法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『オペラ座の怪人』

ガストン=ルルーのサスペンス小説をもとにしたミュージカルを、2004年に映画化した作品。


実写ミュージカルは苦手なのだが、物語がオペラ座を舞台にしており、劇中劇とシームレスにミュージカルシーンへ移行するから、さほど違和感なく見ることができた。時代がかった絵画のような処理がなされた1919年のオークションから導入し、そこで語られた昔話から華々しい19世紀末のオペラ座の情景へ移行する語り口によって、作品全体が舞台劇のようにも感じられる*1
近代の風俗を再現した時代劇のようでもあり、オペラ座の内幕劇のようでもあり、三角関係のメロドラマのようでもある。剣戟も予想外に悪くない。舞台はオペラ座の周囲に限られているが、上下の階層移動でキャラクターの立ち位置を表現する演出によって世界観の広さが感じられた。映像面では非常に充実していた。


ただ、字幕がところどころ古めかしいというか、善人と悪人が俳優の演技より濃く色分けされていて違和感をもっていた。天使であり怪人であるはずの主人公の言葉遣いに深みがない。そう思って最後まで見たら、字幕が戸田奈津子担当だった。
しかも後で調べてみたら、『オペラ座の怪人』は代表的に批判される誤訳作品のひとつだという。受難をあらわす定型句を「情熱のプレイ」と訳していたという話は聞いていたが、この作品だったのか。

*1:過去の実録を語る形式なのは、原作からうまく換骨奪胎している。原作小説では、作者が取材した擬似ノンフィクションという形態をとっていた。

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』

ミュージカル映画の印象を反転させたかのような、2000年のデンマーク映画
まず撮影からして、長回しでじっくり見せる一般的なミュージカル映画とは異なる。日常風景は手振れするカメラで被写体を追うというドキュメンタリーのような描写で、ミュージカル場面は細かくカットを割ってプロモーションビデオのように見せる。
ミュージカル映画は、どれほど悲惨な物語でも、歌い踊る場面だけは映像が快感を生む。しかしこの作品は、主人公の現実逃避として幻覚のようなミュージカルが描かれ、その歌や踊りが楽しげであればあるほど、現実の悲惨さを際立たせる。


そうして描かれた物語は、いろいろな意味で主人公の立場が身につまされて、やりきれなかった。
主人公は、共産圏から米国へ移民した女性で、貧困層の母子家庭の母親であり、遺伝性の視力低下症状も進行しつつある。それでも一人息子のために、複数の仕事をかかえこみ、懸命に働いていた。
そのような同情を受けやすい立場だが、同時に愚かでもある。意固地に周囲の助けを断っては状況を悪化させ、空想にふけって仕事でも失敗ばかり。
だが主人公は、排除されたり隔離されるような罪をおかしたわけではない。周囲にいる人々も、個人個人は少し愚かで優しい人がほとんどだ。それでも主人公は社会から居場所を失い、さらには救いの手を断ち切ってしまった。自尊心で自らを支えつつ抑圧する主人公は、空想の世界でしか自らを哀れむことができなかった。
孤立した弱者を包摂できない社会は、現在の日本でも見られる普遍的な問題だ。だから痛々しさが強く実感できたし、登場人物の多くに共感できた。


そして結末で、主人公はミュージカルの終わりを告げる「最後の歌」をむかえる。社会によって、強制的に幸福な幻想を断ち切られてしまう。それを社会の側が「最後から二番目の歌」にしなければならないのだと問いかける物語でもある。この問いかけは映画が作られた米国より、日本の私たちにより強く問われている。


しかし、遺伝性の病気が何なのかはっきりしないとか、そもそも精神面の負担で悪化したり高額の手術で治るという病気の設定が物語の都合にあわせすぎとか、不幸の連鎖で物語を作っていくのは制作者の意思が見えすぎだとか、いくつか問題も感じた。それでも悪い作品ではなかったと思うが。
あと、ミステリ好きとしては警察や司法の無能さが最大の悪印象ではあった。金銭と異性の関係をきちんと裏取りすれば、あのような結末にはならなかったはず。ただし、ここは物語進行の都合だけで警察を無能にしているわけではない。加害者と被害者の社会的立場から考えて、あの展開で警察が予断をもつこと自体は納得できる。