検証可能性を担保しております。「ニコライエフスクの破壊」が和訳されましたことは、井竿氏も論文で取り上げておられますし、もともと原氏が基本文献として推奨されているものです。

>ソ連の崩壊が歴史研究において強い関係あるとはいえない

ソ連が崩壊してロシアになり、現実にロシア国内の歴史認識は大きく変わってきておりますよねえ。あなたの認識にびっっくりです。

>まずはブログにでもまとめるべきでしょう

ごめんですね。ブログでは、山の中に逃げていた日本人夫婦のことを書くつもりです。

>日本書紀の記述と、現在の歴史学の知見を比べて、前者を史実としてWikipediaに掲載する

北海道拓殖銀行の調査が日本書紀ですか。失笑しました。

あと、私が編集したわけではない部分について、私に言われても困るのですが、「当時の報知新聞記事に出てくるアメリカ人の証言」が出てきましたときには、びっくりすると同時に笑いました。あのアメリカ人は、原氏が「集団自決だったのではないか」と憶測する根拠の一つ、「脱出するとき、知り合いの日本人を誘ったが断られた。日本人はみな一団となって日本軍とともに抵抗する決心をして、知り合いの日本人も島田商店に立てこもった。憲兵隊の宿営も全焼したが、居留民も兵士と共に火中に身を投じた」という話を多門大佐にもたらしたアメリカ人と同一人物ですね。あの根拠で、集団自決を憶測なさるとは、作家顔負けのものすごい想像力ですよねえ。学術的には考慮するに値しませんから、井竿氏も無視なさっておられますね。

原氏の個々の著述に対して当否を考慮するのではなく、原氏一人を神様のようにあがめておられるようにお見受けします。まるで信仰告白ですね。

なお、私は他の執筆者の方と喧嘩するつもりはありませんから、文句がおありでしたらあなたが、ノートの方へその旨、ご記載ください。あの方は、以前にwikiの福沢諭吉でも遭遇したことがありますが、新聞ソースに深い思い入れをお持ちです。

あと、「反論のある推測」と書いておりますのは、学説ではなく推測ですから載せる必要がない、ということです。しかも、尼港事件の直接的な経緯ではなく、シンプルにすませるべき背景説明ですから。他の資料を見ましても日本の漁業関係者はニコラエフスクから早くに撤退していますし、日露漁業協約の恩恵も受けておりません。基本的な事実認識がちがっていますのに、根拠もなく「そんなはずはない」と原氏が推測なさっているのが学説なんでしょうか。びっくりです。

郎女郎女 2012/10/07 12:16 おわかりなんだと存じますが、渡部昇一氏や門田隆将氏の著作については、私の編集ではありません。「国辱記」「アムールのささやき」については、原氏も部分的に資料としての価値を認め、実際、ご本人が典拠にしておられます。文句がおありなら、原氏におっしゃってください。

郎女郎女 2012/10/07 12:26 井竿富雄が『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』を評価しているとおっしゃるのは『初期シベリア出兵の研究』において、ですね。そりゃあシベリア出兵の研究で、研究者が無視はできませんし、一応の敬意は表しますわね。それがどうした、ということですが。あくまでも個々の話でおっしゃられませんと、一冊丸ごと異議をはさめない聖書のようにおっしゃるのには、どびっくりです。信仰としか言いようがございませんね。

NakanishiBNakanishiB 2012/10/07 13:42 >法華狼さん

私の持ち込んだ話題ですいません。またWikipediaには詳しくないので助かります。


>井竿論文と関係ない話題ですよね。尼港事件を単純に赤色テロルと見なすのは、独自研究の類ではありませんか?
>せめて、その文脈で書きたいとしても「赤色テロル」の項目に収めるべきではありませんか?
これは私の提起した問題でもありますが、尼港事件を(典型的な)「赤色テロルの一例」であり「システム」いう認識で「尼港事件」の記事を書くことは問題ないと思います。ただそのような認識を記事反映させるなら適切な根拠が(Wikipediaのルールからも常識的にも)必要だということです、それなしでは他の項目で記述しても「独自研究」となると思います。さらに削除されたパルチザンの発生の背景、実態、幹部の構成は尼港事件が(典型的な)「赤色テロルの一例」であり「システムの問題である」という認識と不整合な記述なのでその削除を問題と思いました。


>歴史は、パルチザンや日本軍それぞれの意図や反応で動いたのであり、一方が能動的であれば一方が必ず受動的になるという単純なものではないはずです。

 さらに再度書けば、尼港事件のノートに
>「ロバート・サーヴィス『ロシア革命1900−1927』中嶋毅訳、岩波書店、2005年、索引26頁「ロシア史家による、このテーマの最高水準の研究。シベリア・極東での革命運動と反共産党勢力との対抗も詳しく描かれている。」」というIketomatsu 氏による引用がありますね。

NakanishiBNakanishiB 2012/10/07 13:50 >郎女さん
私もWikipedia内でのルールとしての問題と、歴史事件についての公共性の高い記事の内容としての問題を混同しているところがあります、それは申し訳ありません。私が私の理解した範囲でWikipediaのルールに沿っていないと思うことはそれを明記します。いくつか記事を読みましたがそこでは郎女さんが基本的にはWikipediaでルールと資料に基づいて書いておられることも理解しました。私はWikipediaの編集に関わるつもりが今はないのこともあり、なによりWikipedia内には議論のスペースがありますので、ここでの批判はWikipediaの記事に反映されなければならないとは思っていません。


 以下は主に私が提起した問題のうち法華狼さんが触れていないものを中心にいくつか。

>原氏が事実関係において、基本資料とくいちがい、まったく確証のないことを断定的に書いておられることが多い点です。
 そのように判断されたのでしたら確認できた例について削除をなさればいいと思います。


>ともかく、wikiの記述に文句がおありなのでしたら、全部、典拠をあたってからになさってください。私は、wikiのルールに従い、事実関係の正確さを追及して、原氏の著作の典拠にまで気を配ったまででして、自分の考えはまったく述べておりません
 私は単純に事実関係の記述を当否を問題にしているのではありません、尼港事件についての記述の編集姿勢およびそこに起因すると思われる編集や記述を問題にしています(ただそれら全てがWikipediaの固有のルーに反しているかは判断できません)。すべての典拠に当たる必要はないと思います。もちろんなるべく多くの資料に当たるべきだし、私が尼港事件の記事をWikipediaに本格的に書くのであれば「ニコライエフスクの破壊」のような手に入る資料を参照しなければいけないのは当然と思います。


>いちいち、ここで私の判断を書いても仕方がないのですが、あとパルチザンですか?トリャピーツィンたちに関しては、『ニコラエフスクの破壊 』はまったくちがうことを述べていましたし、事実関係を確かめるすべがないですから、はぶきました
>「パルチザンへの朝鮮、中国系住民の参加などについての記述の削除」といいますのは、意味がわかりません
>朝鮮人、中国人部隊の参加について、原氏の主な典拠は『ニコラエフスクの破壊 』 ですから、別に問題はないはずです

 再説しますが私は尼港事件(であれ他の事件であれ)のより深い理解のためには事件が起こった背景のきちんとした記述が必要であると思います。パルチザンがどういう集団であったのか、発生の背景、構成などはそのために書かれるべきと思います。しかし前の記事にあったそのような記述はかなり省かれてしまっています。中国、朝鮮系住民であれば彼がどうしてシベリアにいてどのような状況であるのか、なぜパルチザンに参加したかなどです、これについては新版でもある程度枠がとってありますが(これに触れなかったのはこちらの手落ちでした)、やはり大幅に少なくなっている。「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922 」の記述をほとんど排除したために起こったのだと思いますがやはりこの編集は正当性を欠くと思います?(それをもってWikipediaの定義における独自研究かは断定できません)、それとも漁業問題のような他の典拠による反論があるのでしょうか?


 

 

 

 トリャピーツィン他幹部たちの出自、内部の軋轢、極東共和国との関係などの記述も、『ニコラエフスクの破壊 』からの証言と矛盾しない限り排除は不要でしょう。ひとつ気になるものとして前記事で「アナーキスト」となっているトリャピーツィンが、グートマンによると「ボルシェビキの地下活動に従っていた」とありますがこれはいつのことでどのような資料から書かれているのでしょうか?まただとすればそれはどの時期なのか記述があるのでしょうか?、10月革命後であればアナーキストがボルシェビキに従うもことは十分ありえます。ですから必ずしも矛盾といえません。他にはまるで違うようには以前の記事と読みくらべる限り思えないのですが。なお、グートマンの記述と調査証言はやはり資格が違います。

 以上のようなことにこだわるのは、これも再度書きますが郎女さんがコメントで書かれた、尼港事件は典型的な「赤色テロルの一例」であり「システムの問題です」という認識に関わるからです。削除された部分は典型的な「赤色テロル」の一例とみなすには不整合な部分があるからです。郎女さんの認識が記事の編集に影響を与える結果になっているのではないかと疑えてしまうからです。これはWikipediaのルール上(独自研究)も事件の記事の内容として問題だと思います。また、「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922 」の記述を排除したのみの結果だとして問題です。また上記引用した中島毅氏の評価は無視していいとは思えません、井竿氏の態度は不明ですが中島氏の態度は鮮明です。同書の記述の排除の理由の立証は排除すべきと判断した人の責任です。


 さらにもう一度書くと

>ニコラエフスクの赤軍パルチザンは、メンシェビキと社会革命党の要職者も惨殺していまして、原氏のパルチザンに対する記述には、大きな疑問符がつきます
 この主張には戸惑います、これは本全体でのパルチザンの説明をさすのですか、それとも特定の記述に問題があるのでしょうか?


>>尼港事件を単純に赤色テロルと見なすのは、独自研究の類ではありませんか?
>wiki本文の中で、そう書いてはおりません。。原氏も推奨なさる『ニコラエフスクの破壊 』が赤色テロルの扱いです。
 グートマンが「赤色テロル」の用語を用いたとすれば現在の学術研究における「赤色テロル」が同じ意味であるとは思えません。グートマンの「赤色テロル」が現在の学術的水準での典型的「赤色テロル」ではないでしょう。


 なお、以上は赤色テロルはなかったとか、ボリシェビキ中央が赤色テロルだけでなくその他の赤軍の暴力への責任はないとか主張したいのではありません。


>ソ連が崩壊してロシアになり、現実にロシア国内の歴史認識は大きく変わってきておりますよねえ。あなたの認識にびっっくりです

 

 ソ連解体後の歴史研究の問題についてはhttp://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20120928/1348938605#c1349499908のコメントでで書きました。


>あと?????となりました点。
>当時の日本の報道なども多数引用されていますが、やはりこの時代の日本の視点のものです、そのような当時の日本側資料と「ニコライエフスクの破壊」がほとんどで事件の経緯や事実関係を語ってしまうのは疑問を覚えます。

 ↓をもって特にWikipediaにおける編集についての返答とさせていただきます。活字でお書きになることことをお勧めしたのはこのルールのためもあります。

>一般に、ウィキペディアの記事は一次資料に基づくべきではなく、むしろ一次資料となる題材を注意深く扱った、信頼できる二次資料に頼るべきです。ほとんどの一次資料となる題材は、適切に用いるための訓練が必要です。特に歴史についての主題を扱う場合がそうです

 


 これはちょっと気になったのですが「ニコラエフスクの破壊」の「付録B」とはどのようなものなのでしょうか?注にどのようなものかかれていなかったので。

 では、とりいそぎ失礼いたしました。

NakanishiBNakanishiB 2012/10/07 14:08 コメント後半が手違いで見苦しくなっています。申し訳ありません。

郎女郎女 2012/10/07 23:29 えーと、まず。
>一次資料となる題材を注意深く扱った、信頼できる二次資料に頼るべきです。

〜によれば、と明記して十分頼っていますよ。どこが頼ってないのでしょうか。なにを基本資料と認識すべきかも、原氏の論文に頼りました。日本側だけでなく、ソ連側の論文の和訳も使っております。中国船団の話も、基調は論文に頼っております。
「当時の日本の報道なども多数引用」は、私はしておりません。私が使いました史料はすべて「参考文献」として載せておりまして、他の典拠を使っておられるのは、別の方です。別の方の編集部分は、私に責任はございません。

>郎女さんの認識が記事の編集に影響を与える結果になっているのではないかと疑えてしまう

疑う方には、検証可能なようにしております。疑ったのならば、典拠にあたって、検証してみましょう、ということです。「排除は不要でしょう」とあなたは思い、私は双方の評価が対立していることではあり、尼港事件のwikiの著述でパルチザンに対する偏った評価(どちらの側にしても)を書く必要はない、と判断しました。それは、「パルチザン (ロシア内戦)」の項目を立ち上げてなすべきことです。私は書く気はないですけれど。「パルチザン (ロシア内戦)」という項目ならば、この陣営はこう言っている、こちらはこう、と両論併記することに賛成です。

えーと。
私、wikiの本文とはちがいまして、ここではかなりいいかげんに書き散らしておりますので、うろ覚えでまちがったことも言っておりましたので、訂正します。「ニコラエフスクの破壊」付録Aの証言集が、サハリン州議会のもの、というのは、まちがいです。付録Bといいますのは、事件当時の文書や電文、声明文など(トリャピーツィンの電文もあり)なのですが、 そのうちに1920年8月16日、サハリン州議会で採択された「ボルシェヴィキに関する決議文」というのがありまして、これと混同しておりました。その冒頭は以下です。
「サハリン州の住民代表71名から成るサハリン議会は、ロシア国家の全国民に対し、次の声明文を発表する。1920年3月1日から6月2日にかけて、サハリン州は、ロシア社会主義連邦共和国の名の下に統治された。この間、ソビエト政府の代表者達は、全ての軍将校(偶然救助されたグリゴリエフ中佐を除いて)、ほとんどの知識階級、多くの労働者、そして農民、女性、子供、幼児を射殺し、刺し殺し、斬殺し、溺死させ、死ぬまで鞭打った。彼らは、日本領事や派遣軍兵士も含め、日本人居留民を抹殺し、また、日本人女性や子供たちを、野蛮人にしかできないような暴虐非道のもとにさらした。ニコラエフスクの町の全てを焼き尽くし、石造建築物を爆破した。(以下略)」(議会書記エーメリアノフの署名入りです)

付録Aの証言集は、サハリン州議会ではなく、1920年5月にニコラエフスク市当局の主導で調査委員会が編成され、集められたものだそうです。委員会は、社会的信頼が高く、公共心の厚い弁護士、ジャーナリスト、経済界の代表から構成されていたのだとか。

最後に、米語訳者エラの言葉を載せます。
「読者の中には、著者のグートマンが、自らの強烈な反共精神に基づいて、パルチザンが犯した残虐行為を、大幅に誇張して記述している、と感じる人もいるだろう。また、当然のことながら、ソビエトの文筆家たちは、グートマンが血に飢えた犯罪者達と位置づけていることに対して、強い抗議の声を上げている。ブージン・ビッチとアウッセムは、それぞれの回顧録の中で、行き過ぎた行為があったことは認めているが、トリアピーツィンと数人の腹心達、特にラプタがやったことだ、と非難している。その一方で、個々の出来事に関する彼らの記述を見ると、本書の付録に収録しているものも含めて、他の目撃者の証言内容と一致しない。指揮した者達を許そうが、許すまいが、このニコラエフスクの話は、スターリンがソビエト政権下では日常茶飯事と化すずっと以前に、ボルシェヴィキが無差別テロを実行した事実の、明白な証拠である」

私が省きましたのは、原氏の言い分だけではなく、グートマンの言い分も、です。
検証もなさらない方に、文句を言われる筋合いはございません。

これ以上のご返答は無用です。

NakanishiBNakanishiB 2012/10/08 08:54 >郎女さん
ご返事ありがとうございます、「返答は無用」とのことですので、他の論点は後に回してとりあえず事実関係についての二つの質問とすこしだけ弁明をします。


>付録Aの証言集は、サハリン州議会ではなく、1920年5月にニコラエフスク市当局の主導で調査委員会が編成され、集められたものだそうです。
 パルチザンのニコラエフスク撤退は現在の記事では1920年6月2日以降と読み取れます。パルチザンの占領下で(有志でなく)市当局に調査委員会が作られた思えないので、この文はどこかが誤記だと思いますがそれでよろしいでしょうか?もし誤記でしたらご返事をお願いします。


>そのうちに1920年8月16日、サハリン州議会で採択された「ボルシェヴィキに関する決議文」というのがありまして、これと混同しておりました。その冒頭は以下です
 付録Bの注釈から考えてから考えて、注80で付録Bが典拠とされている引用の引用元はこの決議文ということでよろしいのでしょうか?。そうでないのならご返事をお願いします。



>尼港事件のwikiの著述でパルチザンに対する偏った評価(どちらの側にしても)を書く必要はない、と判断しました。それは、「パルチザン (ロシア内戦)」の項目を立ち上げてなすべきことです
 私は尼港事件およびそれと関連するテロルを行ったパルチザングループについての記述だからその削除を問題としているのです、尼港事件の記事に記述が必要だと考えています、これは法華狼さんの意見を批判したのと同じ理由です。ロシア内戦におけるパルチザン全般の記事を作るならに関してはトリャピーツィングループの動向はシベリアの一部の例としかならないと思います。


 私は郎女さんの書かれた記事には問題があると考えますが、同時にその編集がひどい歪曲や決定的な間違いをしているとも思いません。私にとってとくに問題となると思える部分が他の人によるものであることが多いのも了解しました。ただ「決起」という言葉の章立てや地の文での使用は、記事のように日本側、ソ連側と意見の立場を分けるなら、日本側の立場を支持することになってしまうと思いますが。Wikipediaの編集についての態度は以前のコメントで書きました。現在すぐに手に入らない本の検証なしであることは確かですが、Wikipediaの当該項目への編集に立ち入らないし、私の批判を郎女さんが記事に反映させるべきともしないという前提のうえで、記事に関する質問をしました、その際にはなるべく自分が知らないことと知っていることを整理し、合理的と思える疑問を問うたつもりです。その上で間違いは申し訳ありません。Wikipediaについてはまた再考します。


 私が、「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922 」の評価にこだわったのは、現在ほぼ唯一の学術研究者によるシベリア出兵の概説書であるこの本を記事の元にするのにふさわしくないと否定すると、シベリア出兵全体の記述がWikipediaにおいて非常に貧しくなってしまうからです(イワノフスカ村事件をはじめとして)。ですから、この本が偏っており信頼できる二次資料として依拠して記事を書くことは避けるべきという理由の立証を求めたのです。新しい研究の出版や、同書が(なるべく改訂されて)活字で再販されることを望みますし。「ニコラエフスクの破壊」についてももっと手に入りやすくなるようにと思っています。

 ではとりいそぎ失礼しました。

郎女郎女 2012/10/08 23:07 最初にまず「決起」についてお話します。

>「決起」という言葉の章立てや地の文での使用は、記事のように日本側、ソ連側と意見の立場を分けるなら、日本側の立場を支持することになってしまうと思いますが。

実は私、なにも考えることなく、自然に「蜂起」としておりました。
それが、ある突然、全部「決起」になっておりまして、書き換えた方はわかっておりますので、文句をつけようと思えばつけられたのですが、日本文学を専攻していながら、「蜂起」と「決起」のちがいについてよくわかりませんし、日本軍は正式な軍隊で、しかも赤軍のもとでも治安維持の一翼を担っていたわけですから、「決起」ということでいいのかもしれない、と、文句をつける理由を見いだせませんでしたので、そのままです。どうちがうんですか? 決起と蜂起は。書き換えた方はおそらく男性ではないかと思うのですが、「決起」を問題視なさるあなたも男性でしょうか? 殿方の考えることは、私には、さっぱりわかりません。

例えば「呉成崙」とか、ほとんど私が一人で編集しておりまして、アクセス数もごく少ない項目でしたら簡単なのですけれども、尼港事件のような、多くの方が関心をもつページには多人数がかかわり、場合によっては激しい論争を覚悟しなければなりません。私が最近経験しました書き換え論争は、金日成でして、ノートの最後の項目「金日成のパルチザン活動について」に記録があります。ともかく、「決起」につきましては、私にとりましては蜂起でも決起でもどちらでもいいことでして、もとにもどすことを要求します理由が、ありませんでした。

シベリア出兵に関しましては、さしあたってはwikiを編集するつもりはありませんし、編集しますときには、「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922 」をまったく顧みない、ということはありえません。ただ、他書との比較は当然行いますから、今のように、ほとんど丸写しということはまた、ありえないことです。私から見ましたら、今のwikiのシベリア出兵は、内容が偏りすぎています。まず第一、外交関係がろくに書かれていません。とはいいますものの、シベリア出兵全体につきましてはまだ勉強中でして、編集しますのは、まだまだ先の話です。

>注80で付録Bが典拠とされている引用の引用元はこの決議文ということでよろしいのでしょうか?

いえ、ちがいます。書き方が悪いのでしょうか。付録Bに全文収録されています「トリャピーツィンがニーナ・レベデワと連名で、各地に打電した電報声明文」です。

>パルチザンのニコラエフスク撤退は現在の記事では1920年6月2日以降と読み取れます。パルチザンの占領下で(有志でなく)市当局に調査委員会が作られた思えないので、この文はどこかが誤記だと思いますがそれでよろしいでしょうか?

「5月に調査会が編成された」、といいますのは、誤記ではありません。グートマンの謝辞の一部に書いてあることなんですが、ちょっと意味がとり辛いんです。その前から証言集は編纂されていた、みたいなことも書いてありまして、しかも調査委員会のメンバーは、日本の当局筋からニコラエフスクと州内のその他の地域での調査活動指揮の許可を得ていながら、5月中には、サハリンに移動した、というのです。メンバーの一人に、ニコライ・マトベーエフ(幕末に函館で生まれた初めてのロシア人で、ウラジオストクで活躍していた詩人)がいたそうです。
これは私の憶測ですが、5月には、ニコラエフスクから逃げ出す避難民もかなり出てきていましたし、夏場はニコライエフスクにいて、冬はウラジオストクという人などもいたわけです。あるいは、市議会かなんかの要職者の中に、ウラジオストクにいる人がいて、調査委員会の核も、5月にウラジオストクで編成されたのではないでしょうか。

グートマンの「ニコラエフスクの破壊」は、調査委員会の報告書を入手して書かれたものだそうなのですが、報告書に付随しました「57名の口述証言」が、1924年にベルリンで出版されました「ニコラエフスクの破壊」にそのまま収録されていた、ということは、ないのではないだろうか、と思います。「ニコラエフスクの破壊」本文にも、文書や証言がかなりの分量で引用されていまして、原暉之氏が読んでおられたのは、実は本文だけだったのではないのか、とも思われます。
エラの米語訳には「57名の口述証言」のうち33名のものが付録として収録され、和訳の付録Aがそうなのですが、原氏がこの証言集を読んでおられたら、いくらなんでも『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』は、ああはならなかったのではないか、と、私は思います。といいますか、原氏がそれくらいの良心はお持ちだと、信じたいと思います。グートマンが反共主義者だといいますバイアスを、大きく見積もりすぎただけだったのだと。

証言集は、パルチザンの証言も複数含んでいますし、そちらを読みますと、私には『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』のパルチザンの話は、まったく信用できません。しかし、片方だけ書くのも不公平ですから、グートマンのパルチザンの話も、大方載せませんでした。

『インディギルカ号の悲劇――1930年代のロシア極東』を書かれた原氏ですし、学者としての良心を見せてくださることを、切に願います。

すてはんすてはん 2012/10/09 00:33 横から失礼。

>>書きかえたことの妥当性が見いだせません
>あなたがそう判断なさったことの妥当性は、どなたが担保なさるんですの?

いや、あなたが反応すべきはそこではなく、その前の、
>これは歴史研究において避けるべきことだと思われます
という記述なんではないかな。
一方当事者に対する過度な心理的接近は歴史学においては慎むべき、あなたはそれをしている。
そういわれたんだから、答えるべきは『いや、心理的接近はしていない』もしくは『接近していても問題ではない』であるはずで…
ああ、つまりあなたは後者の態度を取ると明言されたのか。

郎女郎女 2012/10/09 05:23 >一方当事者に対する過度な心理的接近は歴史学においては慎むべき

それ、いただきます。私が原暉之氏に差し上げたい言葉です。「一方当事者に対する」をのぞけば、「心理的接近」はむしろ研究者に必要とされることですが、客観性は担保されるべきですわねえ。

NakanishiBNakanishiB 2012/10/09 06:18 今回も取り急ぎで一部になりますが失礼します。法華狼さんも忙しそうなので
>郎女さん
>実は私、なにも考えることなく、自然に「蜂起」としておりました。
それが、ある突然、全部「決起」になっておりまして、書き換えた方はわかっております
 なるほど、ウェブ上の辞書や手元の辞書を調べると、「蜂起」は蜂という字が入っているように集団的な実力行使であり、「決起」はいっちした目的のための行動にという感じのようですね。私の感覚では決起には肯定的なイメージが強い(何か極めて重大な目的のために立ち上がると)のですがこれは個人的なもので微妙ですが、書き換えた人が私と同じ感覚を持っていたようですね。二・二六事件では反乱将校自ら「決起」(蹶起)を使っています。日本寄りと感じたのはこのイメージが強いのかもしれません。「蜂起」はWikipediaと並べて検索すると、ワルシャワ蜂起、ワルシャワ・ゲットー蜂起、ソウェト蜂起、イースター蜂起などが並んでいます(「決起」はずっと少ない、はじめに来ているのは三島事件)。

>日本軍は正式な軍隊で、しかも赤軍のもとでも治安維持の一翼を担っていたわけですから、「決起」ということでいいのかもしれない、と、文句をつける理由を見いだせませんでした
 日本軍は正式な軍隊で指揮系統もきちんとしていた、しかも軍事行動自体に居留民がかかわっていなかったのは確実のようです、だからこそ「蜂起」も「決起」も適切でないと感じます。用例を見る限りどちらも正式の軍事行動ではない「反乱」というニュアンスがあるからです。その点日本人がすでに危険にさらされていたといった正当性があったとしてもです(この正当性が論議の中心ではありますが)。ですので、中立的でより的確な用語ですが、「正式な軍事用語のほうがいいのでしょうが、詳しくないので…。「攻撃」くらいのほうがいいと思います。これは私の意見ですが。


>「決起」を問題視なさるあなたも男性でしょうか? 殿方の考えることは、私には、さっぱりわかりません。
 男性です、法華狼さんについては確認していません。


>尼港事件のような、多くの方が関心をもつページには多人数がかかわり、場合によっては激しい論争を覚悟しなければなりません。
 それは了解しました。だからこそ私は、Wikipediaの外から書いているわけです。ただ全面書き換えはともかく「決起」のような言葉の入れ替えや、明白に問題だったり不要である記述の修正はスムーズに行えればいいのにとは思います。

NakanishiBNakanishiB 2012/10/09 06:22 >>注80で付録Bが典拠とされている引用の引用元はこの決議文ということでよろしいのでしょうか?
>いえ、ちがいます。書き方が悪いのでしょうか。付録Bに全文収録されています「トリャピーツィンがニーナ・レベデワと連名で、各地に打電した電報声明文」です
これは勘違いしていました。「そのうちに1920年8月16日、サハリン州議会で採択された「ボルシェヴィキに関する決議文」というのがありまして、これと混同しておりました。」という文を読んで決議文が記事内に使われていると思ってしまいましたすいません。


>誤記ではありません。グートマンの謝辞の一部に書いてあることなんですが、ちょっと意味がとり辛いんです。その前から証言集は編纂されていた、みたいなことも書いてありまして、しかも調査委員会のメンバーは、日本の当局筋からニコラエフスクと州内のその他の地域での調査活動指揮の許可を得ていながら、5月中には、サハリンに移動した、というのです

 なるほど、とりあえず証言の中に5月29日の出来事に触れたものがあるので、証言は最後までに市に残った人々によって行われたものもあるようですね。5月の虐殺についての証言があるのならいくつか引用があってもいいともかとも思います(これも尼港事件の一部のはずですから)。証言がいつどこでどのように行われたのか知りたかったこともあって質問してみました。


>グートマンの「ニコラエフスクの破壊」は、調査委員会の報告書を入手して書かれたものだそうなのですが、報告書に付随しました「57名の口述証言」が、1924年にベルリンで出版されました「ニコラエフスクの破壊」にそのまま収録されていた、ということは、ないのではないだろうか、と思います
 これはグートマン自身による増補版が存在する、あるいはエラが独自に入手したものを追加した可能性があるということでしょうか?。後者の場合、エラが付録としてつけたということでしょうか?。本文の証言に引用されているのですから証拠としても記録としても89年以降の新資料である可能性があるわけですね。


>私から見ましたら、今のwikiのシベリア出兵は、内容が偏りすぎています。まず第一、外交関係がろくに書かれていません。
 そうですね、外交関係は最低限で済まされているとは思います。まだしも研究の多いほうなので追加する分にはかまわないかと。日本軍の行動の実態などもまだ日本語の一次資料がありますし、トリャピーツィングループに限らないパルチザンやソ連中央、白軍の動向、現地の住民の様子、など出来れば書くべきことは多いと思いますが、さらに研究の発表が進まないと。その点ではやはり原氏の本の改訂しての出版を望んでいます。


>一方当事者に対する過度な心理的接近は歴史学においては慎むべき
>『インディギルカ号の悲劇――1930年代のロシア極東』を書かれた原氏ですし、学者としての良心を見せてくださることを、切に願います。
 自らのロシア革命への共感があるからこそ書かれたのだと思います。共感するからこそ距離をおくことはペレストロイカ以降のソ連史の領域の迷走に関して塩川伸明氏の本で散々肝に銘じさせられたものではあります。


 では、取り急ぎでだいぶ不十分ですいません。この問題については個人的に興味は改めてありますが、Wikipediaでどうするかは難しいですね。時間的にも金銭的にも大変ですし。この点でWikipediaはやはり構造的に難しいところが多いと感じますがどう変わっていくのか。

郎女郎女 2012/10/09 14:25 「蜂起」と「決起」についてのご返答、ありがとうございます。つくづく、殿方って面倒なことを考えるものだなあと、感心します。

「ニコラエフスクの破壊」付録の証言集について、ですけれども、エラが独自に入手したのではないか、と、つい憶測してしまった次第です。

>本文の証言に引用されているのですから証拠としても記録としても89年以降の新資料である可能性があるわけですね。

おっしゃることの意味が、よくわかりません。
グートマンの「ニコラエフスクの破壊」本文は1924年に書かれています。
もしかしまして、ソ連崩壊で出てきました資料、という意味でしょうか?
だとすれば、おそらく、そうではないと思います。
「ニコラエフスクの破壊」本文の資料となりました委員会の報告書には、複数の文書がふくまれているようでして、そのうち、グートマンが「謝辞」で存在を述べていますペトロパブロフスクの私設弁護士レービン氏の回顧レポートについて、エラは「発見できなかった」としています。しかし同じくグートマンが語っていますエーメリアノフ(ペトロパブロフスク管区裁判所職員)氏の回顧レポートにつきましては、アメリカのロシア書誌学者からの情報により、1940年に上海で出版されたことをエラはつきとめ、手に入れたそうです。エーメリアノフ氏本人は1920年代にすでに粛清されています。
グートマンの「謝辞」を読んでいますと、委員会の報告書はどうも、ロシア国外に持ち出されたようです。グートマンは、いまだソ連にいる人々や家族の身に弾圧が及ばないよう、関係者の名前を明らかにするわけにはいかない、というようなことを書いていますので、1924年時点で、果たして名前入りの証言集がそのまま付録になっていたのか、疑問に思ったような次第です。原本がどうなっているのかわかりませんが、印刷物である「ニコラエフスクの破壊」本文とは別に、原本でなければ複写が、西側にあったとしてもおかしくないのかなあ、と妄想しました。

最近ネットで見かけましたロシア人研究者の日本語の情報では、グートマンは「ニコラエフスクの破壊」出版後、かなり早くに行方不明になっているようなことでした。

和訳本、古書店の話では150部限定だそうですが、かなりりっぱな装丁の本なんです。ciniiで見ましたら、オックスフォード、ケンブリッジの図書館に和訳本が入っていますが、日本国外に出ているものも、けっこうあったりするのでしょうか。

「ラーゲリのフランス人―収容所群島・漂流24年」のジャック・ロッシ氏は、ご自分が実はもともとコミンテルンの情報部員であったことを、ラーゲリーを出て、ソ連を脱出し、世間に出ました晩年にも、なかなか表明できなかったそうですね。ラーゲリーでロッシ氏と知り合い、無二の親友になりました内村剛介氏が、なにかで、確か原氏に皮肉をおっしゃっていたことを、なんとなく思い出しました。

wikiに関してですが、私がはじめて注目しました時、西南戦争関係の項目が、他とくらべまして格段に充実しており、不思議だったんですが、後で同好の方からお聞きしましたところでは、西南戦争関係者のご子孫が大学の先生(日本史じゃないのですが)になっておられて、夏休みにゼミの生徒さんだかを使って(アルバイト料を払ったのかどうかは存じません)、充実させたのだそうでして、笑いました。

「ニコラエフスクの破壊」の米訳、和訳の経緯を、映画「ドクトル・ジバコ」にからめて、歴史オタクではない友人に語りましたら、かなりおもしろがってくれました。そのうち、ブログに書くかもしれません。そうなりましたら、こちらにトラックバックさせていただこうと思いますので、どうぞ、うちにもお越しください。

郎女郎女 2012/10/09 15:44 うわっ。
ぼーっとしておりますのか、見逃しておりました。グートマンは謝辞で、「審問を受けた人は50名にのぼるが、著者は、このうち犯罪の全体像を浮かび上がらせてくれる重要な証言だけを選んで、本書に掲載した」と述べているのですが、これがエラの言います33名の証言(和訳の付録A)と合致するのかどうか、ということなんですが、わかりません。

郎女郎女 2012/10/09 16:08 もうひとつ。申し遅れました。
「謝辞」に「米訳者(エラ)注」がついているのですが、そこに「レービン氏が書いた報告書(回顧レポート)を捜したのであるが、調査委員会の記録の中にも、また報告書そのものも、発見できなかった」とありまして、「調査委員会の記録」は現存するようなんです。

NakanishiBNakanishiB 2012/10/10 15:48 どうも、Wikipediaので記事のあり方などの問題についてはむしろブログ主の法華狼さんにコメントをいただきたいんですが。とりあえず続きですいません。


>郎女さん
 「尼港事件」の記事についての私の感じた問題点は大体出せたかとは思います。すべてに答えてもらえたわけではないですけど、それはこちらから自らの興味も含めて質問をしたわけだし、私も返していないところがありますので。記事のテーマ的には私のほうが関心が高いんですが、歴史資料の扱い方や歴史記述についての態度などは法華狼さんのほうが造詣が深いと思います。


>つくづく、殿方って面倒なことを考えるものだなあと、感心します。
 「殿方」と言われると…、あと法華狼さんが男性とは確認していません(^_^;)。「決起」のような表現にはやはり一定のニュアンスがあるということだと思います、少なくとも二人はいるわけです。それと失念していましたが、「「パルチザン部隊は、ニコラエフスク市内で朝鮮人、中国人を集めて部隊を編成し、革命記念日に日本軍を抹殺するとの風評が流れた。3月11日午後になって、日本軍は武装解除を求められ、しかも期限を翌12日正午と通告されたので、自衛上、決起した」日本外交文書 大正9年』第一冊下巻p793」日本側がそもそも「決起」と表現しているんですね。これは正当性を要求するという意味では二・二六事件での決起の使用と重なっているでしょう。Wikipedia上ではこういう表現の問題はけっこう議論の種となっていると思うのですが、それは一応それなりの理由があると思います。

>>本文の証言に引用されているのですから証拠としても記録としても89年以降の新資料である可能性があるわけですね。
>おっしゃることの意味が、よくわかりません。
グートマンの「ニコラエフスクの破壊」本文は1924年に書かれています。
もしかしまして、ソ連崩壊で出てきました資料、という意味でしょうか
 いえ、郎女さんの推測したように「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922 」(および「尼港事件の諸問題」)に証言集本体は参照されていないのではないかという意味です。

>グートマンの「謝辞」を読んでいますと、委員会の報告書はどうも、ロシア国外に持ち出されたようです。グートマンは、いまだソ連にいる人々や家族の身に弾圧が及ばないよう、関係者の名前を明らかにするわけにはいかない、というようなことを書いていますので、1924年時点で、果たして名前入りの証言集がそのまま付録になっていたのか、疑問に思った
>グートマンは謝辞で、「審問を受けた人は50名にのぼるが、著者は、このうち犯罪の全体像を浮かび上がらせてくれる重要な証言だけを選んで、本書に掲載した」と述べているのですが、これがエラの言います33名の証言(和訳の付録A)と合致するのかどうか
 なるほど了解しました。ということは本文中ではしばしば証言の引用時に証言者名を明らかにしていないということでしょうか?。ならばそのような配慮がある可能性はあるとは思います。ただやはり英訳者が独自に手に入れていたらその旨書くと思います。57名の証言者中33名の証言集というのは以前のコメントに書いてありますね、もし残り24人分も存在しているならそれもいつか公開されるほうががいいでしょう。

NakanishiBNakanishiB 2012/10/11 05:55  後半のコメントです投稿したつもりだったんですが…
>レービン氏が書いた報告書(回顧レポート)を捜したのであるが、調査委員会の記録の中にも、また報告書そのものも、発見できなかった」とありまして、「調査委員会の記録」は現存するようなんです。
 それが現存するんですか、やはりロシア語の本は欧米には残っているのですね誰か研究者の方が手に入れてくれるといいんですが、すくなくとも井竿富雄氏はそのことを知っているわけですし。


>和訳本、古書店の話では150部限定だそうですが、かなりりっぱな装丁の本なんです。ciniiで見ましたら、オックスフォード、ケンブリッジの図書館に和訳本が入っていますが
なるほど、古本で買うのは難しい部数ですね。井竿氏の論文によると古銭収集家の方が訳したようですが、出版元名を見てなるほどと。



>ラーゲリーでロッシ氏と知り合い、無二の親友になりました内村剛介氏が、なにかで、確か原氏に皮肉をおっしゃっていたことを、なんとなく思い出しました。
ロッシのシベリアの収容所についての本はいろいろな意味で評価が高いですね、未読ですが…。内村剛介氏というと、ずいぶん昔ですがアレクサンドル・ジノヴィエフという作家について調べていたときに読んだ、古い文藝春秋の「日本人によって満州とは何か」という座談会での発言が記憶に残っていて。日本軍のふるまいはやむをえないんだという感じの。工藤幸雄氏が、中学で中国人が処刑された時の記憶を述べたことセットになって(直接の反応であったという記憶で)残っていて。もちろん満州で4人の社会的位置はまるで違うし、既に内村氏がシベリア抑留体験者であることは知っていましたが、だからこそともいえます。CINIiや国会図書館では石堂清倫他となっていますが、、http://mimizun.com/log/2ch/kyousan/968855187/ ネット上にこういう引用が残っています。引用部分が興味深いのでリンクしときます。
まあ、その後いろいろな事情など知るにつれて心に引っかかり続けています。今回の件でコメントを書き込んだそもそもの理由とか思うと、ネットでいろいろ調べられちやう便利な時代になりましたが、もう一回読み返したほうがいいかなとちょっと思いました。そういえば、もう生きているのは澤地久枝氏だけです。



>wikiに関してですが、私がはじめて注目しました時、西南戦争関係の項目が、他とくらべまして格段に充実しており、不思議だったんですが
それは面白い話です。しかしさすがにそれは自分でやれよではあります。あと英語版の記事丸写しは目立ちますね。英語版はいろいろな関係者が対立しているものもありますが、むしろそういう対立を経ずに訳されちゃったものがむしろ一見整然としているだけに問題かなと思います。

>「ニコラエフスクの破壊」の米訳、和訳の経緯を、映画「ドクトル・ジバコ」にからめて、歴史オタクではない友人に語りましたら、かなりおもしろがってくれました。そのうち、ブログに書くかもしれません
 そうですね、やはりまだいろいろ知りたいですね。私もやはりさして知らないことが多いですから。それにしても150部というのはどうにも少なすぎるので何とかならないやら。というわけとりあえず失礼いたしました。

hokke-ookamihokke-ookami 2012/10/11 09:06 長文コメントが並んで重くなったので、新しいエントリを立てました。書き込めなくなった場合、適宜に移動してください。
http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20121010/1349913626


とりいそぎ、郎女さんへ
>また、「尼港事件と日本社会、一九二〇年」におきまして、シベリア出兵との関係にしぼりましても、井竿氏は、「武装解除されて殺害された」としておられますし、「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922 」の「集団自殺ではないのか」というような憶測は、まったく考慮されないでまとめておられますよねえ。

私とNakanishiBさんとでは、Wikipediaの現状に異を唱えていることは同じでも、理路や根拠はところどころ異なっています。それを理解し、区別しながら返答してください。
NakanishiBさんが『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』の反映を重視していることに対し、私は現状が通説と異なる筆致になっていることを問題視しています。私は原論文を必ずしも重視していませんし、むしろ歴史学者の意見を原主張のみに象徴させ矮小化するような態度こそを批判します。
ゆえに私は、外国語版のような短くまとまった内容は、証言集からの転載が多くて、通説とも外れている日本語版よりも比較的に良いと思っています。外国語版が原主張を重視していなくても、それ自体は大きな問題とは考えていません。

>おわかりなんだと存じますが、渡部昇一氏や門田隆将氏の著作については、私の編集ではありません。「国辱記」「アムールのささやき」については、原氏も部分的に資料としての価値を認め、実際、ご本人が典拠にしておられます。文句がおありなら、原氏におっしゃってください。

私もNakanishiBさんも、もともと郎女さんの編集のみを名指しで批判したわけではありません。Wikipediaの項目そのものを批判したのです(加えて、私はそれを編集に関わったものが事実上の自薦をしたことも批判しましたが、その対象は郎女さんではありません)。
私が批判した部分に郎女さんが関わっていないということは自由です。しかしそれは、現状の項目が不十分な状態という批判を裏づけることになります。

>「蜂起」と「決起」についてのご返答、ありがとうございます。つくづく、殿方って面倒なことを考えるものだなあと、感心します。

最後に、尼港事件で休戦を破って戦闘を開始したことについて、「決起」と表現されている現状について。
すでにNakanishiBさんが指摘されているように、「決起」や「蜂起」という表現には、それを行った者の主体性などがニュアンスとしてふくまれます。そのような恣意的な表現の選択によって、自国の加害を弱め、被害を強める問題は、言語学の面からも批判されていることです(その意味では一般の百科事典も不十分な状態ではありますが)。
http://www.amazon.co.jp/dp/4480857621
いわんや、表現を批判された時に性差に批判の背景を見いだすこと、つまりは普遍性がない批判であるかのように主張していることは、大きな誤りです。

>北海道拓殖銀行の調査が日本書紀ですか。失笑しました。

あと、比喩表現くらいは理解してください。

郎女郎女 2012/10/12 15:02 NakanishiB さま

まあ、私、なんといううっかり者でしょう。ありがとうございます。日本外交文書に「決起」とあったんですよね。それならば、私としましては決起で文句はございません。そういえば、私にとりましては「総括」という見出しの方が違和感があったのですが、考えてみましたら齊藤学氏の和訳が『ニコラエフスクの破壊 =尼港事件総括報告書=』というものでした。あの方は、史料に忠実な言葉使いをされておられるんですね。

>本文中ではしばしば証言の引用時に証言者名を明らかにしていないということでしょうか?

その通りです。本文中であきらかにされていますのは、エーメリアノフ氏の名前だけ、といっていいと思うのですが、エーメリアノフ氏一家は当時、日本軍が統治していました北樺太にいまして、弾圧は及ばないと思われていたようです。

ご紹介いただいた文藝春秋の座談会は、今度、近くの図書館でさがしまして全文、読んでみます。ブログでは私、言いたい放題ですので、ご期待にそえるものとは思えませんが、書き始めましたので、どうぞお遊びにおこしください。

法華狼さま

>比喩表現くらいは理解してください。

いや、不適切な比喩だと失笑いたしましただけです。

私は、ここへ「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922 」はciniiで有料でDLできますよ、という情報をお教えしに参りましたところが、ロシア革命史の文献にお詳しい方がおられて興味深かったので、会話させていただいていただけです。法華狼さまのお考えにつきましては、失礼ながら、まったく関心がございません。悪しからず、ご了承くださいませ。

hokke-ookamihokke-ookami 2012/10/17 09:06 すてはんさんへ
どうにも郎女さんには、資料を集めることと、それを読み解けることの断絶を感じてしまいますね。


NakanishiBさんへ
>Wikipediaので記事のあり方などの問題についてはむしろブログ主の法華狼さんにコメントをいただきたいんですが。

信頼性が異なる出展から雑多に引いた、雑学豆知識的なものとして利用するしかないかなあ、というのが正直なところですね。
そもそも百科事典は枯れた知識を集めるものなので、どうしても編集者が最新版へ更新しようとするWikipediaとは元から相性が悪いんだと思います。


郎女さんへ
>法華狼さまのお考えにつきましては、失礼ながら、まったく関心がございません。

それは、(2012/10/07 10:53)等で返事してきた自分自身に対して不誠実な態度ですね。

一つだけ、Wikipediaの編集に関わる問題を指摘しておきましょう。

>「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922 」は2次資料でしかありえませんので、wikiでは1次資料の方が優先されます。

いったん上記のように主張しましたね。
しかし「一般に、ウィキペディアの記事は一次資料に基づくべきではなく、むしろ一次資料となる題材を注意深く扱った、信頼できる二次資料に頼るべきです」とガイドラインにあることを私に指摘されました。すると、郎女さんは(2012/10/07 23:29)で「一般に〜基づくべきではなく、」という部分を引用せず、「十分頼っていますよ。どこが頼ってないのでしょうか」と話をすりかえました。
正直にいって、郎女さんは一次であれ二次であれ資料をとりあつかう能力が欠けていると思わざるをえません。

NakanishiBNakanishiB 2012/10/17 18:45 あれ、今ようやくリプライコメントに気づきました。すいません
>郎女さん
>日本外交文書に「決起」とあったんですよね。それならば、私としましては決起で文句はございません。
 あ、いや日本の外交文書に「決起」とあるからこそ、当時のソ連側の見方との日本側の見方の対立を軸に事件の見方が編集されている現在のWikipediaの記事上では「決起」はまずいと思ったのです。「蜂起」は前述したようにどちらかといえば言葉の意味上ちょっと不適切と。ですから「攻撃」ぐらいがよいと書きました。以前の記事には「奇襲」とありますがこちらのほうがより適切ではなかったかとは思います。

>私にとりましては「総括」という見出しの方が違和感があったのですが、齊藤学氏の和訳が『ニコラエフスクの破壊 =尼港事件総括報告書=』というものでした。
 うーん、「総括」という言葉はあまりいい響きはありませんね、ちょっと関係あるか微妙ですが連合赤軍事件の影響が大きいと思いますね。しかし十分に普通の用語として用いられると思います。

>その通りです。本文中であきらかにされていますのは、エーメリアノフ氏の名前だけ、といっていいと思うのですが
 了解しました、だとすれば本文で匿名で使用した証言者の名前が載っている付属証言集ははじめはなかった可能性はあります。きちんとした研究が待たれます。

>ご紹介いただいた文藝春秋の座談会は
 あくまで昔の個人的な思い出として紹介したのですが、このようなメンバーが集まって満州について話すこと自体が興味深い企画だったとは思います。どうもだいぶ余計なことまですいませんでした。

NakanishiBNakanishiB 2012/10/17 19:05 >法華狼さん
Wikipediaについての意見を求めたのは、私よりはるかに利用者以上として(特に歴史修正主義で)Wikipediaに対して関わってらっしゃるからです。

>そもそも百科事典は枯れた知識を集めるものなので、どうしても編集者が最新版へ更新しようとするWikipediaとは元から相性が悪いんだと思います
 それはわかります。基本に余計なものが付け加わることでどんどん変になってしまいます。あえて再度Wikipediaに関連して法華狼さんを呼んだのはその辺の問題についてどうすればということもあります。私が一番いらだっていたのはそのあたりでしたから。これは郎女さんとのかかわりはちょっと微妙ではあるわけですが
 ただ個人的には同時に最新のことが載ってるからいいというところもあって、歴史を含む学術などを除けばひとつの情報ポータルとしてのあり方としては混乱は多いけど独自性があっていいのではとも感じます。いや、日本の最近のエンタメとかなどですね。


>NakanishiBさんが『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』の反映を重視していることに対し、私は現状が通説と異なる筆致になっていることを問題視しています。
 以前の「赤色テロル」と尼港事件の問題もそうですが、シベリア出兵の記述はどうあるべきかという具体的なことについて法華狼さんとちょっと齟齬があるんだと思います。例えば原氏の業績のようなロシア側を含めた総合的背景をもとにした記述が足りないことは、「尼港事件」を特別に注目すること自体への距離のとり方を難しくすると思います。これは最初のコメントからの論点といえます。


>郎女さん
>法華狼さん
 とりあえず、このコメントランでWikipediaの「尼港事件」の記事について最初に触れたのは私ですし、質問したのも私からです。そういうわけで私に第一の責任があるわけですが、興味深い話を聞けたのでそちらも聞きすぎてしまって、最初の批判的な質問について法華狼さんに押し付ける形になっててしまってすいません。

 既述のとおり、私が現在の「尼港事件」のWikipedia記事に批判的なの変わりませんが、郎女さんと記事について議論するためにより適切な場だとも思っていません。郎女さん自身もここではあくまで私に問われたから答えたのでもあります。ただ現実に議論はしたし、議論をするからには、それなりの前提の共有が必要であるわけですが、十分になされていないとは思います。いろいろと私も不満は表明しています。しかし同時にこの経緯については最初に質問して継続して返答していた私に最初の責任があると思います。さらに途中から「議論」とテーマへの興味から(私が自分の知りたいことを郎女さんに聞くという)「会話」を同時にやっていたともいえることの問題があります。その点の責任も私にあります。法華狼さんが議論上の「誠実さ」を問題にしていたのでその点についてちょっとすいませんでしたと。
 どうも毎度とりいそぎすいませんです。

hokke-ookamihokke-ookami 2012/10/23 01:53 >ただ個人的には同時に最新のことが載ってるからいいというところもあって、歴史を含む学術などを除けばひとつの情報ポータルとしてのあり方としては混乱は多いけど独自性があっていいのではとも感じます。いや、日本の最近のエンタメとかなどですね。

アニメ作品などの細々した設定や、各話リストやスタッフでは、時たま参考にしています。まあ、多少は間違っていても傷つく人は少ないでしょうし(苦笑)。実際に調べてみると、情報抜けや誤記もけっこうありますので注意は必要ですし、やはり日記で情報源として使うのは避けていますが。
他にWEBジャーゴンではニコニコ大百科、エンタメの受容状況ではpixiv百科事典が充実していますね。

NakanishiBNakanishiB 2012/10/23 15:06 どうもご返事ありがとうございます。
>WEBジャーゴンではニコニコ大百科、エンタメの受容状況ではpixiv百科事典が充実していますね。
 なるほど参考にします、Wikipediaの問題は読み始めるとリンクをたどってとまらなくなるところですね、こう教えてもらうとまた余計なことを読み始めて(^_^;)。

>アニメ作品などの細々した設定や、各話リストやスタッフでは、時たま参考にしています。
最近は割とアニメを見るのそれも読んでますね、でも雑多な情報が羅列されていますって注意が張ってあると却ってそれを読んじゃうみたいな。でなぜ私はこんなもの調べてるんだろうと…。

>多少は間違っていても傷つく人は少ないでしょうし(苦笑)。
 まあ、難しいところですね、公人といえるか微妙な人のエピソードだったりもしますから。明らかに悪意ある記述も見かけますが、それはもう全体にあるので…。では。

hokke-ookamihokke-ookami 2012/10/24 22:50 >公人といえるか微妙な人のエピソードだったりもしますから。

そうですね、批判的な記述……特に作品内や作品外で社会問題に言及してインターネットで反発されたような場合は、かなり眉唾な情報も多いです(さすがに差し替えられるのも早いですが)。

>明らかに悪意ある記述も見かけます

作品評価などは、明らかに編集者の私的評価でしかないものも多いですね(苦笑)。それなりに名のある批評家の見解を引いているなら、まだ意味もあるのですが。
……まあ、私的評価であることが自明なので、歴史認識などと違って味わい深く読むこともできますけどね(笑)。

nFSnFS 2014/06/06 03:42 NakanishiBさんと郎女さんの文献に対する姿勢および、最初主張にズレはあったものの、最終的には双方が双方の存在を幾分認めた形になったのに対し
ブログ主のhokke-ookami氏は思想的な部分が強すぎて、論理の妥当性を欠いているように見受けられる。
外部者から見ての所感。
これが(自分の知る範囲で)支持されてきたから正しいだとか、どういうスタンスの人物が書いているようだからダメだだの、そういう姿勢が極めて目立つ。
どうも、その後の日記を読んでも同じような記述が目立つ。

本当に残念。あなた以外の人は、真摯に歴史を討論しているのに。

hokke-ookamihokke-ookami 2014/06/06 23:41 >最終的には双方が双方の存在を幾分認めた形になったのに対し

議論の結果として歩み寄りができたのならば一般的に良い結果なのかもしれませんが、歩み寄りができなかったからといって一方もしくは双方を批判できる根拠になるわけではありません。相違点を浮き彫りにすることも議論の目的のひとつでしょう。

>ブログ主のhokke-ookami氏は思想的な部分が強すぎて、論理の妥当性を欠いているように見受けられる。

たとえば(2012/10/17 09:06)での私の指摘を読んでの解釈でしょうか?
「一般に、ウィキペディアの記事は一次資料に基づくべきではなく、むしろ一次資料となる題材を注意深く扱った、信頼できる二次資料に頼るべきです」というガイドラインが、どのような思想的な部分にもとづいているというのでしょうか?

>これが(自分の知る範囲で)支持されてきたから正しいだとか、どういうスタンスの人物が書いているようだからダメだだの、そういう姿勢が極めて目立つ。

私が郎女さんのノート記述に初めて言及した(2012/10/03 06:39)を見ていないのでしょうか。私が批判したのは「パルチザンのあまりの蛮行に、白系ロシア人たちが命がけで残しましたこの調査記録が嘘だったとは、私にはとても思えません」という記述です。
「どういうスタンスの人物」かどうかという姿勢が批判されるべきというなら、まず郎女さんへ批判を向けるべきでしょう。違いますか?

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